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Mr.マトリョーシカの脱走

マトリョーシカ(Матрёшка)式世界からの大脱走。脱兎のごとく。

日本橋

2007-09-13 21:49:26 | 都市系
今日は有楽町に用があった。

で、そのついでに前の記事でも取り上げた日本橋に一人で行って来た。

一人はちょっと寂しかった。

何やってんだろって感じがしなかったと言えば嘘になる。



まあいいや。


まずは写真を。














日本橋を生で見たのがずいぶんと久しぶりで、なんか自分のイメージしていたのと違った。

僕は、日本橋上空がもっと窮屈な感じをイメージしていた。

でも実際訪れてみると、開放感があるとまでは言わないけれど、少なくとも暗い印象は受けなかった。

むしろ、日本橋って調和してるじゃんとも思った。

景観を破壊しているなんて感じはしない。




今回日本橋を見て真っ先に思った事は2つだ。


まずは、汚い、くさい。

汚いのは予想していたけれど、ここまでヘドロのにおいが立ち込めているとは思わなかった。

実際にヘドロの大きな塊があちこちに浮いてたし。

首都高移設のプロジェクトの中に川の浄化っていうのも含まれてるみたいだけど、ここまで汚いのは、川に対する認識がどういうものであるかというのを示唆してる。

でこれは僕が感じたもう一つのこととつながってくる。





もうひとつは、景観をどうこうしようって言うなら、首都高をどかす前にいじるべきものがあるだろうってこと。


景観の最大のマイナス要素となっているのは首都高ではなく、川岸に接しているビル群ではないだろうか。


これについてはあまりいい写真が撮れなかったのだけれど、ビルが全て川に対して背を向けている。

こうやって川を隅っこの存在にしてしまっていることが、川への無関心へとつながり、さっき言ったような川の汚い状態を生んでいるんだと思う。

これでは川がドブにしか見えない。



景観と川を生まれ変わらせるには川をまちの主役にしなければならない。

川を街並みの中に取り込むために、川岸を整備して、川を軸にしたまちづくりを行うべきではないだろうか。

例えば川沿いに道路を作ったり簡単な公園を作ったり。


もし首都高を移設したとしても、川岸がこの有様ではビル群の醜さが強調されるだけで終わるのではないだろうか。

逆に言えば、川岸に背を向けるビルをどうにかするだけで日本橋周辺の景観はずいぶんと改善されるのではないだろうか。

首都高移設に5000億かける必要はないなっていうのが僕の実感です。





今日の一曲は、ザ・フラテリスの『チェルシー・ダガー』。
the Fratellis / Chelsea Dagger


五十嵐太郎『美しい都市・醜い都市』

2007-09-12 02:05:26 | 都市系



久しぶりにお酒を飲んだら、嫌な事とか一瞬吹っ飛んで気分が良かった。


サークルは今すごく大変だけど、やってて楽しい。

ゼミは…みんな当事者意識なさすぎで、ゼミ成り立ってんのかなあってすごく疑問。

みんな優秀だからディベートとかもその場でなんとかなっちゃうのかもしれないけど、そんな語呂合わせ的にこなすだけならやらなくていいじゃん。

やらないで遊ぼうよ。

ずっとドライブしてようよ。

嗚呼。

いい仲間だけど、すっごく虚しい。


でも。

このゼミは、ゼミ論のテーマを自由に設定できるのがすごく嬉しい点。

僕はこのゼミに入った当初から、デザインってテーマを軸に文化だったり政治だったりを分析できればと思っている。

で、一応ゼミの名前には「国際比較」っていうのがついてて、一つの国や地域を取り上げなくてはならない。

僕はオランダにおけるデザインが社会に及ぼす効果について研究しようと思う。

デザインっていうのはオシャレの方法論として見なされている向きがあるけれど、僕が思うにデザインっていうのはずばり、「仕組むこと」だ。

デザインされたものにオシャレなものが多いのは、究極の仕組みを考えると必然的に形が洗練されていくという事なのだろう。

だから逆に、オシャレだけど使いづらいっていうのは、本当の意味でのデザインじゃない。






