goo blog サービス終了のお知らせ 

いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」
は2023年7月に全件削除。はてなに移転。

山形県鶴岡市田麦俣 「旧遠藤家住宅」②「兜造り」多層民家の内部 2階から4階

2025年01月29日 09時07分26秒 | 山形県

多層民家「旧遠藤家住宅」。山形県有形文化財。山形県鶴岡市田麦俣字七ツ滝。

2024年9月13日(金)。

 

田麦俣地区では、三層構造で居住空間と客人を泊める空間を立体的に確保した茅葺きの建築形式が発展した。これらの民家は明治に入り養蚕業が盛んになると、2階・3階部分の採光と通風を確保するため、寄棟屋根の平部分には屋根窓(高はっぽう)が設けられ妻面側は屋根を垂直に切り上げた兜造りへ改造されるようになった。

旧遠藤家住宅内部は、一階が主に家族の居住用として、二階は下男たちの居住用及び作業場・物置として使われた。その上に養蚕と作業のための三階「チシ(ツシ)」、さらにその上に物置用の「天井チシ(ツシ)」がある。

三階部分は蚕の上蔟、物置として襲われていた。養蚕は多収入を得ることができるので、蚕のことを「お蚕様」と呼び、大切に扱っていた。

四層目の屋根裏。

このあと、南東方面から山越えして山形盆地方向へ下り、大江町の左沢楯山城史跡公園へ向かった。

山形県鶴岡市田麦俣 「旧遠藤家住宅」①「兜造り」の多層民家


山形県鶴岡市田麦俣 「旧遠藤家住宅」①「兜造り」の多層民家

2025年01月28日 09時06分38秒 | 山形県

多層民家「旧遠藤家住宅」。山形県有形文化財。山形県鶴岡市田麦俣字七ツ滝。

2024年9月13日(金)。

 

月山北西山麓にある黒川能の里を見学後、南東に進んで湯殿山に近い脇道から田麦俣に入った。標識にしたがい「旧遠藤家住宅」の駐車場に駐車すると、下に「兜造り(かぶとづくり)」の茅葺屋根の民家が見えた。

これは、民宿「かやぶき屋」で、「旧遠藤家住宅」見学の入場券を販売していた。管理人の男性によると、現在修理工事中だが、内部は自由に見学できるという。見学後、坂道を登って裏側へ行って眺めた。

田麦俣地区は、外見的には一層に見えながら、内部は三階にもなっている「兜造」といわれる独特の形を持った四層構造の多層民家の里として知られている。

田麦俣集落は、日本海に面した庄内地方と内陸部の村山地方を結ぶ六十里越街道の要所であり、湯殿山信仰が盛んであったときは宿場的性格を帯びていた。明治時代になると、養蚕に適した環境の中に、この地方独特の建築様式を誇る茅葺屋根の民家がたくさん建てられるようになった。かつてはこの集落のほとんどがこの多層民家だったが、現存するのは県指定有形文化財の「遠藤家住宅」他二軒と、鶴岡市の致道博物館内に移築された「渋谷家住宅」(国指定重要文化財)のみとなっている。

「旧遠藤家住宅」は、かつて田麦俣集落に数多く見られた、この地方独特の建築方式である兜造り多層民家の代表的なもので、江戸時代後期の文化・文政年間(1804~1830年)に建てられた

当初は寄棟造であったが、明治に入り、養蚕が盛んになると、屋根側面は「高はっぽう(高破風)」という輪郭と、反りが美しい「兜造り」に改造され、正面側にも採光と煙出しの窓が造られた。

土地が狭い上に積雪が多く、建物の増築が困難だったので、毎日の暮らしと作業・養蚕のための部屋が一つの建物の中にまとめられて多層の形になったと言われている。

現在の建物は、昭和52年8月から同53年10月にかけて半解体復元工事を行い、明治10年代の姿に復元したものである。

日本遺産「自然と信仰が息づく『生まれかわりの旅』」と「サムライゆかりのシルク」の構成文化財に認定されている。

江戸時代、六十里越街道の宿場町・田麦俣には内陸から入ってくる者と、庄内から入ってくる者に対する番所が二か所、置かれていた。田麦川に架かる田麦橋は、庄内藩主酒井氏が参勤交代の通路として使用され、藩主の管理下におかれ、十三年ごとにかけ替えられた。

