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【書評】共同幻想論 (吉本隆明)

2020年10月07日 | 書評



共同幻想論は、昭和20年8月15日に吉本隆明が背負った天皇制国家敗戦による価値崩壊と、無数の幽鬼となった戦争犠牲者が発する怨嗟と復讐を求める声に応える中から生み出された。しかし共同幻想論は、天皇制国家の始原と構造を明らかにすることで、大衆による天皇制国家との決着に同行するという本来の狙いから逸れ、国家や党派に対抗する強い自我を作るための啓蒙本として学生に受け入れられた。原因は、本書が出版されたのが太平洋戦争敗戦から23年経た、東大闘争があった1968年であったことが大きい。その前後から大衆と天皇制は手を携え、戦争の記憶を脇に置き高度経済成長に同調することでマイホーム=マイ会社=マイ日本国という戦後共同幻想を共作した。そして、そこに自我も消費者という装いで着地したのである。大衆というエネルギー供給源を失った共同幻想論は、急速にアクチャルな生命力を失ってゆく。と同時に、吉本隆明自身も大衆の追従者になっていく。

こうして、戦後の大衆消費社会に足元をすくわれた共同幻想論であったが、3・11フクシマ原発事故という価値崩壊と吉本隆明の死によって復活する。明治以来掲げられてきた「富国強兵」という共同幻想のうち、強兵は太平洋戦争敗戦によって、そして富国は3・11によって消え去った。無論、富国強兵の亜種である戦後共同幻想も消え去ったのである。現在我々は、それら共同幻想が今も機能しているふりをしながら生きている。しかし限界だろう。フクシマ原発でメルトダウンした880トンに及ぶ核燃料デブリの存在が、日本国家や日本社会によって演出される共同幻想によって我々が人生を組み立てることを不可能にしている。空母まがいの護衛艦を作ったり原発再稼働をしたり株価吊り上げ操作をしても、共同幻想が再び立ち上がることはないのだ。日本史という共同幻想が亡失した時代を生きる我々は、著者である吉本隆明ですら幻惑され見失った、共同幻想論が提示する課題を解決するしかない。



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