いや、今日のブログのテーマはこれじゃない。

まあいいや。






デザインっていうのは徹底的に仕組まれたものだから、極めて人工物である。

そういう意味でオランダという国は極めてデザイン的な国だと言える。

オランダは世界でも有数の優れたプロダクト・デザインを生み出している国ではあるけれど、それよりももっと本質的な意味でデザイン的な国だ。

なぜなら、オランダの国土は半分近くが海抜ゼロメートルで、埋め立てによって造られた国だからだ。

つまり他の多くの地域のように、人が集まって街ができたのではなく、街ができてそこに人が集まった。

そのため、オランダの街は精緻に仕組まれた構造をしている。

話を単純化するならそういうことだ。



そういう国の成り立ちのせいかどうかは分からないけれど、オランダは他の欧州諸国と比べて、人種や宗教の違いに寛容である。

人が集まって街ができたなら、後から入ってきた人々に対して排他的な態度を取るかもしれないが、そもそもオランダは街や国土自体がフィクションだから、排他的な意識は芽生えないのかもしれない。


とまあ、そういうデザインされた国土性がオランダのどんな特殊性を育んできたのかを明らかにできればと思っている。

ちょっと自慢にはなるけれど、こういう発想で書かれた本とか論文って見つけられなかった。

その点苦労はするかもしれないけど、やりがいはある。




で、本題。

前言ってた五十嵐太郎『美しい都市・醜い都市』を読了しました。

自分の景観というものへの認識の甘さを思い知った。




例えば、東京の景観破壊の元凶とされてきた首都高速。

首都高をどかして日本橋の空を取り戻そうという意見は以前からあったが、その大事業の実行を決意したのは当時の小泉首相だ。

戦後日本の道路や新幹線をひたすらつくる土木行政に対し、道路を見えなくするという意味では、画期的なプロジェクト。

道路の建設から道路の消去へ。

機能一辺倒から美観重視へという発想の転換。

そういった意味で首都高移設は、本当の豊かさとは何かを考えるきっかけになりそうな、一大イベントである。


しかし、五十嵐氏はこの移設に反対を表明している。

その理由はまとめると以下の通り。





①形を変えたハコモノ行政じゃないか。

無駄な公共事業はさんざん批判されてきたから、今度は美という名目で日本改造を行おうとしているのではないかという懸念。

ちなみに移設となると、総工費は5000億円になる見込み。

この5000億円って実感わかないけど、ちょっとした金額だ。

筆者の挙げた例を引用すると、

東京武道館・・・74億
都庁・・・1569億
東京都現代美術館・・・396億
東京ビッグサイト・・・1813億
東京国際フォーラム・・・1650億

ね、すごいでしょ。

あの散々叩かれた都庁が3つ建つよ。

「本来の日本橋の姿を取り戻そう」とか言われると、なんとなく納得してしまいそうになるけれど、ものすごくお金のかかる事業だということ。






②「伝統的な景観」がもどるってほんと?

首都高移設の推進派は工事の目的として、江戸の賑わいや日本橋という名所の風情を再現させることを掲げている。

なるほど、もっともな意見じゃないか。

でも、伝統的な景観って言ったって、そもそもいつの時代に戻そうとしてるの?っていうのが五十嵐氏の疑問。

江戸時代の商人が行き交う賑わいなのか、それとも明治末に出現する威風堂々とした洋風建築の街並みなのか。

推進論者の言葉からこうしたビジョンを読み取れないという。


かつての江戸時代の日本橋は木造の太鼓橋だった。

馬は通れるが、クルマは無理だ。

今回のプロジェクトでは1603年当時に架けられた江戸時代の橋が復活するわけではない。

現在の日本橋はヨーロッパの様式を一生懸命に模倣したデザインの橋である。

となると「江戸の賑わいや日本橋という名所の風情を再現させる」という目的は奇妙ではないだろうか。

将来のイメージ図に描かれているような親水公園はかつて日本橋付近に存在した事はないし、こういったことから日本橋をめぐるプロジェクトは本気で歴史を考えているとは思えない、と筆者は主張する。








