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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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山形県河北町 紅花資料館

2025年02月05日 09時02分50秒 | 山形県

紅花資料館。山形県河北町谷地戊。

2024年9月13日(金)。

寒河江市の慈恩寺を見学後、北東に進み、「べに花の里」として有名な河北町の紅花資料館に16時10分ごろ到着したが、このころから雨が降ってきた。

河北町立の紅花資料館は、紅花の豪商として栄えた堀米四郎兵衛の屋敷跡を整備して1984年に開館した全国唯一のベニバナの資料館である。

堀米家は、元禄の頃から農地の集積を行い、文政年間から明治期まで名主や戸長を勤めた家柄である。その間、米、紅花などの集荷出荷などによって財をなした。

特に紅花は、文化年間(1804~1818)から精力的に取扱い、河北町内でも指折りの豪商に成長した。蓄積された財貨は、農地の開拓や金融に向けられ、大名貸しも行っていたと考えられる。

堀米ゆず子(バイオリニスト)の父親の生家でもある。

江戸末期に堀米家が組織した農兵隊の武器や生活用品および古文書など5000点を保存しており、ベニバナに関連する資料や享保雛などを展示している。

敷地内には紅花畑もあり、7月上旬ごろに咲き誇っている。

紅の館 。紅花の概要、 各時代の雛人形、紅染衣装等を展示している。

江戸時代には、特産の「最上紅花」(昔は村山地方を最上といった)が植えられ、可憐な花びらは紅餅(花餅)となって、はるばる京都へ送られた。京都の紅屋の手によって紅餅から真っ赤な紅がつくられ、それが京おんなの唇を彩るとともに、紅色の美しい衣装を染めあげた

紅餅。

ぞく(紅を付着させた青苧繊維)。

笹紅。

二藍(ふたあい)。黄染(きぞめ)。一斤染(いっこんぞめ)。

朱華(はねず)。韓紅(からくれない)。濃紅(こきくれない、深紅ふかきくれない)。

御朱印蔵。御朱印蔵とは朱印状の収蔵庫で、近郷吉川村の新山神社から譲り受けた御朱印状を収めるために、6代目堀米四郎兵衛則勝が願主となって、文久3年(1863)に建立した。

唐破風向拝付入母屋造の土蔵で、棟梁は松田仁作、設計および正面の彫刻は細谷藤吉、木鼻の獅子は高山文五郎の作、ともに郷土の生んだ名匠である。

 

武者蔵 ( 1853年に建てられた)内部の階段箪笥。

 

17時に資料館を出て、河北町の道の駅へ向かった。

山形県寒河江市 国史跡・慈恩寺 東北随一の寺領地


山形県寒河江市 国史跡・慈恩寺 東北随一の寺領地

2025年02月04日 09時15分59秒 | 山形県

慈恩寺。本堂。山形県寒河江市慈恩寺。

2024年9月13日(金)。

本山慈恩寺本堂」(1618年落成)では、2022年10月から2024年11月まで約70年ぶりの保存修理工事が行われていた。

中山町立歴史民俗資料館の岩谷十八夜観音庶民信仰資料室を見学後、岩谷十八夜観音堂へ向かったが、アケセス道路が水害のため閉鎖されていたので、寒河江市の慈恩寺へ向かった。今回の旅の行程は15日(日)の山形市の芋煮会に合わせており、ここまでの行程を急いで消化してしまった結果、半日ほど余裕ができた。

慈恩寺は本堂が修理工事中ということで対象から外していたが、江戸時代には東北最大の御朱印高であったということは覚えていたのでダメモトで見学することにした。実際には、本堂の葺き替え工事はほぼ終了して外観見学は可能であった。慈恩寺は外観のみであれば見学は駐車場を含め無料である。15時30分ごろ駐車場に着いて境内の諸堂を10分ほど見学した。帰りに薬師堂の前を通ると、仏像見学を終えた人たちがガイドの僧と出てくるところであった。

