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泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
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ニュルンベルク紀行(6)~国立ゲルマン民族博物館(iii)~世界最古の地球儀

2011-01-28 21:17:50 | 海外の美術館
 地球が丸いことは紀元前500年頃サモスのピタゴラスが観測によって認識していましたが,大地の知識が乏しかったために文献に残る最古の地球儀のようなものとしては,紀元前2世紀にマルスMallus(現在のトルコ東部に位置する)の哲学者Cratesクラテスが作った直径3m程の石の球体で,大海が陸地を十字に分かつものでしたが,既知の世界はその1/4足らずで他の三つの大陸は想像に過ぎませんでした.これは(帝国)宝珠Globus cruciger(Imperial Orb)のデザインの基になったともいわれています(Grove's Dic. of Art vol.12 p.813).

アヤ・ソフィア大聖堂の皇帝アレクサンドロスのモザイクに見られる宝珠

 イスラム世界を別にすれば,西欧で実質的に最古の地球儀は,15世紀末にマルティン・ベハイムMartin Behaim(1459-1507)が製作したもの(Inv.Nr.WI1826;1937年収蔵)で,直径51cm,台込の高さ133cm,金属の球体の上に糊付けされた布・羊皮紙,ないし彩色された紙を張っているようです.新大陸が発見される1492/94年にニュルンベルクで製作され,1514年にGeorg Glockendon I世が描画彩色しました.基本的には2世紀のプトレマイオスの世界地図Geographiaを基にしており残念ながら新大陸はまったく描かれていませんが,新情報が発見される度に19世紀に至るまで部分的に補足されたり直されたりしました.[ちなみにコペルニクスの「天体の回転について」が刊行されたのは彼の没年の1543年.キリスト教世界に地動説が定着するにはさらに半世紀以上を待たねばならない]


左:北にヨーロッパ・中央に大きくアフリカ大陸 右:中東からアジア大陸
 半球を合わせて作られていること,表面に張られた紙の皺や浮きがわかる.


左:中央に,アジア大陸の東端中国とシナ海 右:大きな島が日本.朱色で"Cipangu"とやや大きな字で二箇所に書かれている


解説パネルの図.中央二図の上が北極,下が南極 


左:イベリア半島からアフリカ西海岸.⇒はポルトガルの紋章で多数認められる.大陸内にはテントとヒトが描かれている
中:⇒はアララト山.先端に白くノアの箱舟.↓がムハンマドの墓.紅海は赤く描かれ,海産物も多数認められる.
右上:南極に描かれたニュルンベルク市の「乙女の頭を持った鷲」の紋章
右下:喜望峰周りの鯨の群れ(⇔)

以下,ゲルマン民族博物館リンクの地球儀の解説を参考に要約しておきます.

 ベハイムは織物商人で長くポルトガルに居住し[探検航海に魅せられアストロラーベの改良や航海参加などの業績もあってリスボンの宮廷で爵位を授かり],1490年に故郷のニュルンベルクに戻った際,その喧伝もあってか,コロンブスの新大陸発見と同じ1492年に市議会から地球儀の製作を依頼された.地図作成は,主にストラボン,プリニウス,プトレマイオス,マルコ・ポーロの情報に基づいている.ベハイム自身は最新のポルトガル海図によってアフリカの西海岸の比較的正確な描写に貢献した.実際の世界は彼が描いたよりも大きく新大陸が欠落しているものの,貴石・真珠・異国の原木・スパイスといったものを多数載せていることから,この地球儀製作の主たる目的は交易路の開拓であったのだろう.海はもともとライトブルーで塗られていたが,経年の劣化と修復の反復のためくすんでしまっている.

