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【書評】MMT現代貨幣理論入門 (L・ランダル・レイ)

2019年10月07日 | 書評



私たちはこれまで、国家が成立する以前より人々が多様な品々の物々交換を繰り返す中から、塩や米、貝殻など誰もが常に欲しがる保管に適した物品が交換の仲立ちとして使われるようになり、それらが貨幣へ発展していったという商品貨幣説を“事実”として教えられてきた。MMTはその常識を覆す。本書で繰り返し述べられていることは、
『我々の貨幣制度は「国家貨幣制度」であった。簡単に言えば、国家が計算貨幣を決め、それを単位として表示される義務(租税、地代、10分の1税、罰金、手数料)を課し、そうした義務を果たすための支払手段となる通貨を発行する制度である』(38ページ)
ということである。つまり、まず国家が存在して、国家が金属や紙に10000円と記し、今日からこれを使って売り買いしろ、税もこの紙や金属で納めよ、と命令することから貨幣は生まれるのである。子供の頃誰もがやった、紙の切れ端に10000円と書いてこども銀行券を発行した遊びと何ら変らない。
『あなただって、紙切れに「5ドルの債務」と書けばドル建ての「貨幣」を創造できる。問題はそれを誰に受け取らせるからだ。政府ならー何千万もの人々が政府に支払債務を負っていることもあってー受取り手は簡単に見つかる。』(46ページ)
そんな金属片や紙きれでは納得できないから納めない使わない、という輩にはどうするのか。ここからが子供の遊びと違うところだ。ご想像の通り、国家権力は武装した役人をさし向け刑罰を加えるだろう。
「租税の不払いに対して課せられる罰(刑務所行きもある)を避けるために、納税者は政府の通貨を手に入れる必要があるのだ。」(120ページ)
自国民なら警察、他国民なら軍隊だ。警察と軍隊の武力を背景にして、だいたい以下のような経緯で世界は貨幣使用を強制されることになった。
「部族社会や封建社会では、人々は農耕や狩猟を営み、その成果物は慣習に従って分け合うことになる。
誰も貨幣賃金のために働く必要が無いので、通貨を対価とする労働を拒絶できる。賃金労働を拒むことによって賃金税は回避することができる。この場合の最適な戦略は、貨幣経済を避けることである。新国家は自らの通貨を提供するが、受け取るものがいない。新国家は公共目的で資源を手に入れるためには露骨な強権に訴えるー徴用するしかないー経済が貨幣化されていなければ、貨幣所得に対する税は通貨を動かさないのだ。これはまさに、ヨーロッパの宗主国がアフリカを貨幣経済化しようとした時に経験したことである」(289ページ)
MMTは貨幣の正体が税債務ということだけでなく、国家の正体が、武装したこども銀行であることをも暴露する。

当然この事は、税金が国の運営を国民皆で支え合うために、所得に応じて負担する会費であるという常識をも覆す。
「政府が租税をを必要とするのは、歳入を生みだすためではない。通貨の利用者たる国民が、通貨を手に入れようと、労働力、資源、生産物を政府に売却するように仕向けるためなのだ。」(128ページ)
「臣民や市民に債務を負わせることが、現実の資源を公共目的に奉仕するよう動かすことを可能にする。租税が貨幣を動かすのだ。つまり、貨幣は、社会的に生み出された資源に対する支配権を政府に与えるために作りだされた。租税はまず、現実の財・サービスの売り手を生みだすために機能する。」(285ページ)
税金が会費でなく税債務であるなら、国家にとって、我々は主権者でなく負債者ということになる。この社会的主従関係と対立構造を、著者は「公共目的」(285ページ)というマジックワードでぼかす。
「中央政府とは公共目的を明確にし、個人と集団が社会的な(公共間の)目的の達成を目指して努力する社会構造を確立するのに役立つ存在である。―従って中央政府は、社会において重要な役割を果たさなければならない。これをよりうまく実行できるのが、民主的な政府であると長らく考えられてきた。」(363ページ)
政府は債権者でありながら調停者も兼任するというのである。しかし著者は別の場所でこうも述べている。
「本当の金持ちは、議会から課税免除を手に入れるので租税を支払わない」(280ページ)
「注意を払ってきた者はみな、上位1パーセントの権力が、戦後容赦なく増大してきたことに気づいている。」(432ページ)
こうして、国の支配者や支配グループの交代によって支配の態度は変るが、国家制度自体は公平中立なものであるという常識も覆されるのである。無論、独裁だろうが選挙が行われる民主主義だろうが、国家は武装したこども銀行である、という本質に変わりはない。考えてみれば、中央銀行職員と役人は選挙で選ばれたりはしない。

