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Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

検証 長篠合戦

2024年09月21日 18時57分03秒 | 読書

 「検証 長篠合戦」(歴史文化ライブラリー382)(平山優著 吉川弘文館 2014年(平成26)8月1日第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 この本も、いわゆる「歴史小説」というものではなく、「歴史書」といえるものに属するようです。

 「長篠合戦は、天正3年(1575)5月21日、三河国長篠の設楽ヶ原(したらがはら)(当時は有海原(あるみはら))で、織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍勢を撃破したもので、その勝因は織田軍が装備した鉄炮3,000挺であったこと、またその射撃法が三段撃ちであったことはつとに知られている」(P.1)わけで、それが通説になっているわけですけれども、その通説が、近年、多岐ににわたる批判に晒されれているので、それらについて、検証を試みようとして書かれたものでした。

 その多岐ににわたる批判というものは、次のようなことだとのことです。

 

① 長篠合戦に織田信長が投入した鉄炮3,000挺は事実か。

② 鉄炮3,000挺の三段撃ちはあったのか(織田信長の天才的才覚による、この戦法の発明を契機に軍事革命、線戦術革命が起きたというのは事実か)。

③ 武田勝頼の軍勢に騎馬隊は本当に存在したのか。

④ 武田勝頼の作戦は無謀で、自殺行為ともいえる突撃が繰り返されたがそれはなぜか。

⑤ 武田勝頼は、味方の不利を説き、諫める家臣達を振り切って決戦を決断したというのは事実か否か。

⑥ 織田信長の装備した鉄炮とはどのように集められたか。

⑦ 武田氏は信玄以来鉄炮導入には消極的というよりも、むしろその有効性を軽視しており、これが長篠敗戦に繋がったというのは事実か。

⑧ 長篠合戦場には両軍の陣城跡が歴然としており、これが鉄炮と並んで合戦の帰趨に影響を与えたのではないか。

⑨ 馬防柵は、織田信長が緻密な計画を立案し建設したとされるが事実か。

 

 著者は、これらのテーマに関し、多方面から、例えば、考古学の手法を使っての、両軍から合戦場に打ち込まれて残った鉄炮玉の数や大きさ、その材質などの研究成果なども考慮して、詳細に検討を重ねています。

 

 その結果、著者は、

 

「① 織田・徳川軍と武田軍には、「兵農分離」と「未分離」という明確な質的差異はなく、ほぼ同質の戦国大名の軍隊であり、②合戦では、緒戦は双方の鉄炮競合と矢軍(やいくさ)が行われ、やがて接近した敵味方は打物戦に移行し、鑓の競合と「鑓脇」の援護による戦闘が続く、③打物戦で敵が崩れ始めると騎馬衆が敵陣に突入(「懸入」「乗込」)し、敵陣を混乱させ、最終的に敵を攻め崩す、④戦国合戦では、柵の構築による野陣・陣城づくりは一般的に行われており、それ自体は特異な作戦ではなかった、⑤合戦において、柵が敷設されていたり、多勢や優勢な弓・鉄炮が待ち受けたりしていても、敵陣に突撃するという戦法は、当時はごく当たり前の正攻法であった。・・・こうした戦国合戦の実相をもとにすると、武田勝頼が長篠合戦で採用した作戦は、ごく普通の正攻法であり、鉄炮や弓を制圧し、敵を混乱させて勝利を目指すものであったと考えられる。しかしそれが成功しなかったのは、勝頼や武田軍将兵が経験してきた東国大名との合戦と、織田信長とのそれとの違いであたと思われる。それは、織田・徳川軍が装備した鉄炮数と、用意されていた玉薬の分量、さらには軍勢の兵力の圧倒的差とい形で表れたと考えられる。」(P.230~231)

 

としています。つまり、

 

「武田勝頼の敗因、織田信長・徳川家康の勝因は、通説の如き旧戦法対新戦法、兵農未分離の軍隊対兵農分離の軍隊という両軍の質的差異、勝頼の無謀な突撃作戦などではなかったと推察される。両者の明暗を分けたのは擁した火器と弾薬の数量差、そして兵力の差であり、それらはいずれも武田氏と織田・徳川両氏の擁する領国規模と、鉄炮と玉薬の輸入もしくは国産の実現可能な地域とアクセスしうる可能性の格差という理由に絞られるであろう。」(P.234)

