
「ガンジス川でバタフライ」の前編を見ました。
明日の後編も見ます。
このドラマは誇張表現たっぷりのような感じを受けるだろうけど、実際インドに行った僕から言わせてもらうと、あそこで描かれてたインドはわりと現実に近いです。
コミカルで、演出も若干ちゃちいくて、長澤まさみの演技が好きにはなれないにもかかわらず、懐かしくてウルッとしてしまった。
頑張れ長澤とか思ってしまった笑
僕もインドに行ってよかった。
あの一人旅特有の高揚感を学生のうちに経験できたのは大きな財産。
卒業までにもう一回は大きめの旅行をしたいと思っている。
そろそろゼミ選考から一年が経とうとしている。
早い。
となると、僕らもゼミに後輩を迎え入れる時期なので、ゼミ・オリエンテーションという合同の説明会やオープン・ゼミという見学会が始まります。
昨日のゼミでそれらの役割を決めた。
僕はゼミオリで発表担当になったので、僕がゼミについて拙い説明をしてる姿を見たい人はぜひいらしてください。
はあ…なんだかあらゆる方面で仕事を抱えすぎた。
このままだとオープン・ゼミでディベート担当にもなりかねないので、うまいかわし方を考えておかないと。
あと、合宿を年2回にしましょうということをゼミのみんなに提案したかったのに、忘れた。
今日は初めてゼミの教授の授業を受けた。
実はこの話には伏線がある。
この授業、セメスターなので週に2回授業がある。
でもうちの教授はテキトー人間なので、無断で授業を休んだ。
彼曰く、「うっかりしていた」。
彼に対してはもう免疫がついていて、そういう発言に驚かない自分に驚く。
でも憎めないのがうちの教授。
そういうわけで今日が初の授業だった。
どうせテキトーな授業だろうと高をくくっていたけれど、なんとなんと面白かったんだ、これが。
ちょっと悔しい。
まあしゃべりは相変わらず間抜けで笑ったけど。
授業名は「比較政治制度論」っていうガチガチの机上の空論を思わせる名前。
まず教授は政治制度を比較する意義を、彼なりの解釈で説明してくれた。
彼が説明しないと面白く聞こえないない可能性もあるけど、復習も兼ねて説明してみます。
「人間は堕落した存在」というキリスト教的価値観を打ち破ったのがルネサンス。
ルネサンスは、神に対して人間らしさ、つまり「人間の尊厳」を証明しようとした。
その流れで「進歩・発展」という考え方がもっとも正しいこと、かつ至上命題とされた。
しかし、知ってのとおり、人間は「人間らしく」と言い過ぎた。
「人間らしく」を追求してきた結果、過度に人間中心の世界が出来上がってしまった。
この「過度に人間中心の世界」が属したのが「近代」であると教授は理解している。(一般的に近代は、1910年代の社会主義革命以前とされている)
人間中心を突き詰めた結果環境破壊や資源の枯渇といった問題が出てきた。
環境保全と先進諸国が言っても、途上国からすればあまりに勝手な話。
自分たちで散々環境や資源使いまくって、勝ち逃げかよ!ってね。
そんな「現代」にはどのような政治制度が必要なのかというのを論じるのがこの授業。
ちなみに、ルネサンスを通して「人間の尊厳」を追求してきた人間は、現代は徐々に先祖がえりをしてきているというのが教授の持論。
「人間の尊厳」は「個人の尊重」につながり、その結果、自由だとか平等だとかいう概念が時代の大テーマとなっていた。
僕らも義務教育で、みんな仲良く等しい関係だという風に頭に叩き込まれてきた。
でも、最近は「個」が強調されて、ルネサンス以前に「先祖がえり」しているという。
アイデンティティや自己確認が言われるようになり、人と違うということを前提とした社会になりつつある。
つまりは多様性の登場。
だからこれからの政治制度を語る前提になるのは「多様性の協調」。
さらにちなみに。
「多様性」の時代よりもっと「先祖がえり」をすると、それはスピリチュアリティになるらしい。
だから細木とか江原とかが注目浴びたのも時代の要請があったからだという。
これは分かる気がする。
「個」の根拠付けって難しいから、スピリチュアルなものが求められるってことではないだろうか。
そういう意味ではオウムは時代の最先端をいくものだったということか(この表現、危険だがあえて使う)。
こういう「多様性」(これ、敢えて括弧付き!)だとか「先祖がえり」だとかいうバックグラウンドで語られる比較政治制度論。
一年ぶりくらいに授業を楽しいと感じた。
今年は早くハロウィンが来てほしい。
授業はサボらず出てください
(今期も)かんばる!笑