史跡・慈恩寺旧境内。

慈恩寺山形盆地葉山の山裾の、寒河江川扇状地より一段高い段丘上に位置する院坊屋敷地と境内地は概ね東西700m、南北200mの範囲に収まる。扇状地辺縁は標高約125mで仁王坂を上ると標高約146m、参道を160m進むと標高156mとなる。参道の階段が比高差約13mあり、山門は標高169mに位置する。山門をくぐると階段があり、本堂が位置する平坦地は概ね標高172mである。

参道付近の院坊屋敷地は東側が標高180mの尾根に囲まれており、西へ行くに従って緩やかに下るが、田沢川によって隔絶される。南は比高差20m以上の崖地、東は標高180mの尾根、西は田沢川、北は葉山の山塊に守られている。さらに、この外側に結界を守る4つの神社があり、西は史跡に含まれる八面大荒神(はちめんだいこうじん)、東は箕輪の折居権現、南は八鍬の鹿島神社、北は白山権現である。この結界は東西2.1km、南北3.6kmに及ぶ。

史跡指定面積の合計は約44万6千㎡で大きく3つのエリアに分かれる。本堂を中心とする「本堂境内地」「院坊屋敷地」と後背の「中世城館群」、西の結界「八面大荒神(はちめんだいこうじん)」、および「慈恩寺修験行場跡(山業)」である。

東北地方を代表する寺院境内地は、江戸時代には3ヵ院48坊からなっており、寺領は18カ村にまたがり、東北最大の御朱印高約2812石を幕府より認められ、勅願寺として又鎮護国家の祈願寺として崇敬されていた。

江戸時代に復興した堂社と、院坊の屋敷地のたたずまいは、その背後を取り巻く城館群や旧境内地の北端近くに存在する慈恩寺修験の行場とともに、旧境内の様相を良好にとどめており、我が国の仏教信仰の在り方を知るうえで、極めて重要である。

本堂境内地は、本堂(国指定重要文化財)を中心に、山門(県指定有形文化財)・薬師堂・阿弥陀堂・釈迦堂・天台大師堂(以上市指定有形文化財)が静寂の中建ち並び、江戸時代の姿がそのまま残る。この堂舎が建ち並ぶ平坦地は、平安期に背後の山を切り崩し造られた。中世の慈恩寺は、堂舎群がさらに東方に広く展開していたが、江戸時代初期に現在の位置に集約された。

慈恩寺は、檀家を持たず、「鎮護国家」「国家安寧」等の勅願寺として、摂関家藤原氏、奥州藤原氏、寒河江荘大江氏、山形城主最上氏、そして江戸幕府と、時の権力者より庇護され、江戸時代には幕府より2800石余の寺領を受け、東北随一の巨刹となった。

宗派は、南都の法相が入り、平安仏教の天台・真言が入るなどし、現在は天台宗真言宗兼学の一山寺院となっている。

境内には、重要文化財の本堂をはじめ三重塔・薬師堂などが建立され厳かに時を刻み、平安・鎌倉時代の仏像群は、我が国の仏教美術の至宝として重要文化財の指定を受けている。また、5月5日に奉奏される慈恩寺舞楽は、重要無形民俗文化財となっている。

重文・本堂(弥勒堂)。

当山の中核施設で、元和2(1616)年、山形城主・最上家親の代に建立が始められ、元和4(1618)年に完成桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺桃山時代の様式や重厚な茅葺屋根を今に伝えている。再建当時裏山に群生していたヒメコマツを使った66本の柱は、日本60余州を表したものといわれている。外陣天井には竜や天女が描かれ、本尊弥勒尊ほか秘仏33体が内陣の宮殿に安置されている。

三重塔。(山形県指定文化財)。

慈恩寺の初代三重塔は、慶長13年(1608)に、山形城主最上義光(よしあき)により建立された。文政6年(1823)に隣家の火災により類焼し、同13年(1830)に地元の大工棟梁布川文五郎(ぬのかわぶんごろう)によって現在の塔が再建された。本尊木造大日如来坐像。

