1967年3月、赤塚は、自身最大のヒット作にして、戦後漫画史に燦然と輝くギャグ漫画の最高峰『天才バカボン』の連載を「週刊少年マガジン」第15号にてスタートさせる。
かねてよりギャグ漫画にも力を入れ、誌面刷新の構想を練っていた「マガジン」編集長・内田勝と副編集長・宮原照夫による、赤塚へのモーションは尋常ではなく、『おそ松くん』全盛期の65年頃から丸二年に渡り、「マガジン」誌への連載執筆を執拗にアプローチしてきたという。
当時の赤塚にとって、週刊誌連載をもう一本増やすということは、未知なる冒険であり、またそれ以前に、競合誌に連載を始めるにあたり、両作品の人気を結果的に潰し合う危険性があり得ることも、この時懸念していたのかも知れない。
そのため、赤塚は「マガジン」サイドからの連載オファーがある都度、短編や長編読み切りを寄稿するなどして、慎重を期していたが、内田編集長から、編集部から創案された六九もの連載プランをプレゼンされ、その熱意に打たれた赤塚は、それら全てのアイデアを取り込めるキャラクターを創出することを確約し、連載へと踏み切ったのだ。
そんな込み入った経緯を辿り、登場した『天才バカボン』だったが、連載第一回目より大反響を呼ぶこととなった。
そして、主人公のバカボンからバカボンのパパに力点が置かれ、ドラマが展開するようになると、松竹新喜劇の藤山寛美を彷彿させるバカボンの底抜けの馬鹿さ加減と、生まれた時からあらゆる分野において超絶的な才能を発揮する弟・ハジメの天才ぶりとの対極的な落差から笑いを導き出す、愚兄賢弟を強調した初期設定は崩れ、当初脇を固める得難いパーソナリティーとして登場したに過ぎなかったバカボンのパパのトリッキーな存在と言動が、徐々に際立ちを放つようになり、世間に蔓延る強固で頑迷な常識や秩序を解体せしめるアナーキーなギャグをいくつも編み出してゆくこととなる。
やがて、アイデアはバカボンのパパ中心に廻り出し、究極の大バカキャラ・バカボンのパパと、パパの母校であるバカ田大学の同窓生や後輩、目ん玉つながりの未成熟警官等、過激なキャラクターとの対立のドラマへと軸移動するに従い、その作風は、シュールやアバンギャルドといった概念をも超越しかねないマッドネスを発動してゆく。
『天才バカボン』が、『ハリスの旋風』(ちばてつや)や『巨人の星』(原作・梶原一騎/作画・川崎のぼる)、『無用ノ介』(さいとう・たかを)、『ゲゲゲの鬼太郎』(水木しげる)と並ぶ「マガジン」の代表的タイトルになるまでには、そう時間は掛からなかった。
『天才バカボン』の 新規参入による部数増大で、俄然勢力を増した「マガジン」に焦燥を深めた「サンデー」編集部は、『おそ松くん』の掲載パターンを、週刊から月一ペースでの長編連載へと切り替え、『おそ松』のメジャー人気を後続するシリーズ連載にして、ライバル誌「マガジン」の牙城を崩すべく急先鋒とも言うべき新連載の立ち上げを、赤塚に要求する。
何しろ、新連載のプロットは勿論、登場人物や舞台設定、タイトルさえも決定していないにも拘わらず、東映動画がアニメ化を打診してきたというのだから、その期待値の高さは相当なものであったことが窺える。
だからといって、それだけの成功を収める作品が描けるという保証は全くない。
しかし、「サンデー」編集部からの要望以前に、この新連載が高い評価を得ることにより、自身の漫画家人生の大きなステップボードになると確信した赤塚は、先行の『おそ松』や競合誌掲載の『バカボン』と作風の上で、明確な差別化を図るべく、性質が格段に異なる新たな笑いのエッセンスをその世界観に内包させるとともに、アニメとの相乗効果を狙いやすいテーマを、この時、考慮に入れていたとされる。
そこで思い付いたのが、死んで幽霊となった父親と、しっかり者の息子との絆と交流を軸に、江戸っ子気質の登場人物達の涙と笑いを浪花節的に描いた下町人情路線で、タイトルは『もーれつア太郎』に決定。こうして、1967年第48号より「サンデー」の赤塚新連載は、スタートの一歩を切り出すこととなる。
『もーれつア太郎』の「もーれつ」のワードは、疾走するスポーツカーの風圧で、ミニスカートが捲り上がるという、人気モデル・小川ローザをフィーチャーし、センセーショナルを巻き起こした丸善石油のハイオクガソリンのCMコピー「Oh!モーレツ」から拝借したものであると、幾つかの文献に流布されているが、このCMが電波に乗ったのが1969年、『もーれつア太郎』の連載開始から、一年半以上経過しての登場であり、時系列的に捉えても、この論述が錯誤誤記であることは、明々白々の事実と言えよう。
因みに、本作を連載するにあたり、名実共に、赤塚ギャグの代表作となった『おそ松くん』や、連載開始からいきなり特大ホームランとなった『天才バカボン』に負けず劣らず、「猛烈に当たろう」という赤塚の切実なる願いが、そのタイトルへとダイレクトに反映し、ネーミングされたことは、あまり知られていない。