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【書評】平成・令和 学生たちの社会運動 SEALDs、民青、過激派、独自グループ (小林 哲夫)

2021年02月12日 | 書評




最近の学生運動を、団塊ジュニアとその周辺世代の人生観で整理した本。SEALDsが戦後民主主義を称揚したとして高く評価している。しかしそれは、学生運動を通じ戦後民主主義を否定しながら高度経済成長に乗りかかり、先進国市民となって戦後民主主義と溶け合った団塊ジュニアとその周辺世代の後ろめたさを、SEALDsが肯定的評価へと変換してくれたからだろう。実際SEALDsは、リベラルと自称する市民に転向した左翼崩れを頭数として迎え入れたが、戦後民主主義批判を続ける左翼には敵意を隠そうともせず、ツイッターや中年ゴロツキを使い実力で排除した。

今らから考えればSEALDsは、3・11福島原発事故で実質的に終焉した戦後民主主義にまだ命脈があるかのように装わせるガス抜き運動であり、左派からの「日本を取り戻す」運動であった。「本当はデモなんかしたくない」と毎回断りを入れるSEALDsにとって、取り戻されるべき日本の姿は3・11の2年前か3年前、行政機関に便利使いされる市民エリート気取りのNPOが主催する、ワークショップ、ディベート、政策提言が幅を利かせていた頃だっただろうが。SEALDsが野党共闘の道筋を作ったところで解散したのも、彼らなりに戦後民主主義の形骸を建て直したと判断したからだろう。戦後民主主義の埒外にある沖縄で、SEALDsが解散していないというのも象徴的なエピソードである。

SEALDsの絵を描いた人間は、SEALDsに60年安保闘争におけるブントの徒花的役割を当てはめようと振付したのではないか。高度経済成長、安保闘争、東京オリンピック、大阪万博を通じて定着する戦後民主主義、という復興ストーリーの二番煎じという訳だ。そのうち、益々若年寄の度合いを増したSEALDs残党が、「今度は俺たちの選挙だ!」などとラップを響かせリベラル政党から選挙に出馬することで、2015年安保闘争なるものにオチが付くのかもしれない。

SEALDsのデモには、50歳過ぎぐらいのリベラルそうな大学教授や政治家がよく登壇し、SEALDsと仲良さげにスピーチをしていた。SEALDsの親世代にしてみれば、SEALDsは生温かく見守れる心地いいものであったに違いない。今後も、そういう枠に収まった学生による運動の登場を期待していることが本書から伺える。しかし9・11、リーマンショック、3・11、そしてコロナ禍という世界的クライシスを連続して経験し、今後も間隔をおかずに経験するであろう取り戻すべき日本を持たない今の10代20代にしてみれば、闘うことから逃げ続ける親世代の都合のいい学生運動ノスタルジーなど、馬鹿らしくて付き合ってられないか。


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