山門(仁王門)。(山形県指定文化財)。

元文元年(1736年)築造。3間1戸の楼門造で、入母屋造、八脚門で銅板葺(もと茅葺)。

両側には密迹(みっしゃく)金剛・那羅延(ならえん)金剛を安置。

5月5日の慈恩寺舞楽のさいは、本堂に向かって舞台が組まれ、山門から延びる渡り廊下によりつながり二層を楽屋とする。

 

慈恩寺の本尊は弥勒菩薩で、脇侍として地蔵菩薩、釈迦如来、不動明王と降三世明王を配する日本国内でも珍しい五尊形式である。創建当初は八幡大菩薩を鎮守神として祀っていたが、時代の変化とともに法相宗、真言宗、天台宗を取り入れ、現在は天台宗真言宗兼学の一山寺院として慈恩宗を称する。

 

慈恩寺は、伝承によれば、神亀元年(724年)に行基がこの地を選び、天平18年(746年)に聖武天皇の勅により婆羅門僧正菩提僊那が寺院を建立したのに始まるとされる。山号を寒江山とし、大慈恩律寺と称した。慈恩寺は山中に伽藍を構築しており山岳寺院の傾向を持つ。

平安時代の天仁元年(1108年)鳥羽天皇の勅宣により藤原基衡が阿弥陀堂(常行堂)、釈迦堂(一切経堂)、丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置した。このとき山号を雷雲山と改め、鎮守として白山権現を加えた。

仁平年間(1151年 - 1153年)に興福寺の願西上人を本願者、平忠盛を奉行として再興した。興福寺は藤原摂関家の氏寺であり、法相宗の総本山であった。寒河江荘の荘園主である藤原氏の庇護と、公卿への昇進を目前に控えた忠盛の財力をうかがわせる。

保元2年(1157年)に火災で本堂が焼失するも、永暦元年(1160年)に再建された。

文治元年(1185年)、後白河法皇の院宣と源頼朝の下文により、瑞宝山の山号を賜った。この時、高野山(金剛峯寺)の弘俊阿闍梨により真言宗がもたらされ、翌文治2年(1186年)、法皇の院宣により熊野権現社殿が修造された。白山権現は鎮守から外れることになり、天台宗も中心的役割を失っていく。弘俊は修験を導入し、葉山を奥の院とする葉山修験の中心地となった。

文治5年(1189年)に奥州藤原氏が滅び、寒河江荘の地頭に大江広元が補任されると、慈恩寺も次第に大江氏(寒河江氏)の庇護を受けるようになる。

南北朝時代初め、寒河江氏は南朝方陸奥守北畠顕家の配下に付いた。文和3年/正平9年(1354年)、斯波家兼が北朝の奥州管領として下向すると陸奥国は北朝の勢力下となり、延文元年/正平11年(1356年)、子の斯波兼頼が出羽国に進出した。

応安元年/正平23年(1368年)、大江氏と斯波氏は漆川の戦いで激突し、大江氏は壊滅的な打撃を受けて北朝へ降伏。慈恩寺を庇護する寒河江氏の勢力縮小は、寺社経営を宗徒による自活へと舵を切らせる。

永正元年(1504年)、斯波氏の後裔・山形城主最上義定が寒河江領に攻め入り、兵火により一山仏閣、坊舎が悉く焼亡してしまう。これと同時に宝物も散失してしまったが、本堂の諸仏は難を逃れ1躯も焼失しなかった。仮本堂が築造されるが、往時の本堂を再建する余力はなく、再建は江戸時代を待つことになる。

天正12年(1584年)最上氏の攻撃により寒河江高基が自害し寒河江氏が滅亡すると、慈恩寺は最上氏の庇護を受けるようになり、所領は黒印地として安堵された。

慶長5年(1600年)、山形城主最上義光は関ヶ原の戦いに際して、慈恩寺に対して「立願状」を出して戦勝を祈願した。江戸時代に入った慶長11年(1607年)に最上義光が三重塔を築造し、慶長16年(1611年)には慈恩寺領の指出検地を行った。元和4年(1618年)、義光の孫の義俊の時、本堂の再建が完了した。元和8年(1622年)に最上氏が改易になると、慈恩寺領と衆徒所有の土地が一時幕領となってしまう。別当坊(池本坊、後の最上院)は南光坊天海に接近し、慈恩寺を高野山南光坊(天台宗)直末とする請願をして許される。その後、慈恩寺は真言宗・天台宗兼学の寺院として存続することになった。

