私は、この事件と池袋の車暴走事件と、共通する部分が有ると思います。
女子高生死体遺棄事件の被疑者である女性は、
幼い子供が三人もいてる上に、現在も妊娠中と言われています。
三人の子供の育児も、ほぼ放棄しています。
そして、池袋の暴走事件の被疑者の老人は、
被害者からの、事件を起こしてからの、この二年間どうしてましたの質問に、
病気のリハビリが辛かったと答え、被害者の反感をかってます。
この二人の共通している所は、
自分にとって都合の悪い過去を切り捨てている事です。
今の自分しか興味が無い。
普通の人がする、反省が無いのでしょう。
現代の日本は、
反省をしなくてもやっていける社会になっているのかもしれません。
それの最先端を走っている人々が、こういう事件を起こしたのでしょう。
最近は、ネグレクト、育児放棄による結果の事件が多発しています。
それに、老人の自己中の行動も同じです。
私はこの原因は、やはり、子供の頃の教育、学校の教育も当然ですが、
親の子供に対する接し方、それは、言葉でもあり、肉体的な接し方でもあり、
そして、目です。
昔から、目は口程に物を言う、という諺が有るぐらい重要です。
生まれてすぐの新生児は、抱いている親の目を見ていると言われています。
子供は、五感全部を使って親からの情報を受け取ろうとしています。
やはり小さい頃の、そういう情報が欠落していると、
それが原体験になって、大人になっても、そのままの行動しか出来ません。
或いは、その欠落部分を追い求め続け、歪んだ行動に出たり、
幼児帰りを起こしたりすると思います。
そういう悪い連鎖を断つ為にも、アメリカ並みに、
育児が出来ない親から子供を引き離し、
公的な機関が一人の国民として面倒をみるべきです。
基本的に日本では子供の人権をあまり認めていない。
分かりやすく言えば子供を大事にしていない、もっと言えば、ただの邪魔者。
その考え方になったのは、戦後の貧乏な頃に、
ほっといても、いっぱい子供が出来たからです。
じゃりン子なんて言い方が、それを表しています。
あの頃は、舗装されていない道路の砂利と一緒で、
そこら中に、ほっといても転がっている邪魔な物という感じです。
何にもしなくても、わらわらと湧いて出てくる。
飴ちゃんでもくれる、ちょっと優しい大人がいると、
周りに取り付いてきて、僕にも私にもと、そんな可愛くないか、頂戴と、
まさしく餓鬼道まっしぐらな、小汚いガキ共が寄って来て、
エエイ、鬱陶しいわ ! になっていました。
貰えなかったら、なんでくれへんのや、この、ドケチ !
とか悪態をつきます、そのぐらい、面倒くさい存在でした。
それでも、大人とのそういうコミュニケーションのうちで、
逞しく、勝手に育っていました。
現代になっても子供に対してその時代と、
同じような接し方をやっているせいで、
逆に、愛情不足になり、自分以外の人間に興味が無い、
究極の自己中人間を、製造してしまったのではないでしょうか。
若い人は、ネットとSNSの、自由で無責任でいれる世界に、
どっぷり浸かってしまっている。
個人がしっかり確率していない人間は、
ネットサーフィンではなく、そのまま無限の彼方に流されていってしまう。
本物の海は、そういう怖さが有ります。
海で遊んでない人には分からない怖さです。
山と違い、足が地についていない怖さです。
だからこそ、自然に対して畏怖を感じ、畏敬の念を覚えると思います。
話が、大きくなり過ぎました。
日本は島国の悪い所が、煮詰まって、煮凝りになっちゃいました。
鍋の底に焦げ付かないうちに、どうにかしないと。
せめて、子供だけは助けてあげて。