 

としています。

 

 そして、著者は、

 

「前著(『長篠合戦と武田勝頼』)と本書の執筆を通して、今も根強い織田信長や徳川家康に対する過大評価は慎むべきだと痛感した。戦後歴史学は、歴史上の人物の業績を社会構造などから読み直すことを課題としてきたはずなのに、戦国・織豊期でいえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という個人の資質に、すべての現象を還元して議論する傾向から、なぜか今も抜け出せていない。たとえば織田権力と戦国大名を同列では論じることは出来ないとか、そもそも織田権力を「先進」とアプリオリに措定し、そこへの到達度で戦国大名の「発展」「後進」の度合いを論じることは本当に意味があることなのだろうか。前著と本書で力説したのは、織田氏も戦国大名であり、あらゆる面からみて武田・北条・上杉・今川氏などと同質の権力体だということだ。最終的に広大な領国を形成し「天下」を掌握したことだけを根拠に、だから戦国大名とは違うはずだ、はもう止めにしようではないか。」(P.240~241)

 

と書いています。


小説集 明智光秀

2024年09月10日 16時37分10秒 | 読書

「小説集 明智光秀」(末國善己解説 作品社 2019年9月30日初版第1刷発行)を読みました。

 

 

 ところで、この本の構成はちょっと変わっていて、次のようになっていました。

 

*明智光秀・・・・・・・・・・菊池寛著

               底本:『日本武将譚』(黎明社、1936年)

*明智光秀・・・・・・・・・・八切止夫著

               底本:『新説・信長十二人衆』(作品社、2002年)

*明智光秀の母・・・・・・・・新田次郎著

               底本:『赤毛の司天台』(中央公論社、1971年)

*明智光秀・・・・・・・・・・岡本綺堂著

               底本:『綺堂戯曲集 第九巻』(春陽堂、1925年)

*ときは今・・・・・・・・・・滝口康彦著

               底本:『権謀の裏』(新人物往来社、1988年)

*明智光秀の眼鏡・・・・・・・篠田達明著

               底本:『時代小説最前線 Ⅰ』(新潮社、1994年)

*光秀と二人の友・・・・・・・南條範夫著

               底本:『幻の百万石』(青樹社、1996年)

*本能寺 明智光秀について・・柴田錬三郎著

               底本:「本能寺」『風雲稲葉城』(富士見書房、1987年)、「明智光秀について(一)、(二)」『柴田錬三郎選集 第十八巻』(集英社、1990年)

*光秀謀叛・・・・・・・・・・小林恭二著

               底本:『異色時代短編傑作大全』(講談社、1992年)

*光秀と紹巴・・・・・・・・・正宗白鳥著

               底本:『日本の文学 第十一巻』(中央公論社、1968年)

*明智太閤・・・・・・・・・・山田風太郎著

               底本:『明智太閤』(東京文芸社、1967年)

*生きていた光秀・・・・・・・山岡荘八著

               底本:『生きていた光秀』(講談社、1963年)

*解説・・・・・・・・・・・・末國善己著

 

 各小説家の明智光秀に関する小説の一部又は全部を切り取ってきて編集し、最後に、末國善己氏の「解説」を載せるという構成になっているわけですね。しかも、その「解説」も、「解説」以前の各小説家の明智光秀に関する小説の一部又は全部について解説をしたものではなく、末國善己氏が、「解説」以前の各小説家の明智光秀に関する小説の一部又は全部とは関係無く、独自に、明智光秀に関して書かれた各種書物を解説しているんです。

 内容的には、各小説家が、明智光秀についていろんな角度から書いていますので、「へえ~~、こんなこともあったんだ。こんな見方も出来るんだ」と感心させられ、読み物としては面白く感じました。

 この本の中で、私の頭の中に残ったものの中の一つを次に紹介し、この本の紹介とさせていただきます。

 それは、上の、「*生きていた光秀・・・・・・・山岡荘八著」の最後の部分です。

 