江戸時代には東北随一の御朱印地を有し、院坊の数は3ヵ院48坊に達した。修験による祈願寺として御朱印地を拝領していたため檀家を持たず、明治の上知令により一山は困窮して帰農する坊が続出した。現在は3ヵ院17坊を伝える。

昭和27年(1952年)、慈恩寺は天台真言両宗慈恩寺派として独立することになり、昭和47年(1972年)に慈恩宗大本山慈恩寺として独立した。各院坊の住職は、真言方は宝蔵院・華蔵院で修行し位階を取得、天台方は最上院で修行して山寺立石寺で伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受けて僧侶としての位階を取得する。

 

このあと、河北町の紅花資料館へ向かった。

山形県 中山町立歴史民俗資料館 岩谷十八夜観音庶民信仰資料室②オナカマの巫具 トドサマ ボンテン


山形県 中山町立歴史民俗資料館 岩谷十八夜観音庶民信仰資料室②オナカマの巫具 トドサマ ボンテン

2025年02月03日 09時17分33秒 | 山形県

中山町立歴史民俗資料館。岩谷十八夜観音庶民信仰資料室。山形県中山町長崎。

2024年9月13日(金)。

 

岩谷十八夜観音庶民信仰資料。

オナカマたちが巫業の実際に使用してきたものには、トドサマ(神おろしや託宣の際に使用)、アズサユミ(死霊をおろし口寄せするのに使う)、数珠(祈祷・卜占用)、(祈祷用)、筮竹・算木(卜占用)、外法箱(諸用具を収め巫業の実際に使う)、御祓い用木製斧、木彫鬼面などがある。

これらのものは、使用するオナカマが亡くなると酒一升を添えて岩谷十八夜観音堂に納められたり、師匠から弟子に譲り渡されることもあって一様ではなかった。

トドサマは御神体に竹の棒を使ったものが多く、竹芯には経文が入っていて、それを口寄せの御神体としている。

これに真綿をくくりつけたり、紅花染めの絹布を着せたり、約200の細布で包んだり、全体的に着ぶくれしていることが地域的特色となっている。

アズサユミ。

イラタカの数珠はむくろじ(ムクロジ科の喬木)の実をつないで作られ、紐に宝貝・牙・角・古銭を通したもので、呪文の時に使用される。

獣(クマ、イノシシなど)の牙や骨・角、貝殻(タカラガイなど)、翡翠、古銭などは、いかにも呪術性に富むものといえる。

筮竹・算木。

カミツケ。

 

このあと、岩谷十八夜観音堂へ向かったが、アケセス道路が水害のため閉鎖されていたので、寒河江市の慈恩寺へ向かった。

山形県 中山町立歴史民俗資料館 岩谷十八夜観音庶民信仰資料室①オナカマと信者


山形県 中山町立歴史民俗資料館 岩谷十八夜観音庶民信仰資料室①オナカマと信者

2025年02月02日 09時03分10秒 | 山形県

中山町立歴史民俗資料館。岩谷十八夜観音庶民信仰資料室。山形県中山町長崎。

2024年9月13日(金)。

大江町の左沢楯山城史跡公園の見学を終え、東南の中山町立歴史民俗資料館へ向かった。山川の「歴史散歩」を読んだとき「岩谷十八夜(いわやじゅうはちや)観音庶民信仰資料」に関心を持ったからである。

岩谷十八夜観音堂。

中山町中心部の西方約4km山奥にある岩谷地区の十八夜観音堂は、昔から目の病気をなおす「目の神様、仏様」として信仰され、地元はもとより村山地方などの遠方からも多くの信者が参拝に訪れた。本尊の縁日が18日であることから十八夜観音といわれている。

