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稚内市北方記念館⑥樺太アイヌ 宗谷アイヌ

2024年09月01日 09時08分18秒 | 北海道

稚内市北方記念館。稚内市稚内村ヤムワッカナイ。

2022年6月18日(土)。

 

樺太アイヌは、かつて樺太南部に居住していたアイヌ系民族である。

北海道アイヌや千島アイヌとは異なる文化・伝統を有することで知られる。トンコリ(五弦の琴)やミイラ葬の風習は、アイヌ文化の中でも樺太アイヌにしか伝承されていない。1945年のソ連による樺太占領によって大多数の樺太アイヌは樺太を離れ、以後は北海道各所に散在している。

樺太全域に居住していたわけではなく、特に樺太南部に集中して居住していた。これは樺太アイヌの祖先が先住民(オホーツク文化人=ニヴフ)を押しのける形で北海道から樺太へ進出していった歴史が関係していると考えられる。13世紀から近代に至るまで、樺太では樺太アイヌ、ウィルタ(アイヌからの呼称はオロッコ)、ニヴフ(アイヌからの呼称はスメレンクル)の3民族が共存していた。

また、樺太アイヌは前近代には北海道日本海沿海部にも居住していた形跡がある。河野広道の調査によると近代においても樺太アイヌと余市アイヌは墓標の形が同じであり、これは両者が同一の文化圏に属するグループに属することを示唆する。

北海道アイヌは樺太を中心として周辺の島々(礼文島・利尻島)に居住する者達を「レブンモシリウンクル」と呼ばれる一つのグループとして認識していた。

アイヌ文化が成立する13世紀以前、樺太・北海道東北部・千島にはオホーツク文化人が居住しており、日本からは粛慎(ミシハセ)、中国からは流鬼と呼称されていた。

13世紀モンゴル帝国が勃興すると、アムール川河口付近に居住する「吉里迷」(ギレミ、オホーツク文化人に相当すると見られる)を従えるようになった。1264年にはギレミの民が「骨嵬(クイ)」や「亦里于(イリウ)」が攻めてくるとセチェン・カーン(世祖クビライ)に訴えたため、モンゴルは軍勢を樺太に派遣し、骨嵬(=アイヌ)を討伐した。この頃、北海道から樺太に進出したアイヌ系集団が樺太アイヌの祖先になったと考えられている。

江戸時代、樺太アイヌはアムール川流域の諸民族と交易を行い(山丹交易)、樺太アイヌがもたらす蝦夷錦などの物品はアイヌ社会・和人社会双方で珍重された。

1875年(明治8年)、日露間で千島・樺太交換条約が結ばれ、樺太アイヌと千島アイヌは3年の経過措置の後に居住地の国民とされることになった。開拓使長官黒田清隆は樺太アイヌを北海道に集団移住させることを決めたものの、アイヌ側の反発は強く、「故郷の島影が見える宗谷ならば」という形で妥協した。当時の南樺太に在住していた先住民族は、アイヌを主体に2372人だったが、そのうち108戸841人の樺太アイヌが宗谷へと移住した。

ところが翌1876年(明治9年)、黒田は樺太アイヌを対雁(ついしかり。江別市。石狩川下流、旧豊平川との合流点付近)に再移住させるよう命じた。「宗谷ならば」という条件でアイヌ内部を取りまとめていた首長は突然の裏切りに憤死し、残った人々は銃で脅されながら強制移住させられた。

対雁の樺太アイヌは政府から農業指導を受けたが、もともと漁業で生活していただけに収穫は芳しくなく、開拓使の保護政策も成果を挙げられなかった。男たちはあくまで漁業で生きるため、春には厚田のニシン漁、秋には石狩のサケ漁へと出稼ぎをするようになった。

1879年、日本全国でコレラが発生。対雁の樺太アイヌのうち74名が感染し、30名が死亡した。1886年から1887年にかけて、コレラと天然痘が大流行して、対雁のアイヌのうち300名が犠牲となった。生存者たちの多くは石狩の来札(らいさつ。石狩市)へと移住した。

ポーツマス条約によって南樺太が日本領となった翌年の1906年、樺太アイヌの大多数は故郷へと帰還することとなったが、人口は半数以下に減少していた。

1945年(昭和20年)にはソビエト連邦によって南樺太は占領され、これに伴い多くの樺太アイヌが北海道へと移住した。

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