パルミラ Palmyra (1) アラビア語 タドモル Tadmor
パルミラはシリアを代表するローマ帝国の遺跡都市でシリア中央部,シリア砂漠の中のオアシスにあり,ユーフラテス川の南西120km,地中海沿岸のフェニキアとメソポタミア・ペルシアを結ぶ東西交易路の中継点としてきわめて重要な隊商都市であった.
旧約聖書の列王記などに古代イスラエルの国王ソロモンが荒れ野に「タドモル ないしTamar(アラム語やヘブライ語のナツメヤシのこと)」の街を築いたと記されている.紀元前2000年にはその名が粘土板に認められ,その後もアラム語でタドモルと呼ばれ,セレウコス朝が前323年にアケメネス朝ペルシアからシリアを奪って後もパルミラは自治独立を維持し,前3世紀頃から多数の地下墓地が建設され,紀元前1世紀頃から交易の関税により潤っていった.
紀元1世紀前半のティベリウス帝時代にローマ帝国のシリア属州の一部となったものの,106年にペトラを都とするナバテア王国がローマに征服されるとその通商権を引き継ぎ,さらに129年ハドリアヌス帝行幸の際にその魅力から自由都市の資格を与えられたため,シルクロードの中継都市国家として大いに繁栄した.アラブ人の市民は東のペルシア(パルティア)式と西のギリシャ・ローマ式の習慣や服装,建築を同時に受容した.
その後の軍人皇帝時代,ササーン朝の侵攻によりパルミラの長官がシリア属州総督となりパルミラはローマから半独立状態にあったが,長官が暗殺されると,その妻のゼノビアが実権を握りアラビア属州の州都ボスラを征服しパルミラ王国を建てエジプトの一部も支配したが僅か十数年,ローマの反撃に遭い273年にパルミラは陥落し廃墟となり衰退,ディオクレティアヌス帝の時代ローマ軍団の基地として城壁が造られたが,1089年の大地震で被害を受けた後は完全に放棄された.
パルミラ遺跡はベル神殿,円形劇場,モザイクやカラフルな大理石の残る公共浴場,列柱道路と四面門などから成る.
ベル神殿Temple of Belはパルミラ遺跡の最も重要な建物である.パルミラとバビロンの最高神ベル(セム語でバールBa'al)と,太陽神Yarhibolヤルヒボール・月の神Aglibolアグリボールの三位一体を祀るため,紀元32年に建設された東西210m・南北205mと広大な建物で,随所に花や蔓などの動植物の繊細な彫刻が施されている.
上・ベル神殿の入場口からのパノラマ(合成写真) 左奥が本殿,その手前が犠牲祭壇,右手が正面の外壁
下・敷地中程から見返った正面外壁方面 ←は犠牲祭壇の屠所 ↓が入場口 ↑は生贄の牛・山羊・羊の通路
左・犠牲祭壇alterで神に捧げられた美しい乙女の首を切るガイドさんの演技
流された血が真下の十字の穴を落ちて地下水路を外壁のほうに下っていった由.パルミラではメソポタミア由来の春秋の雨季の始まりと収穫を祝う儀式がこの神殿で催された.生贄は家畜らしい
右上・神殿の向かって右横に立てられたレリーフ群(もともと本殿cellaの装飾)の一枚目の表
左から頭部が失われた立像二体~椰子の木~台上にざくろなどの実が置かれ,その右に立つのが太陽神(足のみ残る)と月の神(光輪の下部に弧に沿った三日月が描かれている),その間に「鷲」の姿で描かれているのがベル神である.観光客が下にもぐっているのは,底にもレリーフがあってそれを見るため
右下・二枚目の表 ベールで顔を隠した女性たちを伴って駱駝に乗っているのは祭事にやってきたベル神であるという説明もあったが,パネルの解説によると選ばれた守り人が神の宿った聖石を運んでいるのだという.これはアラム人やアラブ人がタドモル(パルミラ)へ移住したことを示している可能性もあるとのこと.
下方に繰り返されている図柄は男性・女性器を象徴するらしい.最下段には葡萄の蔓と房の模様が美しく彫られている.