盛時は「オナカマ(口寄せ巫女)」の本山といわれるほど栄え、観音は眼病平癒の仏として祈願が盛んに行われ、眼の小絵馬が奉納された。3月・8月・10月の18日を縁日と定め、村山地方のオナカマが祭や口寄せを行って賑わっていた。

現在は毎年8月18日観音例祭が行なわれ、火渡りの儀式では修験者により清められた火の上を大勢の参拝者が様々な願いを込めて渡っていく光景がみられる。

観音堂の縁起には、飛鳥時代の開基とあるが定かではない。拝殿は大同2年(807年)に再建されたとの言い伝えがあるが、現在の拝殿は江戸中期の建物と鑑定されている。また、本殿には文政9年(1826年) 8月18日再建の棟札が残っている。

観音堂の南西約1㎞の高峰山頂近くに、東の山寺に対して、西の岩谷といわれた天台宗日月寺の奥の院には、修行したとみられる洞窟が数か所あり、内部には鎌倉~室町時代の宝篋(ほうきょう)印塔などが建っている。その存在から推定すれば、本殿は古い時代に建造されたものが再建されたものとみられている。

岩谷十八夜観音庶民信仰資料。

岩谷観音が特に注目されるようになったのは、主に村山地方一円からオナカマが奉納したトドサマという神の依り代(津軽・南部地方のオシラサマにあたる)や、ユミ・ジュズなどの用具信者が奉納した絵馬など951点が国の重要有形民俗文化財に指定されたことからであり、資料は中山町立歴史民俗資料館に保存展示されている。

オナカマは、村山地方において、口寄せ・加持祈祷・卜占などを業とし、東北地方の民間信仰を考えるうえで注目されるものであることから、その入巫・成巫の過程をはじめ、巫業や唱え言などの習俗についても紹介されている。

我が国には、古くから、庶民の依頼にこたえて神がかりし、神意を託宣する巫女がいた。なかでも東北地方や奄美・沖縄諸島は、巫女たちによる口寄せ・加持祈祷・卜占が近年まで幅広く行われてきた地域とされている。

山形県村山地方は、こうした巫業が盛んだった典型的な地域の一つで、オナカマと呼ばれる巫女たちによる巫業を介して庶民信仰が濃厚に展開されてきた。

この庶民信仰資料は、オナカマやその信者たちから篤く信奉されてきた岩谷十八夜観音をめぐる関係資料を体系的にとりまとめたもので、この観音が巫女の守護神、眼病の神として信仰されてきたことから、オナカマの巫業に関わるもの、信者から岩谷十八夜観音に奉納されたもの、およびこの二者に密接な関係にある関連資料を網羅する充実した内容となっている。

信者から岩谷十八夜観音に奉納された鏡、絵馬、祈願札。

嘉永5年(1852)

文久2年(1862)

慶應2年(1866)

絵馬は、宝暦5年(1755)銘のものが最も古く、鏡を取りつけたものや眼病平癒を祈願する参詣図柄のものが多く含まれている。なかには享和3年(1803)銘の獅子踊りの図柄など信仰の多様性を物語るものが含まれている。また、祈願札では、眼病平癒を具体的に明記するものが多い。

山形県大江町 最上川の絶景 左沢楯山城(あてらざわ・たてやま)史跡公園 


山形県大江町 最上川の絶景 左沢楯山城(あてらざわ・たてやま)史跡公園 

2025年01月31日 09時03分58秒 | 山形県

左沢楯山城(あてらざわ・たてやま)史跡公園。最上川展望台。山形県大江町左沢。

2024年9月13日(金)。

鶴岡市田麦俣の旧遠藤家住宅を見学後、国道112号線を山形盆地方向に進み、南の山稜への脇道を進んださらに狭い脇道奥に公園展望台の駐車場があり、左沢楯山城址碑の先に東屋と最上川展望台がある。

