京都デモ情報《ブログ版》

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【書評】テロルの現象学 観念批判論序説

2023年01月25日 | 書評



世界を敵対的な混沌としてしか体験できない「世界喪失」(p.29)から生成する自己観念は、本書の中で社会不適格合者、落伍者の病的疎外感のように描かれ、全テロルの元凶扱いされている。それでいて自己観念は背理を生理とし、歴史的に共同観念と一連のものとされる。こうなるとテロの前段階でない社会運動とは、共同観念が支配する世俗社会で出世し偉くなって世の中変えようということにしかならない。それとも、新興宗教の信者になっていつ来るとも分からないメシアが主導する千年王国主義運動に期待するか。無論こんなものは日常に回収され、せいぜい職を引退した後、市民運動に参加するぐらいが関の山だ。本書が時代の節目ごとに再刊されるのは、予め観念の牙を抜く去勢効果が高いからかもしれない。臆することなく、革命の源泉は自己観念にあることを銘記しよう。

民衆を捉え切れない自己観念の限界を、弁証法と党派で止揚するのが党派観念とされる。未来をも合一する弁証法は党派にとって諸刃の剣であり、弁証法的運動が行き詰ると党神格化で代償してしまう。結果、党崇拝の証となる総体的テロリズムを呼び寄せることになる。これを打ち破るものとして、著者は集合観念による象徴的暴力を措定しているが、それは神話に強制退行することで、共同観念の設定を初期状態に戻し再起動を促す祝祭であり、共同観念に還帰せざるを得ない。まさに「永劫回帰」(p.238)である。超越的次元を目指す集合観念の具体例とされる千年王国主義運動は、いずれもそういう役割を果たした後、終焉した。集合観念を継承すると称される秘儀結社は、共同観念に寄生する反動的予備電源に過ぎない。現代日本でいえば、全共闘残党やシールズが当たるか。彼らの主導した2015年安保闘争が雲散霧消した後、東京五輪→大阪万博→札幌冬季五輪という共同観念の回帰が演じられている。吉田茂国葬のパロディとして安倍国葬まで差し挟んだのは、貶められた自己観念の意地にも見える。

2023年現在、心的外傷に矮小化された世界喪失が、原発災害や第三次世界大戦、全面核戦争という共同観念の制度的テロにより現実のものとなっている。〈われ/われ〉もろとも世界が滅亡するか〈われ〉が生き残れるかという選択を、我々は突き付けられているのである。観念の堂々巡りも終焉の時を迎えた。これに対抗できるのは、著者が死ぬほどその登場を恐れる「超共同観念」(p.336)だろう。今現在、共同観念を喰い破る観念として本書の中で明示されているのは、自己観念-党派観念の究極形態である超共同観念のみ。革命的党派(p.283)という箱舟が、超共同観念の波に乗り共同観念=国家という枠を超え出る時、超越的次元はコミューンとして現世に止揚される。一刻の猶予もない情勢に間に合うのは、唯一この集団投企だ。

著者は長年、本書の続編として集合観念から革命にたどり着く本論を刊行すると予告しているけれども、いまだ果たされていない。鋭意執筆中のようだが、恐らく未完で終わるだろう。カルマからは逃れられず、撤退する言い訳作りのための一発勝負を正当化するシロモノにしかならないはずだ。そんなものを「包摂-破壊-再包摂-再破壊」(p.192)と、観念的なものの廃滅に至る反.弁証法的実践とするのは、観念の遊戯であり牽強付会のそしりを免れない。あとがきでは、山上徹也には「観念的自己回復」が存在しないかのようだと戸惑いを隠さない。これは本書の影響力がいまだ健在であることを示すもので、考えあぐねることでもなかろう。山上徹也は『テロルの現象学』の止揚をも突き付けている



【書評】ネット右翼になった父

2023年01月20日 | デモ



一昔前まで、働いて家族を養ってさえいればアジア唯一の先進国市民という、優越感を得られた時代があった。こういった層が老境に入ると、日本社会や自分の衰えから優越感を削られ、苛立ちを募らせ始める。それはインターネットやテレビによって形を与えられ仲間を見出す。今さら、どっぷりつかった日本社会や家父長意識を否定できるはずもなく、一方通行のまま先鋭化しネット右翼へ。遅咲きの政治デビューとなる訳だ。割とよくある話。

