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Mr.マトリョーシカの脱走

マトリョーシカ(Матрёшка)式世界からの大脱走。脱兎のごとく。

テーマ曲&アニメ<夏>

2008-07-16 23:35:56 | サブ・カルチャー
元気ロケッツ / Heavenly Star


1年くらい前のラジオで、パーソナリティの鈴木謙介さんが夏を感じる曲としてこの元気ロケッツの曲をかけてた。

その時、すごく良いです。うーん、avex(「えいべっくす」と読みます)って馬鹿にしちゃいけないんですね!って思ってから一年。

今月アルバム出したようで、CD屋でかかってたり試聴していくうちに僕にとっても今年の夏のテーマソングになりつつある。っていうか、なった。

最近は崖の上のポニョの次にたくさん聴いてるのがこの曲だと思う。



そうそう。

崖の上のポニョの中毒性ったらない。

「崖の上のポニョ」のテーマソングが頭から離れなくて正直ウザいんですけど(^^;)と思ってる全国のおっさん達を日本武道館に集めて組体操させたい…と思いを巡らしながら、とりあえず50回くらいリピートして聴いた。

絵柄だけ見た時点では「うわ…何この萌え系アニメ。超可愛いんですけど」っていうネガティブな感想しか抱かなかったんですが怒涛のリピート洗脳術完了後には、「か、かわいい…溶ける」っていう感想を上書きしました^^



そうそうパート2。(小堺一機)



アニメといえば、世間的には今さら感漂うんでしょうが攻殻機動隊にハマってます。

<脳にネットを接続する「電脳化」と、肉体をサイボーグに換える「義体化」が進む近未来の日本を舞台に、あらゆる犯罪に対し公平な攻性措置をとる公安9課の活躍を描いたストーリイ>(田村裕『ホームレス中学生』より引用)

テレビ版は基本的に一話完結の形式で、公安9課の活躍にスポットを当てている一方で、劇場版は人物の心理描写にスポットを当てた哲学ストーリー。


これは綾波槍投げリオン以来のワクワク感。

エヴァンゲリオンの「オイラって何者?」「オイラってここにいてもいいのかなあ…><」という問いや苦悩と似ていて、自我の問題を問う作品になっております。

攻殻機動隊の場合は、「人間とサイボーグとの境目ってどこなの?」「今の世の中はゴースト(その人の魂とか自我の類)をあっちこっち移植しまくるのが当たり前になっちゃってますけど、そんな状況でワタシがワタシであるということは一体どのワタシが証明するの?教えてティーチャー」っていう小難しい感じに物語は収斂していく。

とりあえず最近のアニメにありがちな、萌えキャラとお色気うっふんシーン投入しておけば愚か者達が釣れるだろう。ぐへへへ。っていう安易さが皆無で、完全にストーリーで見せようとしてる点に好感を抱きます。

しかしよく考えたら草薙素子(主人公の女)はハイレグ着用でした^^

ハウスとヒップホップ

2008-07-05 22:53:07 | サブ・カルチャー
クラブに行ってきた。楽しかった。

今回はハウスのイベントだったんだけど、前回行ったヒップホップのイベントと比べてかなり疲労した。

っていうかクラブはこの2回しか行ったことないですけど(><)



この疲労感の違いの原因は、おそらくハウスとヒップホップのクラブでの客とDJの立ち位置の違いにあると感じた。


説明しよう。


ハウスのイベントで印象的だったのが、客のほとんどがDJの方向を向いて踊っていたことだ。

このことから、ハウスのイベントにおけるDJと客の立場は、DJ>客 となっているようだ。

DJの中田ヤスタカが「ちゃんとついてきてください」とアジテートしていたのが象徴的だ。


これは明らかにヒップホップの場合とは違っている。

ヒップホップのイベントでは、客は思い思いの方向を向いて踊っていた。

それどころかDJを意識してる客なんかいなかった。

最初俺はDJの存在に気付かなかったくらいだもん。

このように、ヒップホップにおいてDJは完全に黒子に徹している印象だった。

よって、DJと客の立場は、DJ<客 だ。

考えてみればヒップホップっていうのは、ラップやダンスが主体で、演奏者にはスポットが当たらない音楽なんだNA。




思い思いのペースで踊るヒップホップに比べると、DJに「ついていく」ことを要求されたハウスの方が圧倒的に疲れる。


まあ乏しいクラブ経験値では仰々しく分析なんてするべきじゃないかもしれない。

だってイベントの外国人率の高低によって雰囲気は全く変わるかもしれない。

あるいは男女比で変わったりすることもあるかもしれないし(女性が多い方がナンパが発生するから客がバラバラの方向を向いて踊る、とか)、イベントの性格によっても変わってくるだろう。



ここまで書いてたらもうどうでもいいやと思ってきた。


        *'``・* 。
        |     `*。
       ,。∩      *    もうどうにでもな~れ
      + (´・ω・`) *。+゜
      `*。 ヽ、  つ *゜*
       `・+。*・' ゜⊃ +゜
       ☆   ∪~ 。*゜
        `・+。*・ ゜