城跡記念碑の奥に山城の曲輪跡が視認できる。

左沢楯山城史跡公園は、JR左沢線の終点、左沢駅北側の高台にあり、地元の豪族左沢氏(大江氏)の居城であった左沢楯山城跡地にある。

日本一公園とよばれる東屋のある展望台からは、眼下に迂回する最上川の雄大な流れと、朝日連峰・蔵王の山々を眺めることができる。この場所は全長229㎞ある最上川の中でも絶景とされており、数多くの画家や写真家が県内外から訪れるほか、眺望の良さから最上川ビューポイントに選定されている。

国史跡・左沢楯山城跡。

最上川は米沢のある置賜地方から五百川峡谷を北流し大江町左沢に達するが、ここで急峻な楯山に行手を阻まれ、東へと大きく蛇行して平野部に流れ出る。また、左沢の南部で、朝日山地から東流してくる月布川が最上川に合流する。

左沢は最上川の流れに臨み、五百川(いもかわ)渓谷を経て置賜地方と村山地方を結ぶ軍事上の要地で、最上川の流路の転換点にもあたっている。南方には鎌倉時代に築かれた富沢楯(大江匡朝築城)および対岸の伏熊楯(中山忠義築城:長崎中山氏の祖)があり、東には寒河江の平野が眺望できる楯山の上に正平年間(1346~70) 頃、大江氏によって左沢楯山城が築かれ左沢氏が入った。

左沢氏初代元時は大江時茂(寒河江氏7代)の次男であり、時茂が南北朝の争乱に備えて白岩・柴橋・寒河江・溝延などに一族の子弟を配して守りを固めた際に、左沢に配置された。元時は応安元年/正平23年(1368年)最上氏との漆川の戦いで敗れ一族60数名と共に自害してしまうが、子孫は代々左沢楯山城を守った。

永正11年(1514年)に、左沢氏から吉川宗家に養子として入った吉川政周が伊達氏との抗争で戦死して以後、左沢氏の系譜をたどることはできないが、天正2年(1574年)天正最上の乱で伊達側についた。天正12年(1584年)最上義光により寒河江氏と左沢氏は滅ぼされた。

以後は、最上氏の支城になり、慶長出羽合戦では直江兼続配下の分隊による攻撃を受けた。元和8年(1622年)最上氏が改易になると左沢藩主・酒井直次に引き継がれ、寛永年間(1624年~1645年)小漆川(大江町左沢小漆川)に新城を築いたことで廃城となった。現在は、三の丸付近が楯山公園として整備されている。

左沢楯山城は、本丸、二の丸、三の丸および三の丸北高地からなり、東西1300m、南北600mに及び、八幡座と呼ばれる標高222mの小規模な曲輪を最頂部とする。

本丸には城館と寒河江八幡宮から勧進された八幡社があり、鬼門にあたる東北部には巨海院(こかいいん)が置かれた。二の丸頂上千畳敷とよばれる平坦地になっており眺望がよい。

三の丸は堀切により二の丸から切り離されており、堀切は左沢から寒河江・谷地・大石田へ通じる主要街道であった。三の丸南斜面および西端には寺社が配置され、現在でもその痕跡を見ることができる。

左沢楯山城は、山城・居館・宿町の3つの部分から構成される山城は、字限図の楯山・愛宕山・裏山・弁財天の区域に相当する。楯山の区域は、最上川を眼下に眺める景勝地楯山公園として知られ、公園から尾根伝いに東へ進むと、鉄砲場・堀切り道を越えて千畳敷に至る。ここから蛇沢をはさんだ北方は、付近で最も高い八幡平(標高230m)を中心とする山地で、東麓には寺屋敷の地名が残る。

南西部は、愛宕山・秋葉山・裏山・弁財天(三吉山)の山地が続き、これらが全体として山城を形成している。この山城は、南は最上川、東と北は桧木沢(楯ノ沢)の深い渓谷、西は連続する沼(堤)の湿地帯に守られ、堅固な要害となっていた。

