シャルル=ピエール・ボードレール(Charles Pierre Baudelaire)というフランスの詩人、批評家、はエドガー・アラン・ポーと同時代の人で、ポーの作品の翻訳と評論も熱心に行った人です。ポーの死の直後に書いた「エドガー・ポー、その生涯と作品」という評論が『ポオ小説全集 2 (創元推理文庫 522-2)』(1974/06/28)に収録されています。随分と熱烈なポーのファンであったことを伺わせる文章です。ところが、書かれているポーの生涯を読むと何かおかしいのです。
----ボードレールが語るポーの経歴----
1813: エドガー・ポオは、一八一三年、バルチモアに生れた。--この目附は、彼自身の言葉に従っていうのであって、グリスウォルドが、彼の誕生を一八一一年だと断言したについては、当人は異議を唱えている。
生後ほぼすぐに父母は死にアラン夫妻に引き取られる。アラン夫妻は、イングランド、スコットランド、アイルランドへの旅行に、子供を連れて行った。
1822: リッチモンドに帰り、アメリカで、土地の立派な教師達の指導の下に勉強した。
1825: シャルロットヴィルの大学に入学した。
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12歳で大学入学! 天才じゃないですか。1811年生まれでも14歳入学です。
さてしかし、そのままでは終わらず。
===========引用開始=====================
賭で処々につまらぬ借金をこしらえた事で、彼と養父との間に悶着が起った。そこで、エドガーは、ギリシャの戦役に参加して、トルコと戦う計画を懐いた。どうもこれは妙な事実だが、人が何んといったにしろ、彼の感じ易い頭にかなり強い騎士気質があった事を証するのである。で、彼はギリシャに向って出発した。東方で彼がどうなったか、何を為たか、地中海の古い国々を研究したのだろうか、何故に、旅行免状もないのに聖ペテルスブルグに現われか、ロシヤの処刑を逃れて帰国する為、アメリカの公使ヘンリイ・ミッドルトンに訴えねばならなかったのは、いったいどんな種類の事件に連累(れんるい)したのか、全く不明である。ここに、彼自身のみが埋める事が出来る騨隙(かげき)がある。エドガー・ポオの生涯、彼の青春時、ロシヤに於ける波瀾、彼の手紙、これは、よほど以前からアメリカの雑誌に予告されていたが、未だに現われない。
===========引用終り=====================
なんですか、この波乱万丈の冒険譚は。
===========引用開始=====================
一八二九年、アメリカに帰ったポオは、ウェスト・ポイントの兵学校にはいりたい希望を持った。事実、入学を許されて、ここでも、そのすばらしい天賦の智慧を現わしたのであるが、手にあまるという理由で、数ケ月の後除籍された。
===========引用終り=====================
そして詩や小説を書き出していたポーはやがて頭角を表し、雑誌の編集者となります。
===========引用開始=====================
或る雑誌の所有者が二つの賞金を寄附した。一つは最良の短篇に、一つは最良の詩に。不思議に美しい書体が委員会長のケネディ氏の眼を惹いた。~中略~彼はポオをリッチモンドで南方文学新報(サザン・リテラリー・メッセンジャー)を創立したトーマス・ホワイト氏に紹介した、ホワイト氏は、放胆(ほうたん)な男というだけで、文学の才能は全く無かった。彼には助力者が必要だったのである。ポオは二十二歳の若輩で雑誌の全運命を双肩に担う編輯者となった。この雑誌の繁栄は彼が築き上げたのである。
===========引用終り=====================
22歳なら1935年ということになります。
さて実際の経歴はというとウィキペディアにも書かれていますが、『E・A・ポー ポケットマスターピース09 (集英社文庫 ヘリテージシリーズ)』(2016/6/23)の巻末に「E・A・ボー年譜」が詳しく載っています。それによれば。
1809/01/09: マサチューセッツ州ボストンに生まれる。翌年10月に父が失踪。
1811/12/08: 母エリザベスが二十四歳で死去。ボーと妹ロザリーは、それぞれリッチモンドのアラン夫妻とマッケンジー夫妻に引き取られる。
1815: アラン夫妻はイギリスに移住。 <=単なる旅行じゃない
1820/07: 養父アランがイギリスでの事業撤退を決意、再びリッチモンドに戻る。
1826/02/14(十七歳): ヴァージニア大学に入学。古典語と近代語を幅広く学び、特にラテン語とフランス語の成績は上位だった。
いやはや生年がずれてました。これなら普通の優秀な学生です。でも賭博で借金を抱えて養父と不仲になり、大学も退学します。
