砂漠のレインメーカー

夕暮れの 陰の廃墟に 病みを視る
宿す闇こそ 塩の道なり

おのれ橋下…

2011-05-14 20:09:33 | 人文・社会思想

橋下大阪府知事が率いる大阪維新の会が、府立学校の入学式や卒業式などで君が代を斉唱する際、教員に起立を義務づける条例案を準備し、制定へ向けて動き出しているようだ。

【大阪維新の会府議団、君が代条例案提出へ 起立義務づけ】朝日新聞 2011年5月14日5時32分

 大阪府の橋下徹知事が率いる地域政党「大阪維新の会」の府議団は、府立学校の入学式や卒業式などで君が代を斉唱する際、教員に起立を義務づける条例案を5月府議会に提出する方針を固めた。維新の会は府議会で過半数を占めており、可決される公算が大きい。文部科学省によると、都道府県で君が代斉唱時の起立を条例化したケースはないとみられる。

 府議会では、自民党が府立高校を含む府の施設で常に国旗(日の丸)の掲揚を義務づける条例案を提出する方針を決めている。これを受け、維新の会は国旗掲揚の義務化に、君が代斉唱の際の起立義務化も追加した対案を準備することにした。同会は今後、自民と協議して条例案を一本化することも検討する。

 維新の会の条例案は罰則を設けないものの、教員が起立を拒むなど条例に違反すれば、地方公務員法違反などで処分される可能性もある。

 入学・卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱は1989年の学習指導要領改訂で義務づけられたが、文科省は斉唱の際の方法は示しておらず、学校現場の判断に任せている。府教委は2002年以降、各府立学校に対し「教育公務員としての責務を自覚し、国歌斉唱に当たっては起立し斉唱する」と文書で指示してきた。

 維新の会の松井一郎幹事長は条例について「起立しての斉唱は公務員として当然のこと」と説明。橋下氏も府幹部にメールで「(起立しない教員は)公務員の身分保障に甘え過ぎ」「教委がマネジメントできなければ条例化するしかない」と主張していた。

 一方、国歌斉唱時の起立を各教委が学校側に通達し、従わない教員を処分する動きは各地に広がる。09年度には北海道、東京都、大阪府、広島県、香川県、広島市の計6教委が、校長の職務命令に従わなかったとして教員計24人を懲戒処分した。

 最高裁は07年、君が代のピアノ伴奏を拒んで処分された音楽教諭の訴訟で「校長の職務命令は合憲」と判断。一方、東京高裁は今年3月、都立学校の教職員167人の処分を「懲戒権の乱用」として取り消すなど司法判断も分かれている。大阪府で条例が成立すれば、波紋が広がりそうだ。

 大阪府では09年春の入学式と卒業式で不起立の教員が著しく多かった府立学校3校を対象に、計42人を初めて厳重注意処分に。今年4月の入学式でも府立高校の教員2人が校長の職務命令に背いて国歌斉唱時に起立しなかったとして、戒告処分にした。(池尻和生、左古将規)


おのれ橋下…この法・人権・自由・民主主義・平和を理解しようとせぬ弁護士よ、おのれ橋下…
橋下徹とは、僕たち「吉本バラエティ世代」が生み出した鬼子・餓鬼・狂犬であり、僕等自身の分身だと思っている。
だから、このルサンチマンの塊である人物とは戦わなければならない。

戦うと言っても、せいぜい抗議メッセージを送ったり署名したりすることしかできないが。
しかし、出来る事はやる。か細い抵抗でも、やらぬわけにはいかぬ!!!

どう抗議してくれようか…



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2 コメント

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このニュース・・・ (M)
2011-06-09 02:29:58
わたしも絶望的な思いで読んでいました。
レインメーカーさんが怒りのアップをしてくれて、少し救われた想いです。。。

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我々が傷病兵に不具者に屈服するはずがありません。 (レインメーカー)
2011-06-09 02:30:50
Mさん
コメントありがとうございます。

このニュースのなかで、世界に暴力がまみれているなかで、僕等は絶望すべきなのかもしれません。
しかしこの絶望的な中である種の楽観主義を僕は持っています。

それは後の陳情書にも書きましたが、この楽観主義はフロムとウナムーノが教えてくれました。

暴力にまみれたもの、彼らは不具者であり傷病兵です。
ウナムーノが言うように、彼らは絶大な権力を持っている。だから勝利を得る事はできる。
そして僕等は敗北するかもしれません。
しかし彼らには不具者=理性なきもの、精神の視力と聴力と言語力を持たないものです。

橋下氏やその熱狂者たちは、国家主義者だとか新自由主義者だとか言う前に、この精神の視力と聴力と言語力を欠いたものたちだと言えます。

それがウナムーノが言う不具者です。
彼らは精神・理性を持つものを打ち負かすかとはできます。死のなかを生きているのですから。
しかし、彼らは生きる事をしない。
そして精神・理性なきものは、精神・理性ある者たちを決して屈服させることはできないでしょう。

だから絶望のなかで、極めて楽観的です。
絶望などしている暇などないのかもしれません。
それは辺見庸氏や大江健三郎氏が示しているように。
あえて我々はといいましょう。
我々は傷病兵に、精神なき破壊的力に屈服するはずがないのです。
精神ある限り。
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