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【書評】対論 1968 (笠井潔 絓 秀実 外山恒一 著)

2022年12月23日 | 書評



対談に参加している、元共産主義労働者党、元学習院大学全共闘、ファシスト(共産趣味者?)は、全員社会運動のポリコレ化を嘆いている。しかしp.137からp.141とp.199からp.203を読むと、この対談者達こそ、中小党派と小サークル頭目特有のケチ臭い中核派への対抗心から、社会運動のポリコレ化に手を貸していたことが分かる。「七・七というのは下剋上だったんだが、血債の思想でそれを“克服“した」(p.202)と手短に表現されてる通り、彼らによる七・七華青闘告発を利用した第三世界革命革命路線で中核派に屈服を迫る下剋上は、中核派が血債の思想という道徳主義を加味したため、克服されてしまった。挙句、血債の思想で息を吹き返した中核派に周恩来が資金援助を申し出たらしく(p.199)、「アジア三派」(p.138)は親方中国に袖にされたようだ。「我々は基本的に中国の革命を、潜在的にはずっと支持してきた」(p.203)。どうやらオリエンタリズム的見当違いが、第三世界代理店のつもりだった両人の思惑を頓挫させたらしい。そして「毛沢東主義と言っているのは“第三世界革命“路線、さらにほぼイコールで“反差別““マイノリティ“路線ということですね」(p.199)となる、意図しない道筋の先にポリコレを導き出してしまうのだ。外山氏の、反ポリコレを掲げた俺解放同盟とでも言うべき立ち位置は、この枝分かれが伸びきった先で枯れ果てたパロディに過ぎない。彼がこの対談の狂言回しに選ばれたのも、笠井氏と絓氏の思想交流が産み出した数少ない成果だからか。

2021年9月に開催された対談(p.227)らしい。だが第三世界革命への未練が滲む「世界内戦」(p.232)なるフレーズを漏らす辺り、三度目の世界大戦、しかも全面核戦争が近づく2022年末では既に牧歌的ノスタルジーだ。随所で“戦後最大の思想家“吉本隆明を問題にしているが、外山氏から『吉本について笠井氏は「功績7分、誤り3分」、絓氏は「功績3分、誤り7分」といっているという程度の違い』(p.8)と軽く一蹴されたように、全共闘の産みの親でありながらそれを遺棄した吉本を超えられない、捨て子達の煩悶を比較したものでしかない。最後の方では、「党派」「活動家集団」(p.232)なる大ボス小ボスの雑炊的連合体(p.55)にしかならない害毒を飽きもせず振りまき、後進を惑わす。連合赤軍も大ボス小ボスの雑炊的連合体=ブントの成れの果てであり、それは〈党〉の病理ではなく雑炊的連合体の打ち止めとなった全共闘の病理である。〈党〉に責任転換したまま理屈を積み重ねても、「フリーダム」を看板にした大ボス小ボスの離合集散を縮小再生産するだけ。高度経済成長と戦後民主主義の前に立ち往生し、敗北を遠方から眺めては撤退する言い訳を作り、「浮遊する都市群衆」(p.67)を景気よさげな市民社会に橋渡しする、いわば新左翼清算事業団破産管財人といった役回り。本書はその原罪に蓋をしたまま幕引きしたいという共通項で開催された、自助グループセラピーに見える。自家撞着と嘆息が基調となる左翼回顧本に、また新たな一冊が加わった。

本書の中で唯一未来に接続するのは、p.64からp.65と、p.90からp.110にかけ、70年安保闘争は60年安保闘争神話の再現として企図されたとする洞察だ。この文脈から、2022年に米中対立、沖縄、安保、日帝として現象していることは、70年安保から持ち越されたベトナム戦争、沖縄、安保、日帝といった“神話の伝承“(p.238)であり拡大された反復として捉えられる。それは3・11福島原発事故で先進国市民というアイデンティティを失った「空虚な群衆」(p.68)に憑依し、前世代から繰り越された「未遂の本土決戦」(p.110・p.124)の実行を迫るに違いない。あと数年もすれば、日本社会から搾取される外国人労働者のために闘う心優しい日本人活動家の弟妹甥姪や友人達が、技能実習生として中国に渡るだろう。道徳主義や倫理由来ではない、実用一点張りな労働者階級のインターナショナルも形作られ、7・7華青闘告発を消化してしまう。これらは否応なく、帝国主義国と第三世界を同時に貫く世界革命を要請する。いつまでも、「どうだ!」(p.9)と鼻息の荒い共産趣味者の出世頭にプロモートされた、小熊英二か絓秀実か笠井誰々かなどというチンケな、1968利権を巡るマーケット争いに付き合う時間も義理もなさそうだ。