ネット右翼がことさらに、「普通の日本人」「市民」「右でも左でもない」など世間と地続きであることを強調するのも、無自覚な優越感が発端だからだろう。ヘイト発言する父親とネット右翼は、別個のものでなく同じ病根を持つ枝と葉で、程度の差に過ぎない。左翼やリベラルでも中国や韓国への敵意を示す人がいるが、要は、元々家父長制内左派や生活保守左派だったというオチ。これも「積極的日和見主義」(p.112)などと、中途半端にやり過ごしてきた戦後史の負の遺産だ。

とはいえ家族や友人関係でヘイト発言が収まっているなら、それは良くないよと、その都度注意する対処療法ぐらいしかないか。ことさら家族内で対立することもないが、父親の名誉回復のため積極的に融和しようと、あれこれ並べ立てて自分に心理操作を掛けるのはどうかと思う。もしかすると父がネット右翼になったのは、そういう微温的な団塊ジュニア世代の息子を意識的にか無意識的にか挑発したかったのではないか。父親達が人生を賭けて築き上げた優しい似た者同士の「家」を乗り越えさせるために。



【書評】ゼロからの『資本論』

2023年01月16日 | デモ



マルクスに流行のエコロジーを足して薄め、資本主義に対する不平不満を革命ではなく社会改良の方向に逸らそうという本。数年前本屋の棚に並んだ「○○資本主義」本では、説得力も催眠効果も減退してきたため出番が回ってきたということ。その処方箋は、資本主義社会の中に労働者協同組合といったコモンを作り徐々に増やしていけば、やがてミュニシパリズム(地域自治主義)とも共鳴し合い共産主義に至るというもの。生協のようにスーパーマーケット化するか、NPOのように行政機関の下請けになるかで、資本主義の補完物になるのが目に見えている。「マルクス学者」斎藤氏にしてみれば先刻承知の上で、資本主義社会における自己の役割を全うされているのだと推察する。市場争いから領土争いへとエスカレートし第三次世界大戦前夜となった今では、ボンボンインテリの道楽修正主義に付き合う時間も残されていない。今必要なのは、「帝国主義戦争を内乱へ!」という革命だ。

予めマルクスを無害化し、心配の種を取り除かねばならないほど余裕を失った資本主義の黄昏時らしく、ベーシックインカムやMMTも論難している。172ページから曰く、政治の力でベーシックインカムやMMTを実現しようとしても資本の抵抗に阻まれ困難なこと、それをひっくり返すだけの社会運動がない。たとえ実現しても、他の年金や社会保障費が削られ新自由主義の延命策にしかならないと。確かに、そういう見通しにしかならない。182ページから184ページにかけての、戦後隆盛した福祉国家に対する批判も的を得ている。夢よもう一度とばかり、昨今、SDGsやグリーンニューディールを土台にした新たな福祉国家像が提案されている。しかし新自由主義を経た現代では、福祉国家と資本主義が並立するための高度経済成長が存在し得ない。よくて、一過性の公共事業にしかならないだろう。善意の合理性に基づいたとしても、あらゆる資本主義改良は資本のストライキや政治権力を悪用した妨害により頓挫する。本書の水準でも、これが結論となる。

NISAといった小口投資を広めることで、人々を投資家にさせ資本家マインドを内面化させるという154ページの指摘は、なぜ行き詰っている新自由主義の命脈が尽きないのかを説明する。小口投資やネットトレード、官製相場に多くの人々が紐付けされ、大企業、大株主、官僚、自民党政府と同じ運命、利益を分かち合うコモンを形成する。道理や未来が無いと皆分かっているのに、原発再稼働原発新増設新型原発推進するのも、東京五輪大阪万博札幌五輪といった高度経済成長時代の二番煎じ劇を止めないのも、手を変え品を変えの資本主義改良本が後を絶たないのも、これが理由。社会全体が毒を喰らわば皿までという集団自殺に向かっており、それを見て見ないふりしている。まだ正気を保てている数少ない若者は、真にマルクスが指図する配置に就き闘う道しか残されていない。資本主義の中に逃げ場所がないかと、本書を当たるのは止めよう。今や共産主義革命は、最大多数の幸福を求める社会の再生というより、死中に活を求める社会の生き残りとなった。斎藤氏は、なぜマルクスがあれほどプロレタリア独裁に拘ったのか、避けずに向き合うべきだ。