国家とは、暴力と詐欺を使った少数者による多数者を支配する道具、という事実にニアミスするMMTに対して、新自由主義者だけでなくケインジアンまでもが敵意を現すのは当然といえば当然だろう。彼らは国家に寄りかかって、国家に都合のいい錯覚をこしらえることでご飯を食べているのだから。著者自身本書の端々から、MMTの事実説明に潜む危険性や革命性を自覚している節が伺える。しかし、とりあえず現行の貨幣経済で社会が回っているのだからと現状追認に押し止める姿勢だ。
「先進国の経済は完全に貨幣経済化されている。我々の経済活動の多く(あるいは大部分)において貨幣が必要である。そのために、幅広く受け入れられる貨幣を発行できる専門機関が必要である。」(48ページ)
「貨幣制度は、国民の生産の多くをファイナンスし、組織し、分配する。貨幣制度は公共目的達成のため政府が利用する最も重要な仕組みの一つである。」(523ページ)
「公共目的」という雑な接着剤を乱用して、政府と中央銀行の二人三脚を頂点とする既存の金融制度にMMTを接ぎ木し、なんとか資本主義経済の維持拡大に結び付けようとする。それが政府支出の増大と就業保障プログラムという、ケインズの二番煎じのような政策を提案することに繋がるのだろう。ベーシックインカムや政府通貨にも否定的だ。だが著者の思惑を離れて、本書は資本主義変革の跳躍台として多くの分枝を生みだすに違いない。

蛇足ながらMMTを、バラマキ、ハイパーインフレ、社会主義、独裁、借金、無税国家、国債乱発という単語でやり込めようとする人が後を絶たないが、本書を読んでいないかMMTを理解できていない。


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1 コメント

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直接と究極 (工藤ちゃんのベスパ)
2019-11-21 03:12:25
 とりあえず一点だけ(国家の暴力的要素などの問題はさておく)。
 かつてフランス系の言語学が犯した誤りを一部の経済学が再演している。それは論理的には<直接>と<究極>の混同である。それは認識から重力を失わせ顛倒させる素である。
 例えば12階の部屋が直接建っているのは11階の天井だが、究極的に建っているのは地面である。
 言語学は「語彙はただの記号であって、対象とは何の関係もない」とした。それ自体としてはその通りである。しかし全構造を見れば、それは語彙が直接よって立っているのは人間が認識において対象から抽象した概念を基に定立した言語規範であるという「11階の天井」を見落とし、「12階の部屋」(=語彙)と「地面」(認識の究極的な対象)をそのまま繋いでしまうという、論理的には非常に初歩的な過誤である。
 そして初歩的な過誤ほどその危険性が周知徹底されないと再生され易い。それが経済学に現れた。
 MMTは貨幣ないし価値表徴の基礎を国家の経済的側面に求めた。確かにとりわけ管理通貨制の下ではそう見える。しかしそれは11階の天井であって、貨幣ないし価値表徴が究極的によって立つ地面は生産点における人間の労働である。ここから遊離した「価値」を不特定多数の他者―社会に伝播するという行為は如何なる理屈を付与しようとも古くて新しいねずみ講の一変種でしかない。
 MMTは、もし善意であれば論者の勘違いであり、そうでなければおそらく国際金融資本の何らかの計略か悪巧みであると思われる。 
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