左上・本殿の正面 左下・本殿の背面 右・本殿の背面の外柱の列を見上げる 柱頭部は風化し削げ落ちているようだ
本殿の右手の側面 縦筋の入った円柱で柱頭部は渦巻のイオニア式か 脇の柱は角柱で柱頭の様式は異なる
壁の継ぎ合わせには真鍮の筋が入っているとのこと
本殿の右手の南の壁龕祭壇thalamos 上記の写真の内側に当たる こちら側の柱頭部はコリント式のようだ
ここの左の壁に残るのはパルミラ文字(アラム文字を手直しした独自の文字)か
北の壁の壁龕祭壇 ベル神は惑星と星座を治めていると信じられていたので,この天井には創建時にレリーフ装飾と漆喰に彩色で宇宙が描かれたというが,距離が遠いのと煤が付いて黒くなっているのでよくわからなかった
神殿前からみた記念門と列柱 記念門の先,列柱は神殿から見て(北)北西へと伸びる.左手にメソポタミアの知恵の神を祀るナボ神殿の跡,続いて右に大浴場,さらに左に円形劇場があり,その保存状態はよいというが,今回は閉まっていて中には入らず.ギリシャ悲劇などが演じられ,旅人の娯楽であったという.
記念門 遺跡の東の入口で,神殿から正面に見えるように向かって右袖の小門は前後に二重構造でその間の横の通路にもアーチがあり,前構造のほうが手前に出ていて全体で三角形の複雑な造りとなっている.
微妙なバランスで崩落を免れている記念門の中央アーチをくぐる
早朝の太陽で逆光に映える記念門と列柱
列柱の梁には樋があったが,その名残を残す獅子像の彫られた穴
ディオクレティアヌスの大浴場付近 列柱にはイタリアはカラーラ産の大理石が使われているが,左の円柱は花崗岩.二番目にあたる写真左端の柱は複製ではなくアスワンから運ばれたオリジナルらしい
四面門Tetrapylonとアラブ城 右手前の台座にのみ立像が残る 夕陽を浴びて赤く染まった四面門はことのほか美しいという 四面門より先の葬祭殿・スタンダード神殿・ディオクレティアヌス城砦には行かなかった.
左・記念門の内側の装飾彫刻 右上・柱頭のコリント式装飾 右下・柱の桁の装飾
解説ではこの上にレバノン杉の屋根が乗っていたと聞いたように思ったが,彫像が飾られていたという.
パルミラはシリアを代表するローマ帝国の遺跡都市でシリア中央部,シリア砂漠の中のオアシスにあり,ユーフラテス川の南西120km,地中海沿岸のフェニキアとメソポタミア・ペルシアを結ぶ東西交易路の中継点としてきわめて重要な隊商都市であった.
旧約聖書の列王記などに古代イスラエルの国王ソロモンが荒れ野に「タドモル ないしTamar(アラム語やヘブライ語のナツメヤシのこと)」の街を築いたと記されている.紀元前2000年にはその名が粘土板に認められ,その後もアラム語でタドモルと呼ばれ,セレウコス朝が前323年にアケメネス朝ペルシアからシリアを奪って後もパルミラは自治独立を維持し,前3世紀頃から多数の地下墓地が建設され,紀元前1世紀頃から交易の関税により潤っていった.
紀元1世紀前半のティベリウス帝時代にローマ帝国のシリア属州の一部となったものの,106年にペトラを都とするナバテア王国がローマに征服されるとその通商権を引き継ぎ,さらに129年ハドリアヌス帝行幸の際にその魅力から自由都市の資格を与えられたため,シルクロードの中継都市国家として大いに繁栄した.アラブ人の市民は東のペルシア(パルティア)式と西のギリシャ・ローマ式の習慣や服装,建築を同時に受容した.
その後の軍人皇帝時代,ササーン朝の侵攻によりパルミラの長官がシリア属州総督となりパルミラはローマから半独立状態にあったが,長官が暗殺されると,その妻のゼノビアが実権を握りアラビア属州の州都ボスラを征服しパルミラ王国を建てエジプトの一部も支配したが僅か十数年,ローマの反撃に遭い273年にパルミラは陥落し廃墟となり衰退,ディオクレティアヌス帝の時代ローマ軍団の基地として城壁が造られたが,1089年の大地震で被害を受けた後は完全に放棄された.
パルミラ遺跡はベル神殿,円形劇場,モザイクやカラフルな大理石の残る公共浴場,列柱道路と四面門などから成る.
ベル神殿Temple of Belはパルミラ遺跡の最も重要な建物である.パルミラとバビロンの最高神ベル(セム語でバールBa'al)と,太陽神Yarhibolヤルヒボール・月の神Aglibolアグリボールの三位一体を祀るため,紀元32年に建設された東西210m・南北205mと広大な建物で,随所に花や蔓などの動植物の繊細な彫刻が施されている.