③そもそも首都高って醜いのか。

さあ、これは難しい判断だ。

確かに首都高は日本橋の上空を奪った。

しかしこの首都高の風景こそ「東京」の雰囲気じゃないかと言われればどう反論するだろうか。

移設推進派は日本橋は東京のアイデンティティだみたいな主張をしているけれど、それを言うならば首都高は極めて東京的な風景である。

また、首都高移設により観光という側面の効果も狙っているようだ。

けれど、例えばヴェンダースもヤマモトヨウジへのオマージュ作品で、東京なるものの象徴として首都高を映していたように、あるいは、『ロスト・イン・トランスレーション』でも首都高の風景は象徴的に使われていた。

それに対して日本橋は西洋建築を必死に真似て造った建築である。

外国人観光客にとって西洋の都市の橋に見劣りする洋風の日本橋は、はたして魅力的だろうか。


それに、東京の象徴だとかそういう話を抜きにしても、首都高は駆け足で造られたとは言え、当時の最先端の技術で造られた建築物だ。

五十嵐氏によれば、これは建築的にもデザイン的にもかなりのレベルのものらしい。

そういう視点で改めて首都高を見ると、戦後日本のエネルギーを感じる堂々たる建築物であるという感じがする。

オリジナルで、非常にダイナミックな風景である。


五十嵐氏のこんな言葉が印象的。

「筆者はしばしば1000年後の風景を想像する。そのとき、もし首都高速と日本橋の両方が残っていれば、どちらに感銘を受けるだろう」









僕はこの首都高移設の論争ってとても難しいと思うし、だからこそ興味深く思ったので、ゼミのディベートのテーマとして推薦したんだけど、たぶんあまり検討されずに落選。

結局安楽死とかの定番テーマに落ち着いた。

別に僕のテーマが選ばれなくてもいいけど、うちの学年つまんないなあ…

一部の人たちは楽しいけど。






次に読んでるのが、川島蓉子の『TOKYOファッションビル』。

「池袋パルコ」を発祥とするファッションビルっていうのは、日本独自の業態で、かつ東京の街を形成する中心的な役割を担ってきた存在。

70年代の「渋谷パルコ」なんていうのは渋谷のイメージや人の流れそのものを変えてしまったし、最近の六本木ヒルズやミッドタウンなんかも基本的にはファッションビルの考え方だから、ファッションビルっていうのはとても興味深いテーマだ。

ビルを造ることで同時に街をつくってしまうという考え方は、今の都心再開発にも引き継がれている。

そんなファッションビルを知ることは東京の成り立ちそのものを理解する事につながるんではないかと思った。

まだ読んでないからあんま大風呂敷広げても畳めない可能性があるので、後は読んでから感想を書きます。


今日はあまりうまく書けなかった気がする。

江副浩正『不動産は値下がりする!』 &青木仁 『快適都市空間をつくる』

2007-09-04 00:56:53 | 都市系
サブプライムローンとか話題になってたんで読んでみました。

江副浩正『不動産は値下がりする!』


金融の知識がゼロな僕なので、読むのに時間がかかってしまいました。

『不動産は値下がりする!』っていうタイトルを見る限りは、「今は不動産バブルだ」みたいなことが書かれていそうですが、なんかそんな事でもない印象です。

今の東京の土地の異常な値上がりは、外国人投資家が日本の低金利と土地の割安感から投資している結果だ。

江副氏は、これから日本は金利上がっていくし、都内の賃料も投資家が期待してるほどあがってないから、そろそろ外国人投資家は売りに転じるよ、つまり値下がりするよ、ってう事を言っていると僕は解釈しました。

でもさ、良くわかんないけど、買いに転じたり売りに転じたりっていうのが金融の世界だから当然なんじゃないの?とも思います。

何かその辺が腑に落ちなくて、消化不良です。



経済誌立ち読みしたり、バイト先の資料見たり(バイト先は不動産関係です)する限り東京の不動産とかREITとかってまだまだ優良っぽいので、中長期的には値上がりしていく気がします。