1827/05/26: 「エドガー・A・ペリー」という偽名を使い、年齢も二十二歳と偽ってアメリカ合衆国陸軍に入隊。ボストン港インディペンデンス要塞の第一砲兵連隊に配属。
1829/01: 砲兵連隊の上級曹長に昇進。その後、陸軍を辞めてウェスト・ポイント陸軍士官学校に入る手続きのため、手紙で養父アランに協力を求める。
1830/01(二十一歳): ウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学。年齢は十九歳五か月と記録されている。
つまり10代後半の軍隊時代が、かの波乱万丈の冒険に化けたのですね。年齢詐称なんていくらでもあった時代なんでしょうね。
とどめに「E・A・ボー年譜」の最後にこんな記載があります。
1849(四十歳): 死去
1850(死後): ルーファス・W・グリズウォルドが全集(The Works of the Late Edgar Allan Poe)を出版。後のボー評価に不名誉な影響を与えることとなった捏造満載の「回顧録」を含む。
ただしこの「回顧録」または「回想録(メモワール)」は、自著を批判されて以来ポーに恨みを抱いていたグリズウォルドが悪意を持って捏造したとされています[Ref-3]。しかしボードレールの情報源は生前の諸々のはずですし、軍や陸軍士官学校での詐称の記録も残っているのですから、ポー自身も実生活でもホラ吹きだったというべきでしょう。
またポーと言えば、恐怖、耽美、グロテスクといった印象で語られることが多いのですが、これもポー自身の宣伝というかイメージ戦略という気もします。実際[Ref-3c]には次のような記載があります。
「シャルル・ボードレールは「額に不幸の文字が刻まれた男」とポーを称したが、そうしたイメージはポーが綿密な計算でつくり出そうとした「ひとつ」の自己イメージであり、伝記のなかで定着してゆくことになる」
「ポーは当時話題のセンセーショナルな題材をうまく小説に組み込む商売人であり、本質的に「雑誌作家」であった」
「マイケル・ギルモアの『アメリカのロマン派文学と市場社会』は、文学が商業となった時代を生きたホーソンやメルヴィルの苦悩を早い時期にとらえた名著だが、ポーもまた恐怖を「商品化」し、小説を売らねばならなかった」
本ブログでも書きましたが、私はポーの作品群にはむしろユーモアを多く感じます[Ref-4]。そういう作品が私の好みだという点もあるでしょうし、恐怖、耽美だけで表せるような作品は読んでみると割に少なかったという意外性もあるでしょうけど。また、グロテスクなユーモアとかブラック・ユーモアというものがありふれた現代の目から見ていることもあるかも知れません。
またSFファンとしては、推理小説の始祖としてだけではなくSFの祖父としてのポーという像ももう少し広まって欲しい気もします。本格SFとしては気球を描いた3作品でしょうが[Ref-5]、20世紀のSF作家の作品とされてもおかしくない作品なら目白押しです。まあ、恐怖や耽美もSFの要素ではありますから。
なお、生誕200周年記念で『エドガー・アラン・ポーの世紀』という本が出ていました[Ref-6]。研究社のサイトの目次を見ると、「空想科学小説 「ハンス・プファアルの無類の冒険」を中心に / 野口啓子」というタイトルがありました。日本ポー学会というものも活動していますね。
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Ref-1) エドガー・アラン・ポオ(著) ;大西尹明(訳)『ポオ小説全集 2 (創元推理文庫 522-2)』(1974/06/28) ISBN10:4-488-522025
Ref-2) 『E・A・ポー ポケットマスターピース09 (集英社文庫 ヘリテージシリーズ)』(2016/6/23) ISBN-10:4-087-61042X
Ref-3) グリズウォルドの捏造について。
a) wikipediaよりエドガー・アラン・ポー#受容史
b)note.com:『エドガー・アラン・ポー』生前評価されなかった作家。wikipediaの記事と同じ情報源らしく、グリズウォルド関連の文章がほぼ同一。
c) 西山智則『テロ/恐怖/ポーの世紀 : 商品としてのエドガー
・アラン・ポー(1)』「埼玉学園大学紀要. 人間学部篇」14巻,p1-14,(2014-12-01)、その本文
Ref-4) 探偵小説を探せ: ポーの作品で探偵小説はどれなのか? (2017/05/06)
Ref-5) 気球3部作
『ハンス・プファアルの無類の冒険(The Unparalleled Adventure of One Hans Pfaall)』宇宙小説
『メロンタ・タウタ(Mellonta Tauta)』未来小説
『軽気球虚報(The Balloon Hoax)』近未来小説
Ref-6) 八木敏雄 ;巽孝之『エドガー・アラン・ポーの世紀 生誕200周年記念必携』 研究社(2009/05/26)