「光秀はその後新左衛門の助力で、泉州助松村の蓮正寺内に助松庵というのを建ててそれに住み、後に貝塚市鳥羽の大日庵(今は岸和田の本覚寺と合併)に移った。

 そして、秀吉の死んだあと一年、慶長四年の春、ふたたびここへ位牌を残して、飄然と何れかへ立ち去ったことになっている。

 本覚寺に残っている位牌には「鳳岳院殿雲道大禅定門」とあり、輝雲の、道琇のに光秀の二字がかくされている。裏には慶長四年 月 日とあるだけで月日の記入はない。生きていた人の位牌というしるしであろう。この時光秀を連れ去ったのは家康の政治顧問であった天海僧正だと伝えられている。それが事実ならば、光秀の持病は徳川氏の天下にまで及んだことになるのだが、堺関係の資料にも、そこまでのものは見当たらない。

 天海が光秀だったなどという伝説も、このあたりから出たものであろう。玄琳は、後の妙心寺大嶺院の南国梵珪和尚のつもりである。  」


明智光秀の生涯

2024年08月08日 21時58分52秒 | 読書

 「明智光秀の生涯」(歴史文化ライブラリー490)(諏訪勝則著 吉川弘文館 2019年(令和元)12月1日 第1刷発行)を読みました。

 

 

 この本は、いわゆる「歴史小説」というものではなく、「歴史書」といえるものではないかと思います。

 そのため、内容的には、殆ど、たんたんと歴史的事実が羅列されているようなものですから、この本を読むことは、ひたすら、歴史の勉強をしているようなものですので、その読後感を書くのは難しいように感じます(~_~;)

 でも、この本では、「明智光秀」の人物像のようなものは描き出されているようですので、次に、その辺を中心に紹介したいと思います。

 まず、「プロローグ」中には、

 

 「歴史学者の視点から明智光秀の生涯(人物伝)について、初めて著作がなされたのは、高柳光寿氏による『明智光秀』(1958年、吉川弘文館)であろう。」(p.1)

 「その後、高柳氏と並び戦国史研究の大家ともいえる桑田忠親氏が『織田信長』(1964年、角川書店)・『明智光秀』(1973年、新人物往来社)を著した。桑田氏も高柳氏と同様に一次史料をベースに光秀の事績を究明しようとしたものである。」(p.3)

 「両著以降、光秀に関連する新たな史料の登場や、関連史料集(自治体史を含む)の編集刊行が行われ、光秀の動向がより明らかになってきている。」(p.3)

 「高柳氏の『明智光秀』が出されてから六十余年が過ぎた。これまでの歴史学者の研究業績を踏まえて、あらためて光秀の足跡を辿ってみたい。併せて、本能寺に関する諸説について再検討するとともに、筆者としての見解を示すこととしたい。」(p.6)

 

ということが書かれ、その後は、主として、たんたんと、歴史的事実の記載がされてれていました。

 そして、それらの記載を集大成したような、概要のようなものが、最後のほうに「エピローグ」としてまとめられていましたので、その「エピローグ」の中の一部を、次に紹介したいと思います。

 

「高柳光寿・桑田忠親の両氏による『明智光秀』が上梓されて以降、新史料の発見等により明智光秀の日々の行動の実態がより鮮明になってきた。

 本書『明智光秀の生涯』では、先行研究を踏まえて、光秀の事績について、織田信長に仕える以前の足取りから、足利義昭そして信長の家臣となり、政権の枢要として躍動した姿を改めて振り返ってきた。信長の家臣の中で、素性が不明確な人物は多数いた。むしろ細川(長岡)藤孝のような生い立ちが分かる方が希有と言っても過言ではなかろう。光秀も不確かな人物の一人である。状況証拠からして、光秀は美濃国との縁があり、ついで越前朝倉氏との連接があったことは間違いない。しかし、一次史料によって、その活動の様子を明確にすることは現状ではできない。新たな史料の登場を待ちたい。

 有象無象の雑多な人々の集合体である織田家臣団の中から、二人の人物がその才覚によって抜け出し「トップスター」となった。その一人が豊臣(羽柴)秀吉で、もう一人が光秀である。