 この地球儀には約2000の地名が描かれ,約200のミニチュア画は統治者と都市,その土地の動物,海の生物や船などを,旗マークは各国の領土を示している.中世の世界地図に必ず載っていた聖書由来の「エデンの園」は描かれておらず[キリスト教的世界観を示すよりも],ベハイムの時代の種々の伝説が書き込まれている.コショウ・ナツメグ・シナモンといった高価なスパイスが頻繁に登場することでもわかるように,多くの伝説は貿易に対する投資をあおる宣伝効果を狙ったものかもしれない.
アフリカ西海岸の植民地は,その海岸線や河川名・ランドマークなどが非常に詳細に示され[ヨーロッパと比較しても同部は肥大歪曲しており正確さの点では問題もあるが],そこに描かれた多数のポルトガルの紋章は世界における地位の高まりを表し,Behaim自身も参加したポルトガルの探検航海の発見記録を残している.
 中東における宗教の歴史として,黒海とカスピ海の間のアララト山上にノアの箱舟が白い小屋のように描かれ,紅海は赤く描かれていて,その右で"arabia petrea"の伝説文の下にムハンマドの墓が「天幕の王」と記載されている.これは西欧の王は玉座から支配するが,異国の王はテントから統治するという西欧中心主義の表れであった.このような異国の特徴づけはポルトラノ海図(羅針儀海図ともいい,port「港」を中心に海岸線を詳細に描いた航海用地図)として知られる西欧の初期の海図に基づいている.
 北極や南極はTerra Incognita(未踏の極地)であり,北極は弓矢を持った原住民が北極熊狩りをしている想像図となっており,南極地域は地球儀の注文主であるニュルンベルク市の「乙女の頭を持った鷲」の紋章で覆われている.ニコバル諸島には犬の頭の住民がいるといった伝説獣の言及もしばしばあるが,"Ciamba"(ベトナム)の蛇とか,マグレブの象の群れとか,喜望峰周りには鯨がたくさんいるといった近代の動物学的に正しいものもある.
 ベハイムは中世は1300年頃のマルコ・ポーロや1370年頃のジョン・マンデビルの旅行記に多くの発想を得ている.前者に拠ればインドシン半島には12,700の島々があり,フィリピンのことと考えられるが,ベハイムはそれを極東のシナ海に置いている.日本はアジアの東の端,ヨーロッパの西のはずれは大西洋であるが新大陸が無いので太平洋と一体となってその大きさを過小評価されている海の中に,大きな島"Cipangu"として描かれ,"東洋で最も気高く豊かな島"と記載されている.


 測量術の発展と探検航海の成果に伴って地図は塗り替えられていきますが,国立ゲルマン民族博物館には,ベハイムから30年足らず後の1520年に,ヨハネス・シェーナーJohannes Schöner(1477-1547)が製作した地球儀も傍らに展示されています.[彼はベハイムに次いで二番目に古い地球儀を製作しここで初めてアメリカ大陸が登場したと解説にはありますが]実際には,ベハイムとほぼ同時期におそらくポルトガルで製作されたLaonの地球儀(銅製17cm)に続いて,1510年頃製作されたLenoxの地球儀(13cm)やJagiellonianの地球儀(7.3cm)の二つには新大陸の痕跡のようなものは載っており,1507年にWaldseemullerが製作した地球儀(11cm)は部分的に木版印刷が利用されていて"America"の文字が初めて記載されています.


 Inv.Nr.WI1 バンベルク 木製 直径87cm 台込高さ129cm
 シェーナーは聖職者で,バンベルクに印刷機を私有し,天文学や占星術の著作も出版しています.彼の地球儀は一連の印刷された地図片を貼り付けて1515~1533年の間に複数製作されていますが,1520年に製作されたここに示す大型の地球儀は木の球体の表面に手彩色で仕上げられていて,その明るい色彩はベハイムの地球儀の往時の状態を髣髴させます.


左:南北アメリカ大陸 南アメリカのほうが先に大陸として認識されたという過程がよく分かる 中:ZIJANGの東が北アメリカだがTERRA DE CUBAと書かれているように見える 右:手前のシェーナーの地球儀の水平環には子供(プッティか)の顔が複数描かれている.奥に見えるのはベハイムの地球儀.

 1522年頃のBrixenの地球儀(37cm)や1523年以後に製作されたRosenthalの地球儀(17cm)はシェーナーの地球儀に基づいており,ハンス・ホルバイン子が1533年に描いた大使たちに登場する地球儀の図柄もこれに拠っているとのことです(Grove's Dic. of Art vol.12 p.814).

Hans Holbein the younger "The Ambassadors" 部分/北を上に向けるため上下を180度回転 ヨーロッパが正面になるように描かれている


ニュルンベルク紀行(6)~国立ゲルマン民族博物館(i)

2011-01-23 12:44:12 | 海外の美術館

国立ゲルマン民族博物館は広大である.ケーニヒ門まで戻ってしまうと三辺を回ることになってしまった.建物の北面中ほどにある趣のある昔のエントランス(丸1)はすでに一般用ではない.ガラス張りのモダンなエントランス(丸2)を利用する.

 ここはドイツで最大の文化・歴史的な博物館で,家具・武具・古楽器・科学機器・織物・宝飾・貨幣・玩具なども含めて,古代からの民俗学史料・工芸品・絵画・彫刻・版画素描など網羅的かつよく整理された多くの展示部門を持っている.今回の訪問は,主に絵画と天球儀と古楽器のコレクションを拝見するためであったが,写真を撮りながらだと2時間では回れなかった.


 エントランスから階段を上がって左が科学機器のコレクションで,やはりこれはニュルンベルクにおいては呼び物の一つなのであろう.右の写真は左の*のところから入り口を振り返ったところ.手前の複数の真鍮の円盤はアストロラーベ.星座早見盤のようなもので,初期の測量器具として大航海時代にも活用された.