a) 研究社の紹介。詳しい目次あり。
b) 日本ポー学会(The Poe Society of Japan)のニュース記事(2009/05/12)
----ボードレールが語るポーの経歴----
1813: エドガー・ポオは、一八一三年、バルチモアに生れた。--この目附は、彼自身の言葉に従っていうのであって、グリスウォルドが、彼の誕生を一八一一年だと断言したについては、当人は異議を唱えている。
生後ほぼすぐに父母は死にアラン夫妻に引き取られる。アラン夫妻は、イングランド、スコットランド、アイルランドへの旅行に、子供を連れて行った。
1822: リッチモンドに帰り、アメリカで、土地の立派な教師達の指導の下に勉強した。
1825: シャルロットヴィルの大学に入学した。
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12歳で大学入学! 天才じゃないですか。1811年生まれでも14歳入学です。
さてしかし、そのままでは終わらず。
===========引用開始=====================
賭で処々につまらぬ借金をこしらえた事で、彼と養父との間に悶着が起った。そこで、エドガーは、ギリシャの戦役に参加して、トルコと戦う計画を懐いた。どうもこれは妙な事実だが、人が何んといったにしろ、彼の感じ易い頭にかなり強い騎士気質があった事を証するのである。で、彼はギリシャに向って出発した。東方で彼がどうなったか、何を為たか、地中海の古い国々を研究したのだろうか、何故に、旅行免状もないのに聖ペテルスブルグに現われか、ロシヤの処刑を逃れて帰国する為、アメリカの公使ヘンリイ・ミッドルトンに訴えねばならなかったのは、いったいどんな種類の事件に連累(れんるい)したのか、全く不明である。ここに、彼自身のみが埋める事が出来る騨隙(かげき)がある。エドガー・ポオの生涯、彼の青春時、ロシヤに於ける波瀾、彼の手紙、これは、よほど以前からアメリカの雑誌に予告されていたが、未だに現われない。
===========引用終り=====================
なんですか、この波乱万丈の冒険譚は。
===========引用開始=====================
一八二九年、アメリカに帰ったポオは、ウェスト・ポイントの兵学校にはいりたい希望を持った。事実、入学を許されて、ここでも、そのすばらしい天賦の智慧を現わしたのであるが、手にあまるという理由で、数ケ月の後除籍された。
===========引用終り=====================
そして詩や小説を書き出していたポーはやがて頭角を表し、雑誌の編集者となります。
===========引用開始=====================
或る雑誌の所有者が二つの賞金を寄附した。一つは最良の短篇に、一つは最良の詩に。不思議に美しい書体が委員会長のケネディ氏の眼を惹いた。~中略~彼はポオをリッチモンドで南方文学新報(サザン・リテラリー・メッセンジャー)を創立したトーマス・ホワイト氏に紹介した、ホワイト氏は、放胆(ほうたん)な男というだけで、文学の才能は全く無かった。彼には助力者が必要だったのである。ポオは二十二歳の若輩で雑誌の全運命を双肩に担う編輯者となった。この雑誌の繁栄は彼が築き上げたのである。
===========引用終り=====================
22歳なら1935年ということになります。
さて実際の経歴はというとウィキペディアにも書かれていますが、『E・A・ポー ポケットマスターピース09 (集英社文庫 ヘリテージシリーズ)』(2016/6/23)の巻末に「E・A・ボー年譜」が詳しく載っています。それによれば。
1809/01/09: マサチューセッツ州ボストンに生まれる。翌年10月に父が失踪。
1811/12/08: 母エリザベスが二十四歳で死去。ボーと妹ロザリーは、それぞれリッチモンドのアラン夫妻とマッケンジー夫妻に引き取られる。
1815: アラン夫妻はイギリスに移住。 <=単なる旅行じゃない
1820/07: 養父アランがイギリスでの事業撤退を決意、再びリッチモンドに戻る。
1826/02/14(十七歳): ヴァージニア大学に入学。古典語と近代語を幅広く学び、特にラテン語とフランス語の成績は上位だった。
いやはや生年がずれてました。これなら普通の優秀な学生です。でも賭博で借金を抱えて養父と不仲になり、大学も退学します。
1827/05/26: 「エドガー・A・ペリー」という偽名を使い、年齢も二十二歳と偽ってアメリカ合衆国陸軍に入隊。ボストン港インディペンデンス要塞の第一砲兵連隊に配属。
1829/01: 砲兵連隊の上級曹長に昇進。その後、陸軍を辞めてウェスト・ポイント陸軍士官学校に入る手続きのため、手紙で養父アランに協力を求める。
