その後、『へんな子ちゃん』、『ジャジャ子ちゃん』、『ヒッピーちゃん』におけるラディカルなチビッ子ヒロイン路線は、時を経て、1975年、「プリンセス」連載の『つまんない子ちゃん』(75年1月号~76年4月号)へとその系譜を辿ることとなる。
『つまんない子ちゃん』もまた、小さな女の子が、刺々しい遊撃的挑発と、巧みな術策を自在に巡らした悪戯を重ね、不可解なロジックを呈する悪しき大人達を、ぐうの音も出ないところまで追い詰めてゆくダークサイドな一本であるが、少女漫画のメインストリームが激変した時代の流れから、細やかながらも、ロマンス的要素を取り入れることで、作品全体にペーソス溢れる情緒を漂わせている。
その結果、やや毒々しいストーリーでさえも、微笑ましい泣き笑いを読み手の心に投げ掛ける、何処かソフィスティケートされた印象を宿し、偶発的とはいえ、先行の諸シリーズとの明確な差別化を生むこととなった。
厳密にそのリネージュを分類するならば、『つまんない子ちゃん』は、『ヒッピーちゃん』のようなジプシー型ナンセンスへと分化、特殊化した作品ではなく、『へんな子ちゃん』、『ジャジャ子ちゃん』のブラックな定住型のシチュエーションコメディーの同系列にして、その終局に位置する存在と言えるだろう。
主人公・つまんない子ちゃんの、冷めやすく、飽きっぽい性格でありながらも、根は正義派で、一本気な気質に貫かれたそのキャラクター設定は、ジャジャ子ちゃんのパーソナリティーとの均一性を感じるし、エスプリの利いた、時として冷徹で、おぞましいまでの悪戯センスは、即物的な手段で、恐怖を現出させてゆくへんな子ちゃんのエキセントリックな攻撃性をそのまま受け継いでいるであろうことは一目瞭然だ。
しかしながら、つまんない子ちゃんの相棒が、ブーワニというワニを擬人化したキャラクターで、つまんない子ちゃんとブーワニのコンビを主役に据えたキャラクター配置は、まさしくヒッピーちゃんとフーによるコンビのそれを原型として踏まえたものであり、定住型シチュエーションコメディーの体裁を取りつつも、『へんな子ちゃん』、『ジャジャ子ちゃん』、『ヒッピーちゃん』というチビッ子ヒロイン路線における各々の特性が、『つまんない子ちゃん』の作品世界を構築する様々なディテールへと色濃く継承しているように思えてならない。
ただ、作品の総体的な風合いとは別に、従来のチビッ子ヒロイン路線と本作との乖違を若干述べるなら、つまんない子ちゃんのパーソナリティーは、へんな子ちゃんやジャジャ子ちゃんのそれとは違い、激情に駆られ、完全に対象へとのめり込むようなテンションの高さを備えておらず、「つまんない子」という名前からも安易に想像が付くように、そのメンタリティーは、規定の赤塚ヒロイン像とは質の違った、幾分クールな倦怠性を帯びている。
また、つまんない子ちゃんとブーワニの間柄も、飼い主とペットという主従の関係ではなく、時にはいがみ合って、喧嘩をするなど、本音をぶつけ合える対等性の上に成り立ったもので、甲斐甲斐しく、ヒッピーちゃんの旅のお供を続けるフーとブーワニの立場は、かなり異同のものだ。
*
70年代初頭、オイルショックが決定打となり、高度経済成長が終焉を迎えると同時に、60年代に燎原の火の如く燃え広がった左翼派学生による革命闘争も、東大安田講堂の陥落以降、各セクト内で、ヘゲモニーの掌握や再編、路線対立に端を発した内ゲバによる内部分裂が繰り返えされ、弱体の一途を辿るが、その一方で、赤軍派学生を中心にして起こった「よど号ハイジャック事件」や、連合赤軍による「あさま山荘事件」と、次第にその残党は、街頭闘争における限界から脱却を図るべく、銃器や爆弾を用いた非合法な武力闘争へと挺身してゆく。
そして、山岳ベースにおける連合赤軍メンバー同士の「総括」という名の凄惨な集団リンチ殺害事件の発覚により、若者達の政治闘争は、いつしか大衆の支持と理解から大きく乖離し、思想性も含め、遂には、その実態を喪失してしまう。
こうした長引く不況による閉塞した時代の空気と、急激に衰退した学生運動の挫折感を背景に、若者達は、激動の時代が終焉を迎えた無力感や倦怠感から「シラケ」という言葉を盛んに用いるようになる。
そして、政治的矛盾や自己が抱える欺瞞への批判意識が著しく弱まる中、彼らの多くは、無気力、無感心、無責任の所謂「三無主義」のレッテルを貼られ、価値観を個人の生き方に求めたモラトリアム的傾向を強めてゆく。
そんな騒乱の時代を終えた混迷の季節に、銀幕の世界で一際異彩を放っていたのが、桃井かおり、秋吉久美子、芹明香、高沢順子といった、繊細で不安定な、何処かアンニュイな無常感を纏った若手女優達で、彼女達の掴みどころのない、時代の虚無感をそのまま体現した新しい女性像は、シラケ世代の若者達の鬱勃とした心情と深く結び付き、その存在は、時代のイコンとしてカルト的に崇められる。
チルドでありながら、つまんない子ちゃんが醸し出すレイジーな雰囲気がそうした時代風潮の所産というのは、些か深読みし過ぎた見解かも知れないが、そのイメージに同時代的なオーラや感覚を確保させるキャラクター作法もまた、赤塚の独壇場であり、このキャラクターも、そうしたインテンションのもと、存在の共鳴として作られたのであれば、それは特筆に値する、赤塚ならではの見事な慧眼と言えよう。
このように、『ひみつのアッコちゃん』執筆後以降も、少年誌と少女誌を闊達自在に横断する中、少女誌においても、独自性を深化させた傑作快作を簇出させてゆくが、その多くは、少年誌で発表されている赤塚ギャグのラディカリズムに呼応した、ヒューマンな世界観から超然としたものばかりで、アクシオムの根底に埋没する不条理な心理を解き放つ絶対的な迫力を孕んでいた。