泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
無断で記事を転載される方がありますが,必ずご一報下さい.

ヤーコプ・バッケル回顧展 ②

2009-07-28 22:01:27 | 古典絵画関連の美術展メモ
No. 24.
 バッケルらしい作品. 草の冠は重い.No.6の右上の葉に近いがこれほど雑ではない.
No.28
 .バッケルらしい優れた肖像画.
No.29.
 No.17にやや近いが,1640年代の後期で人物の内面がやや主張し,より濃く描かれている.

No. 25.◎
 Breenberghの方は特にいい.衣は早描きで顔や手と対照的 カンバスで少しスレている
No. 26.◎ 
 板 トローニーでは最も魅力的 1644年が最も円熟しているかもしれない 髪もすばらしい 鼻孔や上唇の輪郭は明瞭に描かれ,胸の静脈も描かれている 眉や眼窩の描き方はまさに巨匠の風格がある.米国のホテルオーナーのコレクションとのこと.

No.30
 .これも後期で顔は類型的だが悪くはない.服の袖が際立っていて,黒の地が完全に乾く前に白とオーカーの粘稠度の高い絵の具を重ねている.
No.31
 .目元がやさしい雰囲気になってはいるものの上下の括弧〔〕のように定型化してきている 黒の部分の状態は非常に悪い. No.35と並んで展示されていて,顔の描き方は似ている.ポーズはNo.30に近い. 背景に鳥が飛んでいる 雑に描かれた葉や縦に走る木の枝にはやや違和感を感じる.

No.32
 .顔は硬くNo.3のように洗いすぎか.衣の影の部分にも下地の黒色が出ている 以前見たホーホシュテーデル画廊のジャーナルに載っていた.
No.33
 .硬い 背景のコンディションも良くない

36.○ 
 後半で唯一良く図録やポスターの表紙になっている作品. 古典的だが,サテンの白の輝きが美しい.
 これも背景が痛んでいてカッピングまである.顔はC.v.Ceulenにやや近いがやや釣り目なためか高慢な感じで,左の口元だけわずかに上がっている.
No.37
 .これが作品中最大で,肌は厚塗りのため大丈夫だが背景のコンディションは良くない.1650年ごろでやはり硬い.


 1649年以降の肖像画は,顔の造形が硬く,完全に様式的でつまらない.


 図録には当館の「ダヴィデとバテシバ」も紹介されている.当初の企画ではこの作品も展示される予定があったが,展示規模が縮小してしまったようだ.



「大家の中の大画家 ヤーコプ・アドリアエンツゾーン・バッケル 1608/9-1651」ピーテル・ファン・デン・ブリンク

 アムステルダムの古典主義派の旗手 歴史画家としてのバッケル 1636-51 
より pp.50右-52左 独文和訳

 (「ウェルトゥムヌスとポモナ」図46と)構図で類似しているのは(ただし色遣いの点ではもっと派手ではあるが),これまで出版されたことのない「ダビデとバテシバ」を描いた作品(図47)である.バッケルがダビデ王の生涯のエピソードを描いた三番目の絵画であることが重要で,先行するダビデとナタンを描いた「預言者ナタンに警告されるダビデ」や「ユリヤにヨアブ行きの手紙を渡すダビデ」を記憶にとどめておく必要がある.ここではカップルの親密な抱擁を王宮の前に設定し,左には果物,ワインと有名なアダム・ファン・フィアーネンが1614年にアムステルダムの金細工師組合のために製作した銀の水差しの乗った机を配置している.この作品には完全な署名と年記"JABacker 1640"が入っているが,筆跡は後からなぞられているようにも見える.この作品は本来はより大きなものであったと推定される.ブラウンシュバイクにある素描(図48)では明らかにより大きな構図である.この下絵がそのまま実際に仕上げられたのだとしたら,この作品は高さは2倍で,そのくらいの作品になると重要な注文制作だったに違いない.この素描は伝承的にドイツ人でケーニヒスベルク生まれの画家ミヒャエル・ヴィルマン(1630-1706)に帰属されているが,この名前は素描の裏に読み取ることが出来る.ヴィルマンは1640年代の終わりにはアムステルダムにおり,レンブラントやバッケルの作品を熱心に研究したことが確実である.この素描の高い質とさらさらと流麗な手法で描かれていることからして,決して絵画を写したものではなくてむしろ習作とであろうと思われる.
 完全な構図として,明らかにより小さな絵画「ウェルトゥムヌスとポモナ」と比べてみれば,遙に力強い大画面にもかかわらず調和を保っている.非常に親密な二人の様子は互いに絡み合った体として表現されている.しかしながら「ダビデとバテシバ」のこのような構図と美しく明るい色遣いはバッケルの芸術においては新境地である.このような大画面の歴史画によってバッケルは大きな感銘を与えたに違いない.当時のアムステルダムではほとんど比肩するものがなく,ヤン・メイセンスの述べた「偉大な非常に革新的で色遣いに秀でた"excellent"な画家」という印象が共有されていたに違いないことが,ここで初めて明らかになった.バッケルと同時代のアムステルダムの画家で1640年の時点でかように巨大でカラフルな歴史画を描いたものはいなかったのである.ただし,もう少し小ぶりで色遣いも地味ならば,類似した作品がハーレムのピーテル・デ・フレッベルやサロモン・デ・ブライの工房で製作されていた.

A71 Bayern 個人コレクション ~1920年代
  Munchenの画商 1995

 この作品は断片である可能性が高いと思われる.ブラウンシュバイクのHAU美術館にある素描に基づいて再構築した結果,画布は上下全体と左を少し切り詰められたように見え,もともの大きさは約190x130cmに達していたと思われる.この素描は伝承的にアムステルダムで活動していたドイツ人の画家ミヒャエル・ヴィルマンに帰属されていたが,これは彼の名前が素描の裏にあったことに基づいていた.これはもはや誤りで,ザンドラルトによれば彼がバッケルやレンブラントの習作をアムステルダムで購入しそれから学んでいたらしく,むしろ彼がこの素描を所有していたことを示しているのだと思われる.私見によればこの素描はバッケルに帰属されるべきであろう.
 この絵の署名と年記は上書きされているようだ.左の机の上にはアダム・ファン・フィアーネンの水差しが描かれているが(ロンドンのVAMに収蔵されている とあるが実際にはアムステルダム国立美術館にある),これはたびたび絵画に描かれている.