1830/01(二十一歳): ウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学。年齢は十九歳五か月と記録されている。
つまり10代後半の軍隊時代が、かの波乱万丈の冒険に化けたのですね。年齢詐称なんていくらでもあった時代なんでしょうね。
とどめに「E・A・ボー年譜」の最後にこんな記載があります。
1849(四十歳): 死去
1850(死後): ルーファス・W・グリズウォルドが全集(The Works of the Late Edgar Allan Poe)を出版。後のボー評価に不名誉な影響を与えることとなった捏造満載の「回顧録」を含む。
ただしこの「回顧録」または「回想録(メモワール)」は、自著を批判されて以来ポーに恨みを抱いていたグリズウォルドが悪意を持って捏造したとされています[Ref-3]。しかしボードレールの情報源は生前の諸々のはずですし、軍や陸軍士官学校での詐称の記録も残っているのですから、ポー自身も実生活でもホラ吹きだったというべきでしょう。
またポーと言えば、恐怖、耽美、グロテスクといった印象で語られることが多いのですが、これもポー自身の宣伝というかイメージ戦略という気もします。実際[Ref-3c]には次のような記載があります。
「シャルル・ボードレールは「額に不幸の文字が刻まれた男」とポーを称したが、そうしたイメージはポーが綿密な計算でつくり出そうとした「ひとつ」の自己イメージであり、伝記のなかで定着してゆくことになる」
「ポーは当時話題のセンセーショナルな題材をうまく小説に組み込む商売人であり、本質的に「雑誌作家」であった」
「マイケル・ギルモアの『アメリカのロマン派文学と市場社会』は、文学が商業となった時代を生きたホーソンやメルヴィルの苦悩を早い時期にとらえた名著だが、ポーもまた恐怖を「商品化」し、小説を売らねばならなかった」
本ブログでも書きましたが、私はポーの作品群にはむしろユーモアを多く感じます[Ref-4]。そういう作品が私の好みだという点もあるでしょうし、恐怖、耽美だけで表せるような作品は読んでみると割に少なかったという意外性もあるでしょうけど。また、グロテスクなユーモアとかブラック・ユーモアというものがありふれた現代の目から見ていることもあるかも知れません。
またSFファンとしては、推理小説の始祖としてだけではなくSFの祖父としてのポーという像ももう少し広まって欲しい気もします。本格SFとしては気球を描いた3作品でしょうが[Ref-5]、20世紀のSF作家の作品とされてもおかしくない作品なら目白押しです。まあ、恐怖や耽美もSFの要素ではありますから。
なお、生誕200周年記念で『エドガー・アラン・ポーの世紀』という本が出ていました[Ref-6]。研究社のサイトの目次を見ると、「空想科学小説 「ハンス・プファアルの無類の冒険」を中心に / 野口啓子」というタイトルがありました。日本ポー学会というものも活動していますね。
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Ref-1) エドガー・アラン・ポオ(著) ;大西尹明(訳)『ポオ小説全集 2 (創元推理文庫 522-2)』(1974/06/28) ISBN10:4-488-522025
Ref-2) 『E・A・ポー ポケットマスターピース09 (集英社文庫 ヘリテージシリーズ)』(2016/6/23) ISBN-10:4-087-61042X
Ref-3) グリズウォルドの捏造について。
a) wikipediaよりエドガー・アラン・ポー#受容史
b)note.com:『エドガー・アラン・ポー』生前評価されなかった作家。wikipediaの記事と同じ情報源らしく、グリズウォルド関連の文章がほぼ同一。
c) 西山智則『テロ/恐怖/ポーの世紀 : 商品としてのエドガー
・アラン・ポー(1)』「埼玉学園大学紀要. 人間学部篇」14巻,p1-14,(2014-12-01)、その本文
Ref-4) 探偵小説を探せ: ポーの作品で探偵小説はどれなのか? (2017/05/06)
Ref-5) 気球3部作
『ハンス・プファアルの無類の冒険(The Unparalleled Adventure of One Hans Pfaall)』宇宙小説
『メロンタ・タウタ(Mellonta Tauta)』未来小説
『軽気球虚報(The Balloon Hoax)』近未来小説
Ref-6) 八木敏雄 ;巽孝之『エドガー・アラン・ポーの世紀 生誕200周年記念必携』 研究社(2009/05/26)
a) 研究社の紹介。詳しい目次あり。
b) 日本ポー学会(The Poe Society of Japan)のニュース記事(2009/05/12)
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