超富裕層のために国家を解体しようとするのがトランプ&マスク体制の本質
資本主義は新たなユートピアの夢を見るか?
2025.03.17 現代ビジネス 隅田聡一郎 大阪経済大学経済学部専任講師
世界が固唾を呑んでドナルド・トランプの一挙手一投足に注目している。アメリカ合衆国の利益をどこまでも追い求めるそのやり方は、市民の65%がトランプ大統領により大きな権限を与えるのは「非常に危険」だと捉えていると公表した世論調査にもあったように、アメリカ国内でも徐々に危険視されつつあるようだ。かくも「国益」むき出しの政治は、ロシアにも中国にも共通する。私たちはこうした国家のふるまいに、どう対応すればいいのだろうか。そうした問題意識もあって先ごろ刊行されたのが、『21世紀の国家論 終わりなき戦争とラディカルな希望』を上梓した隅田聡一郎氏だ。本書で「国家の主権」を根底から問うその思想は、何に由来するのか、隅田さんにインタビューをおこなった(聞き手は編集部。3回連載の第1回)。
長期停滞経済を無理矢理成長させようとすると、富の不平等は拡大する
――本書の「はじめに」は「回帰する国家主権」という見出しです。
第二次トランプ政権が誕生して以降、ますます地政学的な対立関係が流動化しており、国際社会のカオス状態が明らかとなっています。本書で詳しく述べたように、わたしの時代認識は21世紀になって「国家主権」が再び台頭してきたというものです。
国家主権が前景化してきた理由は、リーマン・ショック以来の資本主義経済の行き詰まりがあります。世界に飛び火した恐慌から経済を救うべく、先進各国では中央銀行が強力に金融政策に乗り出してきました。また、2020年の新型コロナのパンデミックでは国家が強制的に日常行動を制限するなど、国家とその政策は私たちの社会生活を大きく左右することになりました。気候変動問題においても、各国で足並みがなかなか揃わないなかで、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)をプラットフォームに、国家が主体となって協議を重ねています。経済恐慌、パンデミック感染症、気候変動といった惑星規模の大きな社会的難題を解決する担い手として、みんなが期待を寄せているのが国家というわけです。保守派であれ革新派であれ、左派も右派も、国家が私たちの生活の舵取りをおもに担わざるをえないと相変わらず考えています。
ですが、21世紀のこうした現象はわたし自身が生きた90年代後半の時代状況とは全く異なるものです。20世紀にはまだ、グローバリゼーションが進むことで国境が相対化され、さまざまな文化が入り混じり、人々が国や民族の垣根を越えて自由に交流し合うといったような、今日から見ればきわめて牧歌的と言える世界の到来がイメージされていました。もちろん当時も、経済がグローバル化したとしても国民国家が消滅することなどないと一部では主張されていたわけですが、そう議論する論者でさえも、まさかここまで国家が前景化してくるとは思いもしなかったのではないでしょうか。
一体どうしてそうなかったのか。例えば日本では、戦後の経済成長期に中間層が豊かになって社会統合が進みましたが、バブル崩壊後、現在まで続くような長期的なスパンで経済が停滞期に入ると、中間層や低所得者層に対する労働分配率を下げて(超)富裕層を形成しようとする政策が強力に推進されていきました。歴史的な視野でみたときに重要なのは、先進資本主義諸国における社会統合には、その反対のモーメント、つまり社会の脱統合、社会統合の解体という契機が同時に組み込まれていたということです。フランスの経済学者トマ・ピケティの議論を連想するならば、富の不平等を緩和するとされた経済成長が、不可逆的に富の不平等を助長することになったと言えるでしょう。
経済が長期停滞の状態に陥ったなかで無理矢理経済を成長させようとすると、資本主義のもとではどうしても富の不平等が拡大せざるを得ない。それで、他には選択肢がないかのように、問題の解決が国家に求められることになります。自分たちの所得や生活水準が国家の政策によって劣悪になっているにもかかわらず、同じ国家の政策によって自分たちの状況が改善されるはずだ、でも今の政治家は信頼できないから新しいリーダーを選んで国家を自分たちに都合良いように作り変えよう、こういう発想から私たちは抜け出すことができていません。
国家のリストラが行き着く先は
――経済が弱くなることで、むしろ政治家に期待する?