この土地は田畑の生産高が少ないところで生計は主に鶴岡城下で使う薪の伐り出し行者の宿泊の賄いや道案内・背負子で立てられていた。背負子とは、決められた区間をリレー方式で荷渡しする仕事で、庄内からの海産物を内陸に運んだ。田麦俣の背負子は志津までの六里を担当し、五貫匁の荷を一日三十八銭で、吹雪の中であろうとも運んだ。

江戸時代には、田麦俣集落の家数はおよそ三十軒あり、その中に永楽屋を始め、七、八軒の旅籠屋があった。元来庄内藩の山守の定住地として発生した集落として伝えられる。田麦俣は大日坊の出張所であったが、明治八年神道となり一時は三山社務所の出張所ができて入山許可証を発行したときもあった。しかし、行者が減ってからはもっぱら養蚕に励むことになった。

水車小屋。

内部は、一階が主に家族の居住用として使用されている。

山形県鶴岡市 黒川能の里 王祗会館 春日神社 王祗祭


山形県鶴岡市 黒川能の里 王祗会館 春日神社 王祗祭

2025年01月27日 08時52分25秒 | 山形県

春日神社。鳥居。山形県鶴岡市黒川宮の下。

2024年9月13日(金)。

道の駅「みかわ」で起床。本日は、羽黒山西麓地帯から南東の山間部を越えて寒河江市方面へ抜ける行程である。まず、80年代から知っている黒川能の里を見学することにして、村の鎮守として黒川能が奉納される春日神社に近づくと、フランスの教会を中心にした村落と似たコミュニティ風景が現れてきた。

春日神社の鳥居横にある駐車場に車を停め、鳥居に行くと石段が丘上の社殿に続いていた。まず予定通り、丘上北東にある資料館の「黒川能の里・王祗会館」を訪れることにした。8時30分ごろだったので9時の開館まで待って入館すると、館長から熱心に話しかけられた。

黒川能の里・王祗会館。山形県鶴岡市黒川宮の下。

黒川能の里「王祇会館」は国指定重要無形民俗文化財「黒川能」を広く紹介する展示機能と、イベントや研修など地域住民の交流や生涯学習の機能を併せ持つ施設である。

展示室では、毎年2月1日から2日夕方まで夜を徹して行われる王祇祭の稚児舞「大地踏」を実物大の人形で再現しているほか、視聴覚室では「王祇祭」「黒川能の1年」「水焔の能と蝋燭能」「豆腐祭 -昭和41年-」の4本の番組を大型スクリーンで放映している。

なお、これまで黒川能伝習館で行っていた上座、下座、春日神社所蔵の装束や能面などの展示は王祇会館に移転した。

展示室内部は撮影禁止である。

重要無形民俗文化財・黒川能。

黒川の氏神、穢れなき稚児、祭りの主人たる長老。対を成す上下2つの座が、新年を祝い、神に捧げる、幽玄の舞。

旧正月にあたる2月1日から2日間にわたって、春日神社の旧例祭「王祇祭(おうぎさい」が行われ、奉納されるのが黒川能である。黒川能は、春日神社の氏子である農民たちによって伝えられてきた。観世流などの現在の五流とは一線を画し、独自の伝承を500年にわたって保ち続けている

春日神社の氏子は、能座となる上座と下座に分かれている。その年の王祇祭の主人となるのは、各座の長老である。

2月1日の未明春日神社の神霊が宿る王祇様上座、下座それぞれの当屋(とうや、神宿)となった両座の長老の家にお迎えして能舞台が設置されていく。

「王祇」とはその土地の神を意味し、御神霊の依代は「王祇様」と呼ばれるようになったという。一般的なお祭りでいう御神輿のような存在でもあり、当屋の守役たちの手で運ばれ、神職によって布が張られる「布着せ」が行われる。