山城は、最初、南北朝時代に大江氏一族の左沢元時によって千畳敷を中心に築かれ、室町後期から戦国初期にかけて、愛宕山・公園部分から北の楯山へと広がり、戦国末期に最上氏勢力が入ってくると裏山・弁財天部分にまで拡大整備され、終には最上領内有数の山城が成立したものと思われる。

次に居館・家臣屋敷は、元屋敷・愛宕下の区域で、南方の下部に前田の地名が広がる。更に宿町は、元屋敷の最上川沿の区域で、川端などとも呼ばれ、最上川に直交する短冊状に並ぶ町屋が見える。最上川舟運から発達した河岸の町並であろう。

左沢は最上川の深く静かな流れ(柏瀞という)を利用して、近世においては舟運の河岸として発展した。特に元禄7年(1694)、米沢藩御用商人西村久左衛門による五百川峡谷の開削と整備は、最上川舟運を置賜地方にまで通じさせ、左沢河岸を飛躍的に発展させることになった。しかし、左沢河岸の発展は近世に始まったのではない。

推定できる中世左沢の河岸と町並は、近世河岸とは別に、下流の元屋敷付近であり、最上川と深く結びついた姿を浮かび上がらせる。同時にこの辺りは最上川の絶好の梁場であり、河岸(舟運)と梁(漁業)で栄える左沢と、それを守り支配する左沢楯山城、という関係を想定することは自然であろう。

一方、陸上交通については、左沢は寒河江・柴橋など東への道、白岩・六十里越街道など北への道、

月布川上流など西への道、宮宿・置賜など南への道が交差する位置にあり、交通の要衝の地であった。

これは大江氏や最上氏にとっては、領地の境目となる重要な地点であったことを意味し、左沢楯山城は

陸上交通の重要な拠点を押えるためにも築城されたことが分かる。

今日に見る左沢は中世の町並と近世の町並が、前田川を境に北と南に併存する興味深い景観を形づくっている。近世に入ると左沢楯山城は廃城となり、小漆川の地に新城が築かれると、それを中心に新しく町割りを行い近世の城下町ができたからである。

寒河江氏(さがえし)は、大江氏の支流で、寒河江大江氏ともいう。寒河江荘を地盤とし鎌倉時代から室町時代初期までは藤原摂関家の請所(地頭請)として、それ以後は寒河江荘を国人領主として支配した。南北朝時代末以降より寒河江の名字を称した。

寒河江氏の祖である鎌倉幕府初代政所別当大江広元は、文治5年(1189年)の奥州合戦で奥州藤原氏を滅亡させた際の論功行賞で、長井荘(置賜郡:現在の置賜地方)および寒河江荘(寒河江市および西村山郡、北村山郡の一部)の地頭職を得て、広大な領地を拝領した。

建久3年(1192年)広大な所領は広元の子らによって分割相続され、広元の嫡男大江親広は寒河江荘の地頭職を相続するに至った。しかし承久3年(1221年)承久の乱が起こると、当時京都守護であった親広は後鳥羽上皇方に味方し、幕府側に付いた父広元や息子佐房と争い、敗れて失脚したため、大江氏の惣領は大江広元死後、長井氏がつとめることとなった。

貞永元年(1232年)御成敗式目が制定され承久の乱の親広の罪が許される。寒河江荘北方は北条氏の所領となり、高元の弟大江広時は北方を除く寒河江荘を相続した。

寒河江大江氏は南北朝時代になると南朝に味方し、建武2年(1335年)大江元政は北畠顕家とともに上京して足利尊氏軍と戦い京より追い出した。元政の子時茂は寒河江荘を子や兄弟に分割して城や楯を築かせ、北朝の攻撃に備えた。

文中2年(1373年)大江時氏は鎌倉公方足利氏満に息子元時を人質として出し和を乞い、本領を安堵されたものの北寒河江荘は斯波兼頼の支配下となる。時氏は寒河江郷に移り「寒河江」を称するようになったという。