システムを問うのではなく、政治家のせいで経済が悪くなっているのだから政治家が何とかしろという考え方ですよね。新自由主義の時代には、政治はもう経済に介入することなく、民間の論理、市場の競争原理に任せると謳われ、政府や国家は退場していくはずでした。でも現実に新自由主義政策が実施される過程はまったくそうなっていません。近年では、1970年代以降(論者によっては1930年代以降)歴史的に現存してきた、新自由主義のメカニズムが詳しく研究されるようになりました。「小さな政府」や規制緩和などといった新自由主義の「理念」ではなく、あくまでもその「実態」が着目されているのです。
じっさい市場原理の理念のために何か改革を実施しようとすると、行政や立法といった国家の構造にメスを入れ、法律や政策を変更して既存の制度を変更するしかない。いまトランプ政権下でイーロン・マスクの政府効率化省(DOGE)が話題となっていますが、トランプ政権に反感を抱く官僚を解雇したり、政府の無駄を省くためといってDEI(多様性、公平性、包括性)を推進してきた行政機構を解体しようとする。ですがそれは、かれらが「理念」として謳う「国家の解体」とはほど遠いもので、文字通りの国家のリストラ、つまり国家の再構築にすぎないのです。スタートアップ企業のような効率的でトップダウン型の権威主義国家へと既存の国家を新しく作り替えようとする壮大な実験であると言えるでしょう。
USAID(アメリカ合衆国国際開発庁)の事業見直しにしても、国民ファーストの名のもとに、結局のところ不動産や経済回廊などの融資プロジェクトに資金を回すための「ウォール街コンセンサス」にすぎないという指摘もあります。つまり、国家のリストラの行き着く先は、超富裕層の利害がよりダイレクトに反映された強大な国家資本主義です。
ビッグテックが、国家から自由な領域という幻想を吹き飛ばした
国家に頼らざるを得ない現在の資本主義というシステムの中で国家に対抗することなど果たしてできるのか。本書では主に1970年代の新左翼と呼ばれた運動家や知識人たちの反国家思想を振り返りました。とくに21世紀初頭に話題となったネグリとハートの〈帝国〉論などです。ですが、グーグルやアマゾンといったテック企業の独占・巨大化によって、人びとの協働やコミュニケーションの発展によって国家から自由な領域が生み出されるなどという幻想は木っ端微塵に吹き飛びました。
これは歴史的に繰り返されてきたことではありますが、国家がリストラされ新しく作り変えられようとするまさにその時にこそ、国家に頼らずとも自分たちの生活を組織するような私たちの力量が問われているのだと思います。もちろん、いきなり国家なしに生活することは無理なわけですが、国家が機能不全になったときに備えて私たちの自律共生力(コンヴィヴィアリティ)を鍛えておく必要があります。そのためのプラットフォームが、果たして古くから存在するような地域共同体なのか、最近流行の「コモンズ」(土地や水、空気といった自然資源のみならず、図書館や交通機関、病院そしてインターネットといった様々な文化的・社会的資源から構成される)なのか、あるいは地方自治体や非営利組織を刷新・強化していくといったことなのか分かりませんが、数多くの実践やケースを列挙することができるでしょう。
なかでも重要なのは国家の政策のようなマクロ政治の次元だけではなく、やはり日常生活というミクロ政治の次元です。「国家主権」を内面化するのではなく、このミクロな日常の次元にこそ私たちの視点を集約させる必要がある。例えば、私たちの家庭ではおもに女性たちが介護や育児といったケア労働に従事せざるを得ないように、極端に社会的弱者にしわ寄せがいくような権力構造が続いてきました。これは何としても変えていかなければならない。自然災害やコロナ禍といった緊急事態の際につねに明らかになることですが、社会システムの基盤を支えるエッセンシャル・ワーク、再生産労働を社会の構成員が全員で支えていく仕組みを作っていく必要があります。
だけれども、富裕層を優遇する政策が実施されてきたなかで、カネ持ちでなければサービスを享受できないような状況が作り出されてきた。今の国家や市場とは別のオルタナティブな仕組みを創造していく必要があるのですが、もちろん現実の仕組みを完全に無視してそれこそユートピアな改善策をただ夢想するだけでは意味が無い。ですが本書で強調したように、今の仕組みだけに埋もれて思考していれば、新しい仕組みというものを発見することができない。今のシステムにただただ漫然と従うか、あるいはシステムを乗っ取って自分たちの強欲をさらに満たすということにしかならないでしょう。
富裕層のために国家を解体しようなどと夢想する今の資本主義的ユートピアに対抗するためには、少なくとも私たちじしんがより良い社会を強く希求しなければならないことは確かです。