王祇様は、高さ2.5mの3本の杉の鉾を紐で束ね、頭に紙垂(しで)が巻かれている。

座衆一堂に会しての座狩(総点呼)があり、振る舞いが行われた後、夕刻から幼児が勤める「大地踏」で黒川能は始まり、式三番、続いて能5番、狂言4番が夜を徹して演じられる。

翌2日には、ご神体が春日神社に還り、神前で両座が脇能を一番ずつ演じ、その後大地踏、式三番が両座立ち会いの形で行われる。

祭りは、春日神社境内の階段をご神体を手に駆け上る「尋常事」(競争事)など様々な神事を織り込みながら、すべてが終了するのは夕刻に及ぶ。

ご神体の衣布は翌年の当屋に授けられ、また1年をかけて準備に入る。黒川の人びとの生活サイクルは、王祇祭を中心にめぐっている。祭りと能と生活が一体となった村、それが黒川能の里である。

大地踏は、能に先立って行われる。大地の悪霊を鎮め、精霊を呼び覚ますといわれる強い儀式的な意味を持つ。

師匠に抱きかかえられて4~6歳の稚児が姿を現すと、大きく広げられた王祇様を背に新しい命の誕生を象徴するように穢れのない足で九種の特殊な足踏みの型により舞台を踏みしめ、開口風の祝言を朗々と唱える。その演技、演出法は本流となる能楽の影響をある部分では受け容れ、またある部分ではきわめて民俗的色彩の濃い要素を示すなど、芸能史的に重要である。

大地踏で清められた舞台では、露払い役の千歳、天下泰平を祝う翁、五穀豊穣を祈願する三番叟からなる猿楽の能に古くから伝わる祭儀的な演目である式三番が演じられる。使用される面そのものがご神体で、役者は面をつけることにより神格を得る。上座のご神体の面が「白式尉(はくしきじょう)」と呼ばれ翁で使用される。下座の方が「黒式尉(くろしきじょう)」で三番叟に用いられる。

黒川の場合、翁に「公儀の翁」と「所仏則(ところぶっそく)の翁」の2種類あるのが特徴である。公儀の翁は、能太夫(座長)が舞い、王祇祭以外のお祭りではこの翁である。

所仏則の翁とは、上座の翁太夫である釼持源三郎家(椿出)に一子相伝で伝わるもので、その家のものしか舞うことが許されない。そして、この翁は黒川にしかない独特なものであり、王祇祭以外ではいかなる場合にも行われない。

王祇会館横に設けられた野外能楽の舞台。

 

 

春日神社。拝殿。狛犬ではなく鹿である。

春日神社。石段上から鳥居を見下ろす。

春日神社は平安時代初期の807年(大同2年)に創建されたと伝えられ、神号は「新山明神」で、御祭神は健御雷命・伊波比主命・天津児屋根命・比売命の四柱が鎮座している。慶長14年(1609)に社殿が建立され、社殿内に舞台も設えられた。延宝2年(1674)藩主酒井忠義が本殿を造営、元文4年(1739)に拝殿を造営して現在に至っている。享保12年(1727)には「黒川村四所大明神」という神号を用いている。明治8年(1875)春日神社と改名したが、寛政5年(1793)開帳能興行の辻札に「春日四所明神」と記した文献があり、「春日」と明記された最初のものである。

歴代領主の信仰も篤く、鎌倉時代(13世紀)より室町時代(16世紀)にかけて庄内地方を支配した武藤氏は、社殿の造営・土地や祭具などを寄進した。天正18年(1590)上杉景勝は新山明神を修築し、文禄年間(1592~1596)には本殿・拝殿を再興している。その後最上義光が庄内を領有すると、慶長17年(1612)には社領地を定めた黒印状を発行している。元和8年(1622)庄内藩主となった酒井家の入部後も最上氏の黒印状の社領地を認め、神事能を藩の式楽として保護し、城中での上覧能のたびに能装束・能面・道具類の寄進を受けた。

