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百文は一図にしかず (One Figure than many sentencies) A.E.W.メースン『矢の家』より

2018-05-10 06:52:35 | 推理

【真犯人を明示するという禁断のネタバレを行いますので、未読の方は特に御注意ください】


 A.E.W.メースン(Alfred Edward Woodley Mason)『矢の家(The House of the Arrow)』[Ref-1]
1924年に原作発表で、先日(2018/04/25)紹介した『トレント最後の事件』や以下に紹介するイーデン・フィルポッツ赤毛のレドメイン家(The Red Redmaynes)』[Ref-2]と並んで、推理小説に文学的要素(恋愛要素のこと?)を取り込んだ先駆的作品と評されている作品です。実際にこの時期の関連作品を並べてみると次のようになります。

[1910] メースン 薔薇荘にて
[1912] ミルン  赤い館の秘密
[1913] ベントリイ トレント最後の事件(Trent's last case)
  --少し間が空いて--
[1920] クロフツ 樽
[1920] クリスティ スタイルズ荘の怪事件
[1922] フィルポッツ 赤毛のレドメイン家
[1924] メースン 矢の家
[1926] クリスティ アクロイド殺し
[1928] ヴァン・ダイン グリーン家殺人事件
[1934] クリスティ オリエント急行の殺人

 これ以前というのは、いわゆるシャーロック・ホームズのライバル達[Ref-3]が活躍する時代になります。

 さてこの『矢の家』の現場のグルネル荘も2階建で多数の部屋があるのですが図が1枚もなく文章だけで説明されているので、そのままでは頭の中に見取り図が浮かびません。そこでこれまた作成してみました。

図1.グルネル荘全体図


図2.夫人寝室から


図3.アンの広間横断


 しかし文章からだけだとわからないところがまだあるのです。例えばアンの部屋(寝室と居間)が3階であることは明記されていますが、ベティの寝室が2階なのか3階なのか不明です。たぶん3階のような印象は受けますが確実な記述はありません。また、ベティの居室でもある宝物室の中の、時計を載せた戸棚と背の高いヴェニス風の鏡との位置関係が正確にはわかりません。それぞれの向きとか距離とか。事件の鍵として重要なのですがね。

 1階廊下に沿って夫人寝室の向こうには2部屋ほど離れて看護婦室がありますから、結構横に長いのですが、2階と3階がどの程度の広さと間取りなのかは一切わかりません。もちろん各部屋や家具の正確な大きさもわかりませんので、上の図は縮尺は適当です。

 アンが広間を横断していく様子を語る場面では、広間から宝物室へのドアはかなり窓寄りのように思えたのですが、図2に書いたようにP202の記述を見て廊下寄りとわかった次第です。

 ついでに言えば、日時関係をきちんと把握するのも結構苦労しました。事件、すなわちハーロウ夫人死亡が4月27日だというのは比較的早くわかります[P17]。が、曜日が判明するのはかなり後の、アノーの次の言葉からです。
 「ハーロウ夫人が埋葬されたのは、土曜日の朝、今から十二日前のことでしたね~それからちょうど一週間後の土曜日、五月七日に、ワベルスキーは警察署へ飛び込んだのですね?[p47-48]」
 
 で、ジムがフランスに渡ったりアノーに会ったりした日が当初は曜日しかわからないので、すぐには日時関係が把握できません。まあ本気で犯人当てに挑戦するつもりなら日時を書き出してみる必要があるのはどんな推理小説でも同じですから構いませんが、ヴァン・ダインみたいに章タイトルに日時を付けてくれる方が余計な頭を使わなくてありがたいのも確かです。日時や曜日の感覚なんてのは、登場人物には語るほどのこともない常識的知識ですが、読者にはそうではありませんからねえ。


 さてこの作品ですが、目の肥えた日本の読者からは「犯人がすぐわかる」「抜け穴なんて陳腐だ」といった趣旨のさんざんな評価も多く、大御所の江戸川乱歩が低い評価を与えたこともその筋では有名です(例えば瀬戸川猛資『昨日の睡魔』「12.おお、オフビート--『矢の家』」[Ref-4])。瀬戸川によれば、この作品は日本ではさっぱり人気がなくミステリ専門家の間でも受けが悪いが、海外、特にイギリスでは高評価を受けていて1930,39,53年と3回にわたって映画化もされているとのことです。そして瀬戸川はその高評価の理由を、「まじめな顔でバカなことをするという、いかにも英国風のユーモア」にあると述べています。その証拠に海外のミステリ研究書には「<愉しいユーモア><すばらしいサタイア>とさかんに書かれている」とのこと。しかるに日本では乱歩がミステリとして読んで低評価をしたために評価が低くなってしまったのだと述べています。よく言われている「探偵と犯人との心理闘争が素晴らしい」という評価に対しても瀬戸川は「このユーモアに較べれぽ、探偵対犯人の心理闘争など、旧来の謎解きの枠組みにのっとっているだけだから、今となってはまるでつまらない。」と切って捨てています。