缶型時計 Peter Henleinないしその工房 1510年頃
錠前職人で時計職人でもあったHenleinの作と考えられ,携帯できる小型の時計としては最初期のものである.サイズの記載はないが,記憶によると直径8cmくらいだったのではないか.


日時計も様々な種類があり,写真は左から16~17世紀の卓上水平式・開閉式・18世紀の赤道航海用である.


もちろん卓上の機械時計や懐中時計も多数展示されており,おもに16世紀のもの.右の写真は17世紀頃のカルトグラフィ製図用品.画面左のpantographパンタグラフ(写図器とも訳す)はギリシア語で「全てを書くもの」の意で,原図の拡大・縮小が出来る.電車のパンタグラフの名もこの形状から来ている.


顕微鏡や19世紀前半の望遠鏡       オーラリー(太陽系の惑星運行モデル)                    17~18世紀の各種測量具

これに天球儀が続く.

ニュルンベルク紀行(5)~デューラーハウス

2011-01-07 19:17:57 | 海外の美術館
デューラーハウス
 カイザーブルク(皇帝の城)から下ると,石造の一階に木造の三階層が載った特徴的な建物が見えてくる.1420年に建てられた館で天文学者Waltherの住家だったが,Albrecht Duerer(1471-1528)が1509年購入し,その後逝去するまで住んだ家.城からも近く彼は気に入っていたという.

デューラーハウス外観                     2階の「Wandererの部屋」続き部屋になっている
 Wanderer(1840-1910)はニュルンベルク美術学校の教授で彼のデザインによって,デューラーの生きた中世後期を美術史的に理解する助けとしてデューラーの版画に登場するインテリアが複元され(後期ルネサンス様式),1876年から一般公開され,二次大戦で部分損壊したが1949年までに修復.生誕400年の1971年に近代的展示設備が一部増築された(館の写真の右端).
 1階は入り口のホールと,上記のデューラーハウスの歴史について解説があり,2階左手に「デューラーの生涯と作品」の上映ホールがある.

フロアマップ(2-4階) 2階右手に「デューラーとその世界」の展示.デューラーの遍歴の足跡を地図で示す


さらに生涯についての13枚のパネルが続く.解説の下段は英語.中央下にはデューラーハウスの当時の絵が載る.この部屋⑤は寝室であった可能性が高いと言う.それは旧台所⑥の竈の裏で暖かかったから.その竈は当時のオリジナル.再現された台所では女学生が参観中.


3階には大小のアトリエ.ここは広い開口窓が北東向きらしい.    写真右は上段が木版用,下段がエングレーヴィング用の道具の展示



1971年に複元された木版用の大型relief-printing press機,絵の具,モデル用の貝や骨などの収集品の戸棚が並ぶ


当時の世界地図の彩色図版(多分プトレマイオスの地図の複製)と彩色に用いられている世界各地からもたらされた顔料などの展示.左からBrasilhorz(蘇芳に似た木で芯材から紅色色素が取れる.Brasilは「赤い木」を意味するらしい)の紅茶色,Zinnober(辰砂という鉱物)の朱赤,Gummi arabicum(アラビアゴム)の膠,ラピスラズリの青,Purpur(Hexaplex trunculusという巻貝から取れる古代染料purple-blue)の紫色,Sandelholz(白檀)の褐色,Drachenblut(麒麟血という竜血樹の樹脂の意だが,ここではヤシ科植物の実からとる赤色の樹脂)の褐色.


4階に上がるとデューラーの版画の展示.これらはニュルンベルク市立博物館の版画素描コレクションなどからの展示でオリジナルである.開催中の西美デューラー展の展示を思い出す.この部屋はもともとデューラーの絵画の複製を展示していたらしく,その様な名前になっている.もちろん絵画のオリジナルの展示はない.


「神聖ローマ皇帝マクシミリアンⅠ世の凱旋車」や書籍「測定法教則」などもある.書籍もオリジナル.


市の公文書館に保管されるデューラーがヴェネチアから友人に出した手紙."Netzwerk Dürer"という企画展として,人文主義者との書簡(これらはオリジナル)が展示されていた.この部屋⑭はオリジナルの作品が展示される特別展示室.保存の関係で数ヶ月毎に展示替えがあるらしい.他にはデューラーの版画・素描作品の学習室がある.

 なお,デューラー夫人アグネスが音声ガイドしてくれるという趣向で日本語版もあった(館長は聞けなかったが).当時の装束に扮した女性が工房で版画製作を始めようとしていた(と思う).レンブラントハイスやルーベンスハイスと違い,必ずしも研究者向けではないが,観光客も含めた一般美術愛好家向けの美術博物館です.