 光秀は、早くも永禄12年(1569)の段階で、京都周辺の行政事務を担当するなど抜群の事務遂行能力を発揮した。その能力は「京都代官」としても生かされた。天正8年(1580)の大和国の検知では、迅速かつ厳格な姿勢で短期的に処置を済ませている。行政官としても秀でたものがあった。

 武人としてもその資質が多分に備わっていた。元亀2年(1571)の比叡山攻撃の功績により志賀郡を得ている。爾後、戦陣において、数々の軍功を上げることになった。光秀の緻密な姿勢は戦闘にも生かされた。戦場では、敵軍を殲滅させるため、非情な姿勢で臨んだ。光秀は戦時において細密に戦況を報告し、最高指揮官信長の判断を適宜仰ぎ、信長の意のままに戦闘を適切に遂行するなど幕僚として秀逸な能力を示した。情報を制す者は戦闘を制すことは改めて述べるまでもない。」

 「光秀は、近江坂本と丹波における領国経営を展開し、その周縁である丹後、大和も委任され、織田政権の分国支配に寄与した。中央方面司令官として、近江衆・丹波衆・山城衆・大和衆・丹後衆等を軍事指揮下に置いた。

 そして、織田家重臣としての「明智家」が確立されてきた。光秀は、連歌・茶の湯を積極的に嗜むなど当代を代表する文化人であったが、家臣達も挙って文芸活動に精進した。文化的にも明智家は、「マチュア」な状況であった。

 かくして、光秀の領国支配・軍事編成や文化集団「明智家」等の事例を勘案するならば、戦国大名並みの様相を呈してきたのではなかろうか。」

 「信長の両輪である秀吉と光秀を単純に比較するならば、秀吉の方が、情報収集能力・信長に対する「パフォーマンス力」がはるかに長けていたと思う。そして、何よりも、羽柴長秀・黒田官兵衛孝高という人望がある家臣が配下にいたのである。殊に官兵衛は、秀吉の右腕として、諸方面にわたって活躍したわけであり、この点からしても秀吉と光秀の大きな差にもなったのであろう。

 ところで、信長襲撃に関する朝廷や義昭の関与については、明確に証明できる一次史料が提示されない限り、存在しない。その暗殺の機会は偶然にもたらされた「ワンチャンス」であったと思う。決して計画性などはない。あるとするならば、武将としての論理である。

 「本能寺の変」は信長襲撃という日本の歴史上でも著名な衝撃的な事件である。しかし、主君殺しという権力闘争は、人類史上、洋の東西・時代の古今を問わず度々引き起こされてきた。光秀の行為は、決して斬新なことでもない。

 戦国大名の軍事国家は、主に家中粛清によって構築された。「王殺し」を含めて、粛清は戦国大名の権力や権威の源泉であり、家中粛清は常道という鍛代敏雄氏の指摘がある。そして鍛代は、織田信長や足利義満の横死をことさらに取り扱うこともないと言う。私もそのように思う。「王殺し」は、度々発生していた。六代将軍足利義教・十三代将軍足利義輝・三河国松平清康の暗殺などがその例であろう。

 また、織田信長の家臣粛清については、谷口克宏氏により詳細な研究がなされている。信長は、佐久間信盛をはじめとして多くの家臣を粛清してきた。

 粛清には、主君として、台頭してくる者の排除と不要な家臣の処分がある。

 谷口克宏氏の研究によると、信長は猜疑心が強く、執念深いとされる。それが故、粛清と反逆が繰り返された。これに上手に対応できたのが秀吉であろう。むろん秀吉とて安泰ではなかったと思うが、信長の家臣たちはそれぞれ処分されることを想定していたことは間違いない。天正8年の佐久間信盛ら主要家臣の粛清後、四国政策の転換と秀吉の実力の伸展があり、光秀の心は動揺していたと思う。怯えていたのかもしれない。

 信長の光秀に対する見方としては、二つの側面があったと思料する。一つは、光秀の実力の限界に伴う不要論である(ここでは、仕事をやり終えた光秀をもうこれ以上は不要に思う気持ちが込められる)。もう一つは、実力を蓄えた「明智家」を脅威と捉え、排除すべきものと考えた点である。光秀は、この二点について十分に察知していたと思う。」