天授6年/康暦2年(1380年)、伊達宗遠は置賜郡に侵入し、出羽長井氏の本拠地長井荘の一部を占拠し、高畠城を長井荘進出の橋頭堡とした。元中2年/至徳2年(1385年)宗遠の跡を継いだ伊達政宗 (大膳大夫)は攻撃によって長井荘を横領され、寒河江氏は同族の長井氏の領地を奪った伊達氏と隣接することとなる。

永正元年(1504年)寒河江宗広の死によって、幼少の正嫡(孝広)と庶長子の間で後継者争いが発生する。この混乱に乗じた最上氏にたびたび攻められるが、これを退けている。永正11年(1514年)伊達稙宗が最上氏領内に侵入すると寒河江氏は最上義定に援軍を出し、長谷堂(山形市)で戦闘となった。永正17年(1520年)最上義定が嗣子のないまま死去すると、伊達氏と最上氏の対立が起こる。稙宗は大永元年(1521年)寒河江を攻める。一か月に及ぶ滞陣の間に伊達氏と寒河江氏の間で和議を結び、戦火を交えず伊達軍は引き上げた。

永禄3年(1560年)最上義守・義光に寒河江を攻められるが中野門田で戦い撃退する。元亀元年(1570年)頃から最上義守と子の義光の間で内紛がおこり、天正2年(1574年)義守の娘婿である伊達輝宗と義守連合軍は白岩氏・溝延氏・左沢氏(ともに寒河江氏の庶流)とともに義光派の寒河江城を攻め落とした。その後義光と伊達氏は和睦を結び寒河江氏は伊達氏にくみするようになる(天正最上の乱)。

家督を相続した最上義光は内紛で敵対した勢力を徹底して討伐し勢力を拡大した。寒河江氏家臣団は、一門の吉川元綱の長子寒河江高基を婿として、当主に迎えた。天正12年(1584年)寒河江高基は最上義光に攻められ、当主高基は自刃、約400年間にわたり寒河江荘を支配した寒河江氏は滅亡した。

左沢氏(あてらざわし)は、寒河江大江氏(寒河江氏)の一族で、左沢楯山城を居城とした。

左沢氏初代元時大江時茂の次男であり、時茂が南北朝の争乱に備えて白岩・柴橋・寒河江・溝延などに一族の子弟を配して守りを固めた際に、左沢に配置された。元時は応安元年/正平23年(1368年)最上氏との漆川の戦いで敗れ一族60数名と共に自害してしまうが、子孫は代々左沢楯山城を守った。

至徳2年/元中2年(1385年)伊達氏の侵攻により寒河江氏と同じく大江広元を祖とする長井氏が滅ぼされると、五百川渓谷によって伊達氏と接することになり左沢の重要性は増すことになる。文明11年(1479年)、文明12年(1480年)伊達氏の侵攻を受けるが、寒河江氏・溝延氏と共に戦い、撃退した。永正元年(1504年)7代満政の時、寒河江氏が最上氏にたびたび攻められたとき出羽吉川氏・白岩氏と共に防いだ。その後8代氏政の元服親を庄内地方に割拠した大宝寺氏(庄内武藤氏)がつとめたという。氏政が早世したためか、氏政の叔父にあたる政周が9代目を継ぐが、政周は後継の無かった出羽吉川氏を継いで永正11年(1514年)、伊達氏と最上氏間の長谷堂での争いに参加し討死した。

その後も左沢楯山城には左沢を名乗る将が入るが、寒河江氏からの独立傾向を強めていき、天正2年(1574年)天正最上の乱では左沢氏は、義守の娘婿である伊達輝宗と義守連合軍とともに義光派の寒河江城を攻め落としている。山形城の最上義光が勢力を拡大すると、宗家の寒河江大江氏とともに義光に対抗し、天正年間(1573~91)最上氏に攻められ寒河江大江氏とともに滅亡した。

 

城跡記念碑の奥に山城の曲輪跡が視認できたが、深入りせずに、東南の中山町立歴史民俗資料館の岩谷十八夜観音庶民信仰資料の見学に向かった。

山形県鶴岡市田麦俣 「旧遠藤家住宅」②「兜造り」多層民家の内部 2階から4階