ジュノは良い映画

2008-06-26 00:07:03 | サブ・カルチャー



16歳の少女が予想外の妊娠を経験し、現実を受け止めながら成長していくさまを描いたヒューマンコメディー。『サンキュー・スモーキング』のジェイソン・ライトマン監督が、『ハード キャンディ』で衝撃を与えた成長著しいエレン・ペイジの魅力をいかんなく引き出した。共演にはカナダの子役出身マイケル・セラ、『キングダム/見えざる敵』のジェニファー・ガーナー。周りを振り回すほど自意識過剰な少女を取り囲む家族や女友だちや、ボーイフレンドの視線がほほ笑ましい。(シネマトゥデイ)


見たかった「ジュノ」という映画を観た。

とてもいい映画。

見たかった理由は主に2つ。

①16、7の少年少女が葛藤する物語が映画・小説を問わず好きだから。

②モルディ・ピーチズやそのメンバーのキミヤ・ドーソンの楽曲が使われてるから。



まず①についての結論から言うと、ジュノは意外と葛藤はしていなかった。

あ、葛藤はしてたかもしれないけど、それはあくまで現実の諸問題に対してで、僕の予想していた内面的な葛藤は描かれていなかった。

でもだからといってこの映画が優れていないわけではない。

出産によって結局はいろんな人がハッピーになっていく過程がすごくほほえましくて、ちょっぴり切なく感じた。



というか、イギー・ポップ好きっていうジュノの設定にときめいた。

もしジュノがピストルズ好きって設定だったらなんかガッカリする。

深い意味はなくて感覚的なものだけど。



②については、サイコー。

ラストシーンは「anyone else but you」を恋人同士になったジュノとポーリーが歌う。

このシーン、すごくいい。



全体的に挿入歌が多過ぎたのが難点かな。

名曲だらけだったのはまちがいない。



The Moldy Peaches - Anyone Else but You
「君はときどき恋人、いつもは友達」っていう歌いだしからしてジュノとポーリーの関係にぴったりあてはまってるので、うーんナイスな選曲、っておもった。


You're a part time lover and a full time friend
The monkey on you're back is the latest trend
I don't see what anyone can see, in anyone else
But you

I kiss you on the brain in the shadow of a train
I kiss you all starry eyed, my body's swinging from side to side
I don't see what anyone can see, in anyone else
But you

Here is the church and here is the steeple
We sure are cute for two ugly people
I don't see what anyone can see, in anyone else
But you

The pebbles forgive me, the trees forgive me
So why can't, you forgive me?
I don't see what anyone can see, in anyone else
But you

I will find my nitch in your car
With my mp3 DVD rumple-packed guitar
I don't see what anyone can see, in anyone else
But you

Du du du du du du dudu
Du du du du du du dudu
Du du du du du du dudu du

Up up down down left right left right B A start
Just because we use cheats doesn't mean we're not smart
I don't see what anyone can see, in anyone else
But you

You are always trying to keep it real
I'm in love with how you feel
I don't see what anyone can see, in anyone else
But you

We both have shiny happy fits of rage
You want more fans, I want more stage
I don't see what anyone can see, in anyone else
But you

Don Quixote was a steel driving man
My name is Adam I'm your biggest fan
I don't see what anyone can see, in anyone else
But you

Squinched up your face and did a dance
You shook a little turd out of the bottom of your pants
I don't see what anyone can see, in anyone else
But you

Du du du du du du dudu
Du du du du du du dudu
Du du du du du du dudu du
But you

日本とアート

2008-06-19 23:51:55 | サブ・カルチャー




クーリエ・ジャポン7月号に載ってる村上隆のインタビューがとても興味深かった。


おっ、って思った所に勝手にタイトルをつけて抜粋してみる。

斜体が引用部分。


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①日本におけるアートの限界

日本では、アートの見方のルールがメチャクチャなので、勝負球が投げられない。
やっぱり、オペラのように、ファイン・アートは西洋人の文化であって、そのルールを基盤にしてからでないと楽しめない。
言ってみれば、ぼくはイタリアでオペラの主役をはらせてもらっているようなもの。それを日本から見ても良くわからんでしょうし、理解する必要がないでしょうね。






②欧米におけるアートの切実さ

欧米の人たちにとって、アートというのはキリスト教やユダヤ教と密接にかかわってる、ある種のイコンへの道筋なんです。
(中略)
そして、国の立ち位置によっても(アートへの)目線は違いますよね。戦争に勝利した国と、日本のように敗戦した国では、リアリティが違う。