 「私は、光秀の享年については、五十五歳以上と仮定している。六十七歳であったかは不明であるが、いずれにしても老境に達していたことは間違いないだろう。先述のように、光秀は、光慶(長男)と自然(次男)たちに後のことを託しており、襲撃に際して、「明智家」の行く末をも考慮しての決起であったことは十分に考えられる。

 逡巡する光秀の気持ちをあと押ししたのが斎藤利三なのであろう。光秀が藤孝に送った書状中の「我等不慮の儀」は、思いもよらないもので、生真面目な光秀が大胆なことを仕出かしたのである。

 ただし、光秀にとって、主君信長の暗殺は、武人としての行為の範疇内である。理知的な人物ではあるが、八上城攻めに見られるように冷徹で残忍な一面を有している。主君襲撃を躊躇しつつも、淡々と事を進めたのではなかろうか。

 歴史学の範疇を越えて私見を述べるならば、光秀には、天下を取るという野望が多少なりともあったような気がする。」

 

 なお、最後に、「あとがき」の中の一部を次に紹介し、この本の紹介に代えさせていただきます。

 

 「光秀は、織田信長の名幕僚として活躍し、部隊指揮官としての能力に秀で、行政官として迅速かつ厳格な姿勢で臨んでいた。分国領主としても適切に支配を執行していた。武将としては戦陣においては、冷徹なまでに敵軍に対処していた。また、文芸の面から確認するならば光秀は武家文人としても信長家臣団の中でも随一であり、明智家も誇り高き文化集団を形成していた。

 それでも、役者秀吉、そしてその右腕官兵衛には勝てなかった。

 もし、私が作家ならば次のように書くかもしれない。「信長、秀吉、何するものぞ。明智家こそが、由緒正しい家柄だ。我こそが、天下をめざすものぞ」と。」


蝦夷太平記 十三(とさ)の海鳴り

2024年07月26日 17時05分38秒 | 読書

 「蝦夷太平記 十三(とさ)の海鳴り」(安部龍太郎著 集英社 2019年10月30日第1冊発行)を読みました。

 

 

 

 先日、「極楽 征夷大将軍」(垣根 涼介著 文藝春秋 2023年7月25日第2刷発行)や「摂関家の中世ー藤原道長から豊臣秀吉までー」(歴史文化ライブラリー521)(樋口健太郎著 吉川弘文館 2021年(令和3)4月1日第1刷発行)を読み、鎌倉時代末期の頃の状況を少し知ったところです。

 今回読んだ「蝦夷太平記 十三(とさ)の海鳴り」も、時代的には、鎌倉時代末期の頃の出来事を扱ったものでした。

 特に鎌倉時代末期の頃の出来事を扱った本を選んできて読んだわけではなく、図書館で、たまたま目に付いたものですから、次はこの本を読んでみようと思って借りてきて読んだにすぎません。

 本の選択には、往々にして、そのようなことが起こりますね。意識して選択しているわけではないのですが、不思議と繋がっているんですよね(^_^)

 それはともかく、この本は、鎌倉時代末期、後醍醐天皇が全国に倒幕を呼びかけ、それに呼応するものが各地に現われ始めた頃を扱ったものでした。

 各地に、鎌倉幕府(実質は執権北条得宗家)に不満を持ち、後醍醐天皇の倒幕の呼びかけに賛同するものが現われてくるわけですが、この本では、主として、そのうちの陸奥、出羽、蝦夷の反乱の状況を題材として小説にまとめたものです。

 内容的には、古い出来事ですから、かなりのフィクションが混じっているかとは思いますが、昔の、当時の、東北地方や北海道の状況、アイヌの生活状況などを知ることが出来、興味深く読むことができました。

 次に、この本の「あとがき」を紹介し、この本の紹介に代えさせていただきます。

 

