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稚内市北方記念館⑦間宮林蔵 樺太アイヌ・北方民族の風俗 北夷分界余話(ほくいぶんかいよわ)

2024年09月02日 09時09分00秒 | 北海道

稚内市北方記念館。稚内市稚内村ヤムワッカナイ。

2022年6月18日(土)。

 

アイヌは、樺太北部東岸のニブフ(ギリヤーク)を「ニクブン」、樺太北部西岸や大陸の住人を「スメレンクル」ウィルタをオロッコと呼んだ。

 

『北夷分界余話(ほくいぶんかいよわ)』。

間宮林蔵(1775または1780~1844年)は、江戸後期の探検・測量家で間宮海峡の発見者。常陸(現・茨城県つくばみらい市)の貧農の子として生まれたが,数学の才能を幕吏に認められて規矩(きく)術(三角測量)を学び、寛政12(1800)年蝦夷地御用掛雇となる。同年箱館で伊能忠敬に会い師事、天測術(緯度測定法)を学ぶ。1806年択捉を測量。

1808年調役下役元締松田伝十郎と樺太に派遣され、伝十郎は西海岸、林蔵は東海岸を調査。翌1809年北西岸の調査ののちギリヤーク人に同行してアムール川下流のデレンを訪れ,周辺諸民族の清国への朝貢の実態を把握した。その成果は『東韃(とうだつ)地方紀行』『北夷分界余話』となってあらわれた。

この探検によって樺太と大陸間の海峡存在の問題を解決し,アムール,リーマンの両岸を含む樺太地図を作成した。高橋景保を通じて彼の地図を入手したシーボルトは,この海峡を「間宮の瀬戸」と名付けた。

1812年再度蝦夷地に渡り、伊能忠敬の未測量地域の海岸を実測、1821年に完成した忠敬の『大日本沿海輿地全図』には、林蔵の測量が生かされているといわれる。

1822年江戸に帰り、外国船渡来の風聞や密貿易調査の隠密活動に従事。1828年林蔵の届出により、シーボルトと幕府天文方高橋景保との交流が明らかになり、これがシーボルト事件の発端となる。1834年以降、林蔵は海防問題を通じて水戸藩と接触した。

東韃地方紀行(とうだつちほうきこう)。「北夷分界余話」(ほくいぶんかいよわ)。

間宮林蔵は,幕府の命により文化5、6年(1808、9)にかけて、樺太の西岸を北上し、樺太が島であることを発見するとともに(間宮海峡の発見)、黒竜江下流地域の東韃(とうだつ)地方まで調査を行った

本書は林蔵の黒竜江下流域探検について口述したものを村上貞助(1780-1846)が編集・筆録したものである。文化7年(1810)の成立で、翌8年(1811)に幕府に献上した。「北蝦夷島地図」(きたえぞとうちず)、「北夷分界余話」(ほくいぶんかいよわ)ともに、「間宮林蔵北蝦夷等見分関係記録」(全14帖7鋪)として、平成3年国の重要文化財に指定されている。

『北夷分界余話』・『東韃地方紀行』の絵は、村上貞助が描いたものである。幕府に献上した「北蝦夷地図」を見ても、林蔵が細かいメモを取ったことが想定される。貞助はアイヌ以外の人びとを見ていないから、ニヴフの魚皮衣や帯、船などの細かな描き方は、林蔵のメモなしには描けなかったといえる。また、林蔵の記録にしか残されていない習俗もある。

『北夷分界余話』の「女夷洗屍」は、アイヌの長の死体を毎日洗う、アイヌの葬礼を描いた唯一の例である。

 

稚内市北方記念館⑥樺太アイヌ 宗谷アイヌ