春日神社境内にある黒川能伝習館。

山形県の離島 飛島②日本の渚百選・荒崎海岸 賽の河原 鶴岡市 大寶館


山形県の離島 飛島②日本の渚百選・荒崎海岸 賽の河原 鶴岡市 大寶館

2025年01月01日 09時36分13秒 | 山形県

日本の渚百選・荒崎海岸。

2024年9月12日(木)。

荒崎海岸は日本の渚百選にも選ばれている飛島西海岸の美しい海岸で、ここからは御積島や烏帽子群島が見え、島の西側で一番のビュースポットである。ここから見る夕日は絶景という。

飛島は日本海が広がってきたころに海底火山から噴き出した噴出物が海底に積み重なり、それが隆起してできた島であるが、荒崎海岸はその噴火の時の軽石や流紋岩の破片を含んだ火山礫凝灰岩でできている。

荒崎周辺ではトビシマカンゾウやスカシユリをはじめとした海浜植物、海岸岩壁植物、草原植物が混生するという珍しい植生が広がっており、「飛島荒崎頸部の植物群落」として酒田市の天然記念物に指定されている。

柏木山展望台から見下ろす舘岩(左側)と小松浜海水浴場。

巨大な岩(舘岩)。

立入禁止になっていた。飛島は海底火山の活動でできた島で、島の南端にそびえる舘岩は火山岩の一種である流紋岩でできた一枚岩で、硬い岩石のため浸食されにくく巨大な姿を今に残している。崖上からはかつて北前船の停泊でにぎわった勝浦港が一望できる。

本州から約30km離れた孤島・飛島は、吹きざらしで風の影響を受けやすいという弱点がありながらも西廻り航路の出発点となり繁栄した酒田港を支えた島である。

巨大な岩(舘岩)と島の本体に囲まれ入り江になっている勝浦港は、波や風を遮ることができるため酒田港の風待ち潮待ち港としての役目を担った。酒田港に年間3,000隻も立ち寄った北前船は、多い年にはそのうちの500隻を超える船が飛島に停泊したという。

賽の河原への遊歩道。

小松浜海水浴場から海岸遊歩道の火山岩(流紋岩)が創りだす荒々しい景観のなかをいやになるほど遠く歩くと、こぶしほどの大きさの丸石が大量に打ち上がった「賽の河原」が現れる。

賽の河原。

海辺の霊場である「賽の河原」には、こぶしほどの大きさの丸石が大量に打ち上がっている。島民は滅多に近寄らない場所で、周辺の海で死んだ人は、ここに打ち上げられ、古くから死者の魂が集まる処と信じられてきた。御積島、明神社、そして亡き人の魂が集まるという賽の河原という島の西方は、聖地、霊地として意識されてきた。

この賽の河原に積まれた石は、崩してもいつの間にか元に戻るといわれ、その理由についても、波の作用か、人の作用かと、様々な考察がされているが、真相は謎とされている。

幾つかの石の山は、人が積んだものではなく、自然の風、海の流れで積み立てられたものである。工事中の人が、ここで変な音を聞き、恐くて逃げ出したという話がある。また、石を持ち帰った人には、不幸な事が起こったり、船のエンジントラブルが起こったりするという言い伝えがある。子供が親の為に積み、鬼が来てそれを壊すという霊場の石には、手を触れないという言い伝えがある。

賽の河原にある玉石には特徴がある。崩れ落ちた材木岩の六角の玄武岩が、海の中で他の石や波に揉まれ角が取れ、きれいな玉石になっている。

 

遠ざかる飛島。

賽の河原の往復には30分ほど要した。必死に海岸遊歩道を戻り、自転車で港へ戻ると、13時30分を過ぎていた。自転車を返して、船に乗ると13時45分に出航した。

15時に酒田港に着いたが、時間が限られているので、水曜日が定休日の鶴ケ岡城跡(鶴岡公園)にある大寶館へ向かった。

大寶館(たいほうかん)。鶴岡市馬場町。鶴岡公園内。鶴岡市指定有形文化財。

大正天皇の即位を記念して大正4年(1915)に建てられた赤いドームと白壁が特徴の洋風建築物。大正初期の洋風建築としてバロック様式を模して造られたもので、ルネッサンス風のドームをのせた赤い尖塔屋根と白亜の殿堂は全国でも稀なデザインである。

