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青春18切符 東京の桜見学と近郊の路線見学③靖国神社の桜標本木 新京成電鉄の最終日

2025年04月09日 08時29分24秒 | 東京都

靖国神社のソメイヨシノ標本木。

2025年3月31日(月)。

早朝から、目黒川、皇居乾通りの桜を見たあと、乾門からそのまま千鳥ヶ淵ボート場方面へ歩き、靖国通りに至ると、次の目標である西近くの靖国神社のソメイヨシノ標本木まではわずかな距離だった。10時30分を過ぎ、靖国神社も参拝客や桜見物の客で混雑していた。

入口の案内所で標本木の位置を尋ねると、境内の鳥居と「神門」をくぐってすぐ右側にあるという。

広大な参道を進んで、第2鳥居と神門をくぐると、右側の桜の群れ一つに人だかりがあり、すぐわかった。テレビで見るような木柵が廻らされており、感慨深かった。

靖国神社のソメイヨシノ標本木。「能楽堂」横にある。

開花・満開を観測する対象を「標本木」と言う。1966年から靖国神社の桜を観測するようになった。それ以前は、気象庁構内に植えてあった桜の木で観測していた。都内の桜の標本木は当初、千代田区竹平町(現在の一ツ橋)にあった気象庁の庁舎内に存在した。同庁が1964(昭和39)年に千代田区大手町へ移転したことに伴い、標本木を変更した。庁舎から遠くなく、土地開発などの影響が少なく、長期間観測ができる靖国神社の桜が標本木に選ばれた。

現在、気象庁は虎ノ門、東京管区気象台は清瀬市にそれぞれ移転している。

靖国神社によると、現在の樹齢は不明だが、標本木に選定時点ですでに成木だったとみられる。桜は老木になると、花の咲く時期が若い頃に比べ、わずかに早くなる傾向がある。標本木の選定から50年以上たつが、神社では根元の土壌を柔らかくしたり、割った竹を埋めて通気性と通水性を確保したりすることで樹勢回復に努めているという。

子爵品川弥二郎像と「九段の常燈明台」。

靖国神社の標本木見学後、靖国通りを下って武道館を眺めながらメトロの九段下駅へ向かった

品川弥二郎の銅像は、九段南二丁目2、九段坂・牛ケ淵のお濠沿いの九段坂公園内にある。上野の西郷隆盛像や皇居前の楠木正成像の制作で知られる高村光雲の監督で制作された。原型作者は木山白雲、鋳造者は平塚駒次郎、建設者は西郷従道他2845名とされている。設置は1907(明治40)年とされる。

品川弥二郎長州藩足軽、品川弥市右衛門の長男として生まれた。15歳で松下村塾に入門。その後、長州藩士として尊皇攘夷運動で活躍。京都で倒幕運動に奔走した。

維新後、明治3年(1870)戦争視察の命令で欧州に派遣。ついで留学を希望し、ロンドンに留まった。その後も軍事を学ぶため兵部省からドイツに派遣され、次第に政治や経済に注目するようになった。

駐独公使、農商務大輔(次官)などを歴任。明治17年(1884)子爵に。明治24年(1891)年第一次松方内閣の内務大臣となり、松方の命で強力な選挙干渉を行い引責辞任を余儀なくされた。

 晩年は、吉田松陰の遺志を継いで京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めた。

「九段の常燈明台」と武道館。

「九段の常燈明台」は正式には高燈籠と言い、明治期の文明開化の一環として、1871年(明治4年)に建築された。

高さは約17m、基壇・燈塔・塔室・屋根・冠蓋・風見・避雷針の各部から構成されている。基壇・燈塔廻縁(台座部分)は方形、燈塔・塔室・屋根はそれぞれ円筒八角形である。基壇は袴状で、表面は全国の名石をセメントで固めて築いたといわれ、頂きには切石がめぐらされている。

燈塔廻縁は円弧状形の持送り石モルタル仕上げで、燈塔自体は八角円で整層切石積み、内部は空洞、石積み上部には燈塔廻縁と同仕上げの塔室廻縁が載っており、塔室窓台の石が組まれている。

 設計者などについての詳細は不明だが、下部基壇は自然石乱石積みで組む袴状の日本的な様式、上部は八角円筒の西洋式という、いわば和洋折衷の様式は、幕末から明治初期にかけて流行した。

初めは靖国神社前偕行社の構内に築造されたが、道路の新設などの理由から、1930年(昭和5年)に現在の場所に移された。 当時は九段坂上の急斜面に沿った高台で見晴らしが良く、品川沖やはるか遠くの房総半島からも灯りが見えたとされる。

『東京名所図会』の中には、「常燈明台は有名なるものにして、九段の坂の上、偕行社構内の南角にあり、種々の丸石をセメントを以て積み上げ上を角石にて畳み回覧を施し、最上に四面ガラスを以て鎖せる室を設け、内に灯器を備ふ、最頂には、東西南北を示せる敷か指鍼を附せり、毎夜必ず点灯す、遠く之を望むに大星の如し、故に品海、暗夜の標ぼうとなり居りという。」と書かれている。

 小林清親の「九段坂五月夜」など九段坂を題材とした、明治・大正期の錦絵、写真、絵画には必ずと言っていい程この常燈明台が描かれた。

 周囲に高層ビルが建ち海が見えなくなった今でも、九段坂を上って千鳥ヶ淵へと続く北の丸公園入口や旧江戸城田安門をライトアップするかのように点灯する燈台の灯りは、幻想的な空間を演出している。

新京成電鉄。松戸駅。

12時30分頃、JR松戸駅に着き、隣接する新京成電鉄松戸駅に着いた。新京成電鉄には1970年前後に兄一家が西船橋に住んでいたころに一度乗車してみたことがある。「滝不動駅」の名前が、当時新聞広告で宣伝されていた日本不動産銀行のワリフドーと似ていたからである。畑地帯の中をのんびり走る路線であった。今回乗車してみても、「滝不動駅」周辺は畑が多かった。

今回の旅行に先立ち、東京圏の私鉄の障害者割引やフリー乗車券を検索していると、新京成が3月31日に最終営業日となり、それまでは障害者半額割引であると知った。

新京成電鉄株式会社は、千葉県松戸市の松戸駅と習志野市の京成津田沼駅の間の路線を経営していた。1946(昭和21)年10月に京成電鉄の子会社として会社が設立され、1947年12月に新津田沼駅・薬園台駅間が営業開始された。1955年4月全線開業。2025年(令和7年)4月1日、親会社の京成電鉄に吸収合併されて消滅した。1990年5月31日以降、関東地方で唯一の準大手私鉄に分類されていた。

新京成。新津田沼駅。

乗り換えのJR津田沼駅までは予想より歩かされた。西船橋駅まで行き、乗ってみたかった武蔵野線に乗車し、終点の府中本町駅で途中下車した。

大國魂神社の鳥居。東京都府中市の府中本町駅前から。

15時40分頃。このあとJR南武線武蔵小杉で乗り換えて、新橋駅に向かった。17時30分に友人2人と待ち合わせていたからである。



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