 私はちょっとこの英国風のユーモアを愉しむ余裕は持てませんでした。見取り図もわからず、ということは人物の動きもよくわからずにどうしてそんな余裕が持てるでしょうか? もしかしたら映画だったらユーモアを愉しめたのかも知れません。確かに振り返ってみると、アンが暗い広間を横断していく様もちょっとユーモラスですね。瀬戸川によれば作者のメースンはそもそも冒険活劇やユーモア物で有名で映画化された作品も多いとのことです。確かに国内外のミステリー・推理小説のデータベースサイトwikipedia英語版の記事でわかるように、俳優志望から1895年30歳にして作家に転向し歴史もの・冒険活劇で人気を博し、『サハラに舞う羽根(四枚の羽根)(The Four Feathers(1902))』「映画化(1939)」や『無敵艦隊(Fire Over England(1936))』「映画化(1937)」が代表作とされています。確かに映画化に向いた作品が得意な作家のようです。


 なお、メースンの推理小説第1作(1910年)であり『矢の家』と同じくパリ警視庁のアノー探偵(Inspector Hanaud)が活躍する『薔薇荘にて[Ref-5](At the Villa Rose (1910))』「映画化(1920)」は『トレント最後の事件』より3年前の発表です。『矢の家』日本語訳巻末の中島河太郎による解説にはヴァン・ダインが本名のW・H・ライトで書いた評が紹介されていて、「アノーの活躍する『薔薇荘にて』と『矢の家』は、周到に構成され矛盾なく筋が運ばれ、巧みに書かれている。これらは、ことに『矢の家』はそうだが、娯楽文学としての推理小説のもっとも優れたものといえよう。」との言葉があります。しかし中島は「ヴァン・ダインの両作の推賞にしても「矢の家」で定評を得たメースンに対する讃辞から出たものであろう。アノーの描写に注目すべき点はあっても、「薔薇荘にて」はやはり前代の形式の亜流に過ぎず、結局新時代の開幕を「トレント最後の事件」に譲ってしまった。」と評価しています。

 また先に述べたメースンの経歴や作品については中島もさらに詳しく書いていて読み甲斐があります。上に挙げた作品以外の評もあります。


 さて私の感想ですが、犯人対探偵の心理闘争にしても英国風ユーモアにしても、犯人がわかって再読した時のほうが深く味わえることは確かでしょう。だって犯人がわからなければ誰と心理闘争をやっているのかわからないではありませんか! 私は心理闘争と呼ぶほどの迫力は感じませんが、読み返して、「この場面にはこんな意味があったのか」などと楽しむことはできました。瀬戸川猛資は「今となってはまるでつまらない。」と述べていますが、というのが瀬戸川が読んだ時点を指すとすれば、ちょっと不公平な気がします。

 ということで真犯人のベティ嬢です。容姿も実際上も良家の令嬢でありながら不良の若者たちをまとめて首魁に収まっているという、第2次大戦後の日本の少年少女マンガならよくありそうなキャラクターですが、1920年代のイギリスの読者にはどう受け取られたのでしょうか? ちょっとショッキングな意外性? 意外だけど犯罪小説の中だし、スキャンダラスな興味? 主人公のジム・フロビッシャー君のような純朴な青年にはショッキングな犯人像でしょうねえ。アノー探偵曰く「あのきれいな大きな目から、人殺しが覗いていた」[P355]。マンガやアニメなら思い切りデフォルメされた顔が描かれるシーンです。とはいえベティ嬢もばれたら捕まるより自殺という主義ですから、それほどタフでもないし、恋もする[P385]。故意の殺人犯は必ず死刑という時代背景はありますけれど。

 ヴァン・ダインは中島河太郎による解説の中で「(アノ-もシャーロック・ホームズも)二人とも探偵方法はほとんど同様で、いろんな物的証拠を総合し、たちどころに思考をめぐらすというやりかたで、どちらも論理的で綿密である。」と評しています。論理的なことは確かで、最初は「アノーが乗り出した」というベティーからの電報の怪しさが鍵となり、これは読者にも公開されています。アノーとジムの2人が塔の上から町を見渡したとき、グルネル荘らしき大邸宅の「煙突から煙が立ち昇っているのが見えた」[P177]とも確かに書いてあります。でも「その時ベティ・ハーロウが、意地の悪い目つきで、友だちのアンを見つめているのに気がついた[P390]」なんて、読者に意地悪だよ。



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Ref-1)
A・E・W・メースン; 福永武彦(訳)『矢の家』東京創元社(1959/5/25)
A・E・W・メースン; 福永武彦(訳)『矢の家【新版】』東京創元社(2017/11/22)
Ref-2) イーデン・フィルポッツ;宇野利泰(訳)『赤毛のレドメイン家(創元推理文庫 111-1)』東京創元社(1970/10/24)
Ref-3)
 a) ホームズとそのライヴァルたち
 b) 神保町の古書店 @ワンダーのブログ
 c) 押川曠(編,訳);乾信一郎(訳)『シャーロック・ホームズのライヴァルたち 1 (ハヤカワ・ミステリ文庫 87-1)』早川書房 (1983/06) ISBN-13: 978-4150745011
Ref-4)
『夜明けの睡魔―海外ミステリの新しい波 (創元ライブラリ)』東京創元社 (1999/05) [ISBN-13: 978-4488070281] に収録
Ref-5)
A.E.W. メイスン;富塚由美(訳)『薔薇荘にて 世界探偵小説全集 1 』国書刊行会(1995/05) [ISBN-13: 978-4336036711]

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