開館当初は物産陳列場、戦後は市立図書館として利用され、現在は、明治の文豪・高山樗牛、「文学の神様」と称された横光利一、日本のダ・ヴィンチといわれた松森胤保など、鶴岡が生んだ先人たちの偉業を讃える資料を展示している。

鶴ヶ岡城の前身となる大宝寺城が最初に築かれたのは、鎌倉時代初期に出羽国大泉荘の地頭として封じられた大泉氏であると伝えられる。大泉氏はこの地に土着し、後に武藤大宝寺氏を名乗った。

戦国時代に入ると武藤氏は庄内地方の有力な勢力となったが、天文元年(1532年)に大宝寺城は焼亡し、当時の武藤大宝寺氏当主の晴時は本拠を大宝寺城の西にある尾浦城に移し、て大宝寺城はその支城の一つとなった。その後、武藤氏は庄内地方の統一を果たし、武藤義氏の時代に最高潮に達した。しかし、義氏は天正11年(1583年)、最上義光と結んだ家臣の謀反により自害に追い込まれた。その後、庄内地方は上杉氏と最上氏の争奪の地となり機に乗じた上杉景勝によって、天正16年(1588年)併呑された。

江戸時代になると、庄内地方には信濃国松代城より譜代大名の酒井忠勝が入った。忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定め、亀ヶ崎城を支城とした。忠勝は入封すると、簡素な造りであった鶴ヶ岡城を近世城郭へと大改修に着手した。二の丸、三の丸を拡充し、城下町の整備を行った。庄内藩の本城としての偉容が完成したのは、3代忠義の時であり54年の歳月が費やされた。本丸は一部に石垣が使用されたが大半が土塁であり、幅約20mの水堀に囲まれている。

 

道の駅「みかわ」に戻り、翌朝は黒川能の村から見学を始めた。

 


山形県の離島 飛島①酒田港の保安船 テキ穴遺跡

2024年12月31日 09時02分43秒 | 山形県

日和山公園の木造六角灯台と酒田海上保安部所属船艇。酒田港。

2024年9月12日(木)。

本日は、日本海に浮かぶ離島である飛島(とびしま)の見学である。飛島へ向かう客船が出航する酒田港は「さかた海鮮市場」の隣にある。その前に酒田市北部にあるイオンで食料の補給をした。客船は9時30分に出て、10時45分に飛島勝浦港着。復路は13時45分発で酒田港15時着である。見学時間は3時間弱である。定刻どおり出航すると日和山公園の木造六角灯台と酒田海上保安部所属船艇が見えてきた。

20メートル型巡視艇べにばな (CL104)。

 総トン数26トン H11.3月就役。すずかぜ型巡視艇。CL(Craft Large)型。

高速特殊警備船つるぎ(PS201)

全長50.0m×幅8.0m総トン数 220トン H18.3月就役。PS型(Patrol Vessel Small=小型巡視船)。20ミリ機関砲装備。日立造船製。2001年竣工。

川のような酒田港から遠ざかる。

飛島の西方沖に浮かぶ烏帽子群島火山岩でできた島々で、熔岩がゆっくりと冷えて固まったときにできる六角形の柱状の岩石(柱状節理)がたくさん見られ、地元では「材木岩」とも呼ばれている。

烏帽子群島の隣に位置する御積島(おしゃくじま)粘り気の強い溶岩でできた島で、北側にある洞窟の内部は黄金色に輝くうろこ状の岩壁になっており、そのため龍が住む神秘的な場所として、北前船の船乗りや島民に信仰され、今も女人禁制の島として崇められている。うろこ状の岩壁になった要因はウミネコが関係しているといわれている。