上・ベル神殿の入場口からのパノラマ(合成写真) 左奥が本殿,その手前が犠牲祭壇,右手が正面の外壁
下・敷地中程から見返った正面外壁方面 ←は犠牲祭壇の屠所 ↓が入場口 ↑は生贄の牛・山羊・羊の通路
左・犠牲祭壇alterで神に捧げられた美しい乙女の首を切るガイドさんの演技
流された血が真下の十字の穴を落ちて地下水路を外壁のほうに下っていった由.パルミラではメソポタミア由来の春秋の雨季の始まりと収穫を祝う儀式がこの神殿で催された.生贄は家畜らしい
右上・神殿の向かって右横に立てられたレリーフ群(もともと本殿cellaの装飾)の一枚目の表
左から頭部が失われた立像二体~椰子の木~台上にざくろなどの実が置かれ,その右に立つのが太陽神(足のみ残る)と月の神(光輪の下部に弧に沿った三日月が描かれている),その間に「鷲」の姿で描かれているのがベル神である.観光客が下にもぐっているのは,底にもレリーフがあってそれを見るため
右下・二枚目の表 ベールで顔を隠した女性たちを伴って駱駝に乗っているのは祭事にやってきたベル神であるという説明もあったが,パネルの解説によると選ばれた守り人が神の宿った聖石を運んでいるのだという.これはアラム人やアラブ人がタドモル(パルミラ)へ移住したことを示している可能性もあるとのこと.
下方に繰り返されている図柄は男性・女性器を象徴するらしい.最下段には葡萄の蔓と房の模様が美しく彫られている.
左上・本殿の正面 左下・本殿の背面 右・本殿の背面の外柱の列を見上げる 柱頭部は風化し削げ落ちているようだ
本殿の右手の側面 縦筋の入った円柱で柱頭部は渦巻のイオニア式か 脇の柱は角柱で柱頭の様式は異なる
壁の継ぎ合わせには真鍮の筋が入っているとのこと
本殿の右手の南の壁龕祭壇thalamos 上記の写真の内側に当たる こちら側の柱頭部はコリント式のようだ
ここの左の壁に残るのはパルミラ文字(アラム文字を手直しした独自の文字)か
北の壁の壁龕祭壇 ベル神は惑星と星座を治めていると信じられていたので,この天井には創建時にレリーフ装飾と漆喰に彩色で宇宙が描かれたというが,距離が遠いのと煤が付いて黒くなっているのでよくわからなかった
神殿前からみた記念門と列柱 記念門の先,列柱は神殿から見て(北)北西へと伸びる.左手にメソポタミアの知恵の神を祀るナボ神殿の跡,続いて右に大浴場,さらに左に円形劇場があり,その保存状態はよいというが,今回は閉まっていて中には入らず.ギリシャ悲劇などが演じられ,旅人の娯楽であったという.
記念門 遺跡の東の入口で,神殿から正面に見えるように向かって右袖の小門は前後に二重構造でその間の横の通路にもアーチがあり,前構造のほうが手前に出ていて全体で三角形の複雑な造りとなっている.
微妙なバランスで崩落を免れている記念門の中央アーチをくぐる
早朝の太陽で逆光に映える記念門と列柱
列柱の梁には樋があったが,その名残を残す獅子像の彫られた穴
ディオクレティアヌスの大浴場付近 列柱にはイタリアはカラーラ産の大理石が使われているが,左の円柱は花崗岩.二番目にあたる写真左端の柱は複製ではなくアスワンから運ばれたオリジナルらしい
四面門Tetrapylonとアラブ城 右手前の台座にのみ立像が残る 夕陽を浴びて赤く染まった四面門はことのほか美しいという 四面門より先の葬祭殿・スタンダード神殿・ディオクレティアヌス城砦には行かなかった.
左・記念門の内側の装飾彫刻 右上・柱頭のコリント式装飾 右下・柱の桁の装飾
解説ではこの上にレバノン杉の屋根が乗っていたと聞いたように思ったが,彫像が飾られていたという.
それにしても本当にいい天気に恵まれたのですね。
とりあえずダマスカスでレポートは終わります.時間があれば,食べ物や,データが戻ればペトラなども書きたいと思います.
画像を合成拡大して編集するオペの腕は見事です。blogで出来るなんて素晴らしい時代!
青空に映える褐色の遺跡群から多くの物語を引き出して下さるので、旅行者以上に旅行を堪能できました。有難うございます。
画像の処理はフォトショップ・エレメンツを使っています.
データは復活できなかったので,これでおしまいです....