あーでも地方の土地は値上がりする気配ないっぽいですね。

格差はどんどん広がっていきます。






そうそう。

以前『まちづくりと景観』という本には新しい発見は無かったって書いたけど、都市開発についてはこの本がとても詳しいので紹介しておきます。


青木仁 『快適都市空間をつくる』


去年読んだんだけど、僕はこの本からいろんなことを知って、学んだ。

なぜ日本の生活空間は魅力的ではないかということを解説している。

たぶんザックリ要約すると、日本の生活空間が魅力的でないのは、

「都市や自分たち自身の生活というものに対するイメージの欠如」、

それと、

「まちへの責任の欠如」、

このふたつに起因しているって事ではないでしょうか。


とても面白くて勉強になる本なので、是非読んでみてください。







ただ、この本は「日本の生活空間が魅力的ではない」という前提をもとに書かれている。

もちろん魅力的、美しい、住みやすいなどというのは相対的な価値観だから、いろんな角度から検証しなくてはならないと思う。

たとえば僕は、丸の内や汐留などのきれいに整った場所に行った後、ごちゃごちゃとしたダサさの権化、池袋に降り立つとほっとする。

それは、都市開発によって画一的で全体的な美しさへと向かう街よりも、有機的に日々さまざまな方向へ変化していく池袋にスリルと魅力を感じる場合があるからだ。



あ、今書いてる途中で気付いたけど、丸の内とか汐留はオフィス中心、池袋は商業中心と、街の機能が違うから同じ次元で比較するのは無理があるかもしれない。

美しさというのは街の中身が伴ってはじめて成立するのだろう。

ということはますます何か美しくて何が醜いのかっていう判断は難しくなる。




今読もうとしているのが、五十嵐太郎の『美しい都市・醜い都市』。

パラパラめくっただけで書いてある事の面白さが直感で分かった。

いろんな視点を身につけたいものです。

遠足@丸の内

2007-08-28 01:30:12 | 都市系


8月某日、丸の内に遊びに行きました。

はい、浮いてました。

特に新丸ビル。

まあ大学入って何が成長したかって、半そで・短パン・サンダルでブランドショップに入れるようになったことでしょうか。

欧米だと、場所によっては追い出されますからね。

若気の至り。

ああ、恥ずかしい…。




丸の内は再開発でアツいとこなので、その辺もたまーに注目しました。




っていうか今回はむしろその辺のこと中心に書くか!

じゃあまずは見た目のかっこよさ!



手前から奥に向かって、丸ビル、新丸ビル、三菱信託銀行ビル。

なんかキレイですよね。

なぜでしょう。

実はビルの台の部分の高さが揃ってる。

だから建蔽率やビルの高さの割りに圧迫感なくって、東京駅前は道路の広さと相まって、かなりゆったりした印象。

新宿西口のビル群ような息苦しさとは無縁。

こういう風に建物の台の部分の高さを揃えるのはこれからトレンドになるんじゃないでしょうか。

実は有楽町~東京駅沿線の山手線内側では、結構高さが揃ったビルが多いです。

実際、この辺りはビルの多い割りにスカイラインのせいか視界が広々としていて、歩いていて気分の良いエリア。

皇居も近いし、山手線の鉄橋部分を使って路面店や昔ながらの飲み屋も軒を連ねていて楽しいです。

とてもバランスの取れた印象の良い街。

銀座でもスカイラインをそろえる動きがあって、何年か先には31メートルの高さのエリアが400メートル連なるらしい。

今のところ銀座はゴタゴタしたイメージだけど、新耐震基準に合わせるための建て替えラッシュ以降はちょっと印象変わるかもしれません。

僕は変わらないだろうって予想してますが(笑)



話を丸の内に戻して…

初の新丸ビル潜入。


うわっ、何だこの高級感と重厚感は。

ミッドタウンとかヒルズとかの柔らかい高級感に見慣れた目には、この重さは新鮮に映ります。

三菱地所っぽいエリート意識を感じました。

僕は嫌いじゃないですけど。


そんなわけで、新丸ビル行くときはせめて襟付きのシャツを着ていくのをおススメします。

ほんとにTシャツなんていなくて驚いた。


周辺も歩いてみた。


霧が出てます。

ヒートアイランド対策ですね。

ほんのり涼しいような涼しくないような。

良く分からなかったけれど、たぶん比べると涼しいんでしょう。


あと、こんなの。


古い建物を保存しようとするとこうなります。

写真だとわからないと思うけど、古い建物を覆うかたちでガラス張りの新しい建物が建ってるんです。

ちなみに古い建物は日本工業倶楽部会館っていうらしく、中も古い内装を再現しててとても華麗らしいっす。





ごめん、飽きました(笑)