あとがき

 鎌倉時代の末期に起こった安藤氏の乱が、北条得宗家を窮地に追い込み、やがて鎌倉幕府の崩壊につながった。

 それはほぼ歴史の定説だが、なぜ奥州北端の津軽にいた安藤氏にそれほど大きな力があったのか、いまだに謎のままである。

 筆者は、南北朝時代を日元貿易の活性化による経済構造の変化と、商業、流通の隆盛による富の偏在を背景として捉えなおすべく、『道誉と正成』と『義貞の旗』を上梓した。

 そして三冊目に、北方交易とアイヌ、蝦夷問題を中心として安藤氏の乱を描いた本件に挑むことにした。

 取材にあたっては弘前大学名誉教授の斉藤利男先生に大変お世話になった。

 青森県の各地に同行していただきながら、基本的な歴史的事実や参考文献などについて、まさに手取り足取り教えていただいた。

 中でも忘れ難いのは、外の浜安藤氏の拠点だった内真部館と、その背後にある山城に行った時のことだ。

 山背が吹く夏の頃で、先生は山城の遺構を探そうと、藪におおわれた道をかき分けかき分け山頂に向かわれた。

 我らにはとてもついて行けない速さで、中腹で断念して待っていると、三十分ほどして戻って来られた。

 「十年前はあったんだが、今は山林伐採のために破壊されていました」

 悲しさと憤りのこもった声でそう言われた。

 五所川原市教育委員会の榊原滋高氏にも大変お世話になった。

 榊原氏は長年にわたって十三湊の発掘調査にたずさわり、全貌を解明する手掛りを数多く発見されている。

 十三湊研究の土台を築かれた方で、真摯で誠実な研究姿勢にはお目にかかるたびに敬服したものだ。

 また取材のたびに同行し、さまざまな便宜を図って下さった東奥日報社の斉藤光政氏と成田亮氏にも、甚大な感謝の意を表したい。

 取材中や移動の車内、そして地元の名酒を酌み交わしながらの話の中に、作中人物を描くためのヒントが山のように埋まっていた。

 こうして上梓することができたこの本が、ご協力いただいた方々の期待に添えるものかどうか心許ないが、ともあれ賽は投げられた。

 皆様に感謝しつつ、本書が多くの方々に読んでもらえるように祈るばかりである。

 なお以下の文献を主に参考にさせていただいたので、明記して謝意を表したい。

             (参考文献省略)


摂関家の中世ー藤原道長から豊臣秀吉までー

2024年07月04日 20時17分09秒 | 読書

 「摂関家の中世ー藤原道長から豊臣秀吉までー」(歴史文化ライブラリー521)(樋口健太郎著 吉川弘文館 2021年(令和3)4月1日第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 先日、「極楽 征夷大将軍」(垣根 涼介著 文藝春秋 2023年7月25日第2刷発行)という歴史小説を読んだわけですが、その中で、鎌倉幕府末期の頃は、朝廷が持明院統と大覚寺統の二つの皇統に分かれていたというようなことが書かれていました。

 私は、不勉強で、皇統が分かれていたというようなことを知りませんでしたので、鎌倉時代以前にもそのようなことがあったのかなかったのかを知りたくなりました。

 それで、今回は、歴史小説ではなく、歴史書を読んで、その辺を勉強してみようと思ったものですから、この本を借りてきて読んだわけです。

 そうしましたら、室町幕府発足以前にも、何回か、皇統が分かれていた時期はあったのですね。でも、そのような時期には争いが起こりますが、紛争が解消され、結局は統一されてきたようですね。

 ただ、皇統が分かれていたといっても、皇位は交互に継がれていたようですね。南北朝時代のように、二つの皇統が迭立し、それぞれに天皇がいたわけではなかったようですね。そういう意味では、南北朝時代は特異な存在だったわけですね。

 また、南北朝時代は何時まで続いたのかについても、先日読んだ「極楽 征夷大将軍」(垣根 涼介著 文藝春秋 2023年7月25日第2刷発行)という歴史小説では、「・・・三代目将軍の義満により南朝も消滅し、・・・」(P.549)と、簡単に書かれているのみでしたので、その辺も、もう少し詳しく知りたいな~とも思いましたので、この本を借りてきて読んだわけです。

 ということで、今回は、少々、歴史の勉強のために読んだものでした。