飛島は、山形県酒田市に属し、酒田港から北西39㎞の沖合に浮かぶ。面積は2.75k㎡。最高標高は68m。島の平均標高は約50mで平坦な台地状の地形である。

山形県で最も北に位置し、本土からの距離は秋田県のほうが近い。古来、新潟県の粟島、佐渡島とは一直線に結ばれた海の道であり交流があった。

山形県唯一の有人島で島の東側(本土に面した側)の勝浦、中村、北側の法木の計3ヶ所の集落によって構成される。人口は 146人(2024年7月)。

飛島は約1000万年前に海底噴火によって形成され、奥尻島まで続く海底山脈の一部が海面上に出て島となって海底から飛島地塊が聳え立つ。900万年~ 200万年前に隆起や断裂、陥没により海盆や地塊が形成された。200万年~ 1万年前までに地塊は台地状になり、段丘が形成されたと考えられる。

 

島内では、縄文時代早期の終わり頃(約6000年前)などの遺物を出土する葡萄崎遺跡が最古の人類居住の痕跡を残す。葡萄崎遺跡に近い蕨山遺跡からは、東北地方北部の円筒系の土器(円筒上層b式期)と、東北地方南部の大木系土器(大木7b式期)が共に出土した。島内の台地上には、縄文時代のほぼ全期間を通して人々が住んでいたことを示す遺跡が分布する。弥生時代・古墳時代の遺跡は見つかっておらず、この期間には、飛島は生活の舞台とはなっていなかったと考えられる。

島の海岸に面した洞窟遺跡「テキ穴遺跡」からは、9世紀から10世紀前半頃の平安時代の人骨や須恵器、土師器、骨角器などが発見された。人骨は鶴岡市の致道博物館に展示されている。

平安時代には阿倍氏、清原氏の支配下に置かれた。15世紀には、羽後の豪族仁賀保氏の所領となる。戦国時代末期に仁賀保氏が常陸国武田へ移封されると最上氏の所領となった。最上氏、酒井氏が支配した近世には、特産のスルメを年貢として課されていた。

江戸時代には庄内藩の所領であり、酒田港に出入りする北前船の潮待ち港や、水や食料の補給港として重要な位置を占めた。

1996年、西海岸の荒崎が日本の渚百選に選ばれ、2016年「鳥海山・飛島ジオパーク」として日本ジオパークに認定された。

勝浦集落にある勝浦港と酒田市の酒田港の間で、酒田市定期航路事業所により定期船である貨客船「とびしま」が運航されている。所要時間は約1時間15分。

島内にバスやタクシー、レンタカーなどはない。観光用無料自転車および有料の電動アシスト自転車がある。島内は東側海岸線と島中央部の台地上に道路が走っており、大部分が平坦であることから、自転車での移動は容易である。

飛島の勝浦港に着いた。無料自転車は東に100mほどの場所に置いてあったので借りた。東から反時計回りに海岸から台地に上がり、西方向へ一周することにしていた。まず、東京都内で交通違反をした反則金納付が最終日になっていたので、飛島郵便局へ立ち寄った。納付書の書式が珍しいと言われて時間がかかった。その間にATMから数万円引き出した。その後、東に進みテキ穴遺跡へ向かった。

テキ穴遺跡。

勝浦と中村の境界であるホグラ岬の剣ヶ峯にある海食洞で、デデッポ(山鳩)穴の俗称もあるが飛島洞窟とも呼称する。平安時代の9世紀前半と10世紀前後に居住した人骨と土器類が発見されている。洞窟は海岸線に沿った道路際に入口がある。

開口部は幅、高さ共に1.5mほどであるが、洞窟内は三叉状になって3つの洞により構成され、入口より約25mで逆V字形に左折した第三洞で人骨や土器類が発見された。第3洞は奥行きが23m、天井部の高いところで4m、幅広いところで5mある。

人骨は22体分あり、共に出土した土器類から9 - 10世紀の年代が考えられる。人骨は鶴岡市の致道博物館に展示されている。

人が1人通れるくらいの狭い穴がつづく。中はひんやりと暗く、異質な空間である。

奥には深入りせず途中で引き返した。

とびしま総合センターへ立ち寄って、展示はないか、と尋ねると、ない、と言われたのでトイレだけ借りた。ここから台地上へ自転車を押しながら登った。小物忌神社への標識があり、鳥海山の大物忌神社と対をなす神社というので見学したかったが、時間を要しそうだったので諦めた。台地上の車道を西に進み、西海岸の荒崎海岸へと脇道へ入った。