結局言いたいのは、丸の内はマンハッタンになるよっていうこと。

実はこれはまるっきり冗談じゃなくって、丸の内の大地主である三菱地所が40年前くらいに掲げた目標なんですね。

「丸の内マンハッタン計画」っていうのを。

なんだかスターウォーズ計画と同じような匂いがするけど、今の丸の内見ると馬鹿にしちゃいられないほど実現に向かっている感じを受ける。

気が向いたらまた書き足します。

田村明 『まちづくりと景観』

2007-08-19 01:47:12 | 都市系


サブプライムローンと株安の関連がいまいち腑に落ちない僕です。



都市計画やまちづくりについて知りたくて読んだ。



あまり新しい発見はなかったけれど、40年前の建設省都市計画課の責任者が当時横浜市の職員だった著者に「街を美しくしようなんて、けしからん」と言い放ったエピソードが印象的だった。

横浜のど真ん中に高架道路を通そうとする当時の計画に反対し、地下か半地下の道路を主張した著者に言い放った言葉だった。

結果的には著者の主張が通り、地下に高速道路が通った。

そして田村氏を中心としたみなとみらい地区のまちづくりは、全国有数の成功モデルとなっている。

2006年には総合的な都市開発が評価され、「横浜市の一連の都市デザイン」はグッドデザイン賞も受賞した。



僕も去年横浜を訪れ、都市デザインに注目して歩いてみたのだけれど、確かにほとんどの歩道は広々としていて車に出会うことも少なかった。

景色も歴史的な建造物と近代的な建造物がなじんでいて、横浜というまちの歴史の連続性の上に都市が成り立っている感じがした。

見た目だけではなく、生活に即した都市デザインや開発が行われている。

東京では感じられない種類の快適さであった。

(東京が街歩きに適さない街になってきているって事は後々書きたい。最近の都心再開発への批判でもあります)



今でこそ街の景観やら美しさを否定する人はいないだろうが、戦後復興期から高度成長期にかけては景観やまちづくりへの認識は乏しかった。

街は生産のための手段という程度の認識しかなかったんじゃないだろうか。

信じられないことだが、60年代の小学生による「理想の未来のまち」の絵には、煙突が乱立し、黒煙をモクモクと吐き出しているような街が描かれていたそうだ。

つまり成長こそが幸福と信じられていたのだ。

質より量。

ストックよりもフローを上げるために必死だった(これは今でもあまり変わらないかな)。

以下、長いけど引用。



日本のバブル最盛期に、しばらくイギリスに住んだ。

当時は数字だけで見ると、一人当たりGDPは日本の方が倍もあるのに、イギリスのほうがずっと豊かに思えた。

その一つはストックの差である。

海外植民地からの収奪もあったろうが、基本的にストックを大切にしている。

都市も農村も歴史の連続性が感じられ、個性があって豊かだった。


これに対し日本の経済はフロー中心。

もともとGDPで測られるのは、その年のフローだ。

フローの効率を上げるには、文化的・歴史的蓄積も簡単に破壊する。

一個一個の蓄積が破壊されるだけでなく、一つの異物の混入によって地区の景観という共同の価値も破壊されるが、数字には現れない。

フローを上げる努力をすればするほど、数字上は豊かになっても、文化的なストックを壊し貧しくなっていくという矛盾した構造によって、経済大国・日本が成立してきた。

ところが都市景観は積み上げのストックで形成されるものだから、継続性のある良質のものが造られなければならない。



引用終了。


これから日本もストックを重視しないといけなくなってくる。

労働人口が減るわけだから、フローをいたずらに追い求めるだけでは成長は約束されない。

ストックによる豊かさの創造について考えなきゃいけない。

で、なんというか、ストックを生活に即した具体的な形で生み出していけるまちづくりって作業はとても魅力的だ。