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読書メモ 「継体天皇と即位の謎」(大橋信弥、2007年)

2024年09月15日 09時01分47秒 | 歴史

「継体天皇と即位の謎」(大橋信弥、2007年)

 

継体天皇応神天皇五世孫なのか、王統とはつながらない地方豪族であったのか。出自をめぐる問題、擁立勢力と即位の事情などを、今城塚古墳の発掘成果や息長氏との関わりを交えて解明。謎に包まれた実像を探る。

 

息長氏出自説。岡田精司、1972年。

鈴鏡。東国の埴輪女子人物像。従来は巫女と見られていたが、貴人像という見方も。

近江高島郡。三尾君。田中王塚古墳(5世紀後半)、鴨稲荷古墳(6世紀中頃)。

福井。三国。丸岡、金津の横山古墳群。6世紀前半から中頃。三国真人前身一族。

近江坂田郡。姉川流域の坂田古墳群と天野川流域の息長古墳群。息長地域は5世紀後半まで目立たず、6世紀になり有力な首長墓が出現する。6世紀初頭の塚の越古墳、6世紀前半の山津照神社古墳。前者は坂田酒人。6世紀までは息長氏は坂田酒人氏より弱小の勢力。

野洲。近淡海安国造(安直)。壬申の乱で近江側に加担して没落。大岩山古墳群。6世紀前半。

 

和邇(和珥)氏。唯一の中央豪族出身の継体妃。南山城に勢力圏。和邇系氏族が琵琶湖西岸から越前・若狭へのルートを占める。角山君、小野臣、近淡海安国造、粟田臣。

和歌山県隅田八幡神社の人物画像鏡。「503年、百済の武寧王(斯麻王)が忍坂宮にいたホド王(継体天皇)に贈る」と解釈すれば、任賢天皇在位中にホド王(継体天皇)は百済外交を担当し、次期大王として忍坂宮にいたことになる。

「書記」継体天皇25年(531年)に、崩去。百済本記に「太子・皇子ともに亡くなる」と記す。

摂津三島の太田茶臼山古墳。5世紀前半から中頃。継体の祖父か曽祖父の世代。継体一族の本拠は三島か。彦主人王の墓か。

三尾氏の本拠は近江高島か越前坂井か。安曇川の北に角山君、南に三尾氏。

継体の擁立勢力は母振媛の出身氏族・三国君と近江高島の三尾君、尾張連、和邇氏。

息長氏の中央進出は敏達妃の広姫(息長真手王の娘)入内以降。広姫の子の彦人大兄皇子は欽明の父で、天智・天武から皇祖とよばれたため、広姫の父系を重視する必要があった。壬申の乱で、近江側の三尾氏、近江臣氏、安直氏は没落。天武八姓で息長氏は第一位の真人になる。古事記編纂のさい、広姫の出身氏族息長氏の系譜が修飾された。