文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

経理担当による巨額の横領事件 週刊誌五本、月刊誌七本の超大量生産時代

2021-12-21 22:37:13 | 第6章

このように、連載、読み切りを含め、1974年から76年頃に掛けてのこの時期、赤塚の平均的な執筆スケジュールは、週刊誌五本、月刊誌七本と、更にタイトを極め、その作品数は突出して増大傾向を迎えた。

これだけの仕事量を抱えるようになったのも、出版社側の一方的な意向だけではなく、非常に切迫詰まった事情が、赤塚サイドに重くのし掛かってきたからだと言われている。

その事情とは、長きに渡り、フジオ・プロで金銭管理全般を一任されていた経理担当のHによる、二億円を越えるとも言われる巨額な使い込みの発覚であった。

この横領事件が露見した際、加えて、所得税も長期に渡り、全く納税されていないことが判明し、その延滞税だけでも、六〇〇〇万円は下らなかったという。

この少し前、赤塚は前夫人と協議離婚が成立し、中野区弥生町の邸宅や御殿場に持っていた別荘地の権利を明け渡したほか、我が子への毎月四〇万もの養育費も加え、占めて二億五〇〇〇万以上もの慰謝料を支払っていた。

それに加算し、「まんが№1」の刊行で被った五〇〇〇万円の赤字もあり、フジオ・プロは実質的に倒産の憂き目に遭うこととなる。

Hから横領された二億円の中には、古谷三敏や芳谷圭児といったフジオ・プロ所属の売れっ子作家達のプール金もあり、金の切れ目が縁の切れ目とでも言おうか、二人はこの金銭トラブルにより、フジオ・プロを退社。経理部に席を置いていた弘岡隆と各々のスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション〝ファミリー企画〟を設立する。

猜疑心の強い古谷は、時折、Hには目を光らせたほうがいいと赤塚に忠告していたが、その都度赤塚から、仲間を疑うものではないと、逆に諭されていたという。

事実、Hは、横領が発覚する随分前から、小学館をはじめとする複数の版元に、相当な額に上る赤塚の原稿料を前借りしていたようだ。

Hの不正は、そのバンスの額が途方もなく桁外れであったため、不審に思った小学館サイドが、当時赤塚のマネージャーだった横山孝雄と会談を設け、内偵を進める中、漸く事実として表面化したのである。

元淀橋税務署職員だったHの遣り口は、悪質極まるもので、横領した二億円の行方は、不明瞭なまま、その後、一切明らかにされることはなかった。

結局、Hは警察での拘留中、黙秘を貫き、検察側も、立証の目処が全く立たなかったため、仮に起訴まで持ち込めたところで、微罪程度にしかならないと判断せざるを得なかった。

自らの管理上の不手際を反省した赤塚は、全てを自己責任として受け入れただけではなく、若いHの将来も考えたうえ、被害届けを取り下げた。

その後、Hの実父が六〇〇万を用意し、赤塚もその父親の気持ちを酌んで、示談金として受け取り、結局この横領事件は不起訴処分となってしまった。

確かに、赤塚の心意気は潔く、この上なく男気に溢れていると言えようが、当事者としての立場を鑑みると、古谷が赤塚に対し、怒りや歯痒さを禁じ得ないのも無理からぬことだ。

また、赤塚が「まんが№1」を創刊した際、古谷にとって、相容れない存在である長谷が、ほぼ編集の実権を掌握していたことも、内心苦々しく感じていたそうだ。

ほかにも、離別を考え直して欲しいと懇願したにも拘わらず、その願いを一切聞き入れてもらえず、前夫との協議離婚を、何の相談もなく成立させたことも、古谷の心が、赤塚から離れてゆく遠因になったと言われている。

そして、この横領事件による自身への金銭的な大打撃こそが、赤塚と袂を別つ決定打となったことに、疑いの余地はないだろう。

後年、赤塚関連のインタビューで、フジオ・プロを去った理由として、赤塚がテレビ番組やバラエティーショーなどに出演し、芸能界に深入りするようになったことで、漫画の第一線から離脱したことを挙げていたが、これはもっと後の話であり、古谷としては、金銭的なトラブルや長谷との確執については、気恥ずかしさもあり、あまり語りたくなかったのかも知れない。

こうして、古谷と芳谷という二人の人気作家が独立し、フジオ・プロは、赤塚個人の制作プロダクションとして、規模を縮小し、再スタートを切ることになる。

国税庁が、「まんが№1」で出した負債を、企業経営の一端として容認してくれたため、フジオ・プロは、表面上の破産、倒産といった最悪の事態を免れることが出来たのだ。

心機一転、赤塚は、延滞税と古谷ら関係者が被った被害額を全額取り戻すべく、新たに提携した会計事務所の管理のもと、どんなマイナー誌でも、オファーが来た仕事は全て引き受けることにした。

その結果、赤塚は二年足らずで全ての借金を清算し、この間、膨大な傑作、怪作を世に残すこととなった。

当時、この猛烈な仕事ぶりを目の当たりにした武居記者は、漫画家として再びハングリーな状況に戻してくれたHに、赤塚は恰も感謝しているかのように見えたと、後に述懐している。

因みに、この時期、ギャグ漫画の巨匠としての赤塚の存在感は、名実共に際立ち、1975年には、イラストレーターの和田誠責任編集による赤塚ワールドの記念碑的集大成本『赤塚不二夫1000ページ』が話の特集よりリリースされる。

和田誠が独断と偏見でセレクトした代表的な赤塚ギャグ漫画六作品に、金井美恵子、伊丹十三、中山千夏、井上ひさし、東海林さだお、畑正憲ら、各界の著名人による赤塚漫画に関するエッセイ、赤塚へのロングインタビュー、そして、当時としては最も精度の高い作品リスト等を約1000ページの中に凝縮した、電話帳よりも分厚いこの箱入りソフトカバーのアンソロジー集は、漫画家・赤塚不二夫を語る上でのモニュメンタルな一冊になっただけではなく、その後、谷岡ヤスジや藤子不二雄といった人気漫画家の1000ページ本が続々と刊行される先鞭にもなった。

また、本書の刊行を記念し、翌76年4月2日から池袋の西武デパートにおいて、〝赤塚不二夫1000ページ展〟なる原画展が開催され、連日大盛況となるなど、副次的なトピックをもたらしたことも、ここに追記しておこう。


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