世界を敵対的な混沌としてしか体験できない「世界喪失」(p.29)から生成する自己観念は、本書の中で社会不適格合者、落伍者の病的疎外感のように描かれ、全テロルの元凶扱いされている。それでいて自己観念は背理を生理とし、歴史的に共同観念と一連のものとされる。こうなるとテロの前段階でない社会運動とは、共同観念が支配する世俗社会で出世し偉くなって世の中変えようということにしかならない。それとも、新興宗教の信者になっていつ来るとも分からないメシアが主導する千年王国主義運動に期待するか。無論こんなものは日常に回収され、せいぜい職を引退した後、市民運動に参加するぐらいが関の山だ。本書が時代の節目ごとに再刊されるのは、予め観念の牙を抜く去勢効果が高いからかもしれない。臆することなく、革命の源泉は自己観念にあることを銘記しよう。
民衆を捉え切れない自己観念の限界を、弁証法と党派で止揚するのが党派観念とされる。未来をも合一する弁証法は党派にとって諸刃の剣であり、弁証法的運動が行き詰ると党神格化で代償してしまう。結果、党崇拝の証となる総体的テロリズムを呼び寄せることになる。これを打ち破るものとして、著者は集合観念による象徴的暴力を措定しているが、それは神話に強制退行することで、共同観念の設定を初期状態に戻し再起動を促す祝祭であり、共同観念に還帰せざるを得ない。まさに「永劫回帰」(p.238)である。超越的次元を目指す集合観念の具体例とされる千年王国主義運動は、いずれもそういう役割を果たした後、終焉した。集合観念を継承すると称される秘儀結社は、共同観念に寄生する反動的予備電源に過ぎない。現代日本でいえば、全共闘残党やシールズが当たるか。彼らの主導した2015年安保闘争が雲散霧消した後、東京五輪→大阪万博→札幌冬季五輪という共同観念の回帰が演じられている。吉田茂国葬のパロディとして安倍国葬まで差し挟んだのは、貶められた自己観念の意地にも見える。
2023年現在、心的外傷に矮小化された世界喪失が、原発災害や第三次世界大戦、全面核戦争という共同観念の制度的テロにより現実のものとなっている。〈われ/われ〉もろとも世界が滅亡するか〈われ〉が生き残れるかという選択を、我々は突き付けられているのである。観念の堂々巡りも終焉の時を迎えた。これに対抗できるのは、著者が死ぬほどその登場を恐れる「超共同観念」(p.336)だろう。今現在、共同観念を喰い破る観念として本書の中で明示されているのは、自己観念-党派観念の究極形態である超共同観念のみ。革命的党派(p.283)という箱舟が、超共同観念の波に乗り共同観念=国家という枠を超え出る時、超越的次元はコミューンとして現世に止揚される。一刻の猶予もない情勢に間に合うのは、唯一この集団投企だ。
著者は長年、本書の続編として集合観念から革命にたどり着く本論を刊行すると予告しているけれども、いまだ果たされていない。鋭意執筆中のようだが、恐らく未完で終わるだろう。カルマからは逃れられず、撤退する言い訳作りのための一発勝負を正当化するシロモノにしかならないはずだ。そんなものを「包摂-破壊-再包摂-再破壊」(p.192)と、観念的なものの廃滅に至る反.弁証法的実践とするのは、観念の遊戯であり牽強付会のそしりを免れない。あとがきでは、山上徹也には「観念的自己回復」が存在しないかのようだと戸惑いを隠さない。これは本書の影響力がいまだ健在であることを示すもので、考えあぐねることでもなかろう。山上徹也は『テロルの現象学』の止揚をも突き付けている