③ユートピアとしての日本

これまで、「日本は世界の未来だ」とぼくが言ってきたのはなぜかというと、日本人は、毎日毎日鬱屈しているなかで、ちっちゃいエンターテインメントを見つけて発散して、自力で癒している。それって経済的にすごくリーズナブルなんですよ。それが成功しているぼくらの文化というのは、全世界に行き渡ってしかるべきです。たとえば、「お金をかければいいものができる」というハリウッドムービーのような考え方と、日本は真逆を行っている。それは、産業革命時に未来を思う小説家が夢想したユートピアそのものだと思います。だから、最近海外からの旅行者が増えているんだと思う。それに世界で、マンガを読むルールを理解できる子たちが育ってきたら、マンガが世界言語になるんじゃないですか。あと30年後、ほんとに日本の文化が世界の共通言語になると思うんです。まあ、それに対して、ぼくらは別にこぶし振り上げて誇りに思う必要はないとは思うんですけど。






④世界の救済者としてのオタク

いまは、「心の救済」にもっぱら争点が集中している時代です。だからこそ、音楽家や芸術家がこれほどまでに求められ、尊敬されている。そんななか、オタク文化は、一見わかり辛いですが、人間の「心の救済」に射程を定めて、すでに30年も起動し続けてきたんです。その答えとして、「萌え」がある。
(中略)
オタクのキャラ設定は、いまだネガティブな部分に集中しがちですが、彼らは、世界一センシティブで包容力のある人種に、一気に生まれ変わる可能性を持っているとも言える。日本のコンテンツは、ほとんどオタクたちがつくっていますから。それは、感受性の鋭さが武器になっているんです。
なので、オタクが世界を救うというか、世の中全部オタク化すると思います。かつてのコカ・コーラやマクドナルドみたいに、オタクが大爆発して、全世界、全員が知って、幸福になれると思いますよ。「萌え~」って。



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「村上隆のどこがいいのかわからない。結局あの人の作品って『前衛的なアートを理解できる俺は一流だ!』というステータスを誇示するためのアートじゃないか」

っていう趣旨の批判って結構ありますね。

実際俺も村上隆が芸術家として評価される理由が分からない。



でもこれ読むと、「村上隆のどこがいいのかわからない」っていう理由がわかった。

村上隆の作品はファイン・アートの流れを前提としてはじめて評価しうる芸術だから、ファイン・アートの前提がない日本人には理解不能なのかなー、なんて。

海外での評価の方が高いというのは、悲しいけど必然なのかもな。


でも③④にあるみたいに日本の文化は近い将来、世界のスタンダードに近い位置に来るのかもしれないから、そこまで悲観する必要はないかもしれない。



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The Teenagers - Homecoming

PVがシャレオツなことを除けば良い曲ね。

萌えの定義

2008-06-02 00:12:17 | サブ・カルチャー
使い古された今だからこそ考えてみる。



仮説:

「萌えとは、抑制されているもの(者)に対する感情である」



一般的な「萌え」な場面に当てはめてみると。


制服によって、個性や自己表現が抑制されている者に萌える。

ツンデレなど、自らの性格によって素直な意志表示が抑制されている者に萌える。

天然、不思議ちゃんなど、周囲の人間との円滑なコミュニケーションが抑制されている者に萌える。

言葉が拙く、本人は必至にもかかわらずに変な日本語になっている者に萌える。(琴欧州とか。日本人女性がモテるのは逆の理由?)

メイドなど、その身分によって自己の行動が抑制されている者に萌える。


(書き出してみると、圧倒的にキモチワルイ…)




こう考えると、たぶんアニメやフィギアなど秋葉原系と括られる文化っていうのは、抑制の文化なのだろうと感じる。



現代っていうのは「解放」の時代だなあ。

いろんなもののベクトルが解放に向かっている。

つまり、抑制が自然発生する場面というのはかなり稀になっている。

だからその反発として「抑制」へのニーズが高まっていったのではないか。

「抑制」の希少性によって付加価値がついた?





あと別の観点からこう言うこともできる。

実写のドラマや映画だと、出演者は撮影が終われば各々プライベートというユーザーの知らない世界に「解放」されていく。

しかしアニメやフィギアなど2次元の人物たち(フィギアもある意味3次元との異論は受け付けない)はユーザーの知らない世界に解放されることなく、ユーザーの観た世界にとどまり続ける。

つまり、ユーザーの世界に「抑制」し続けることが可能である。

「2次元は裏切らない」の真意はここにあるのだろう。






Da Pump - Rhapsody in Blue

6月になると割と毎年ダパンプ症候群。
夏本番に向けて夏のイメージを最も醸成する季節だから?

ミネタの話

2008-03-31 02:19:24 | サブ・カルチャー
銀杏BOYZ/あいどんわなだい @せんそうはんたいツアー



銀杏のミネタ君の人気の秘密はその「等身大さ」にある。


等身大(笑)


何でも(笑)つければいいと思ってる奴にはほんと嫌気がさすけど、まあ等身大なんて言葉ほど下らないものはないから読んでる人の頭の中で(笑)をつけられても仕方がない。

等身大っていう言葉が含んでる「傷の舐め合い」感は嫌だもんね。




でもミネタの「等身大さ」はそんな安いものじゃない。

僕が言ってるのはそんなものじゃない。

そういう商業的な世界で流通してる、コンパクトに収められた「等身大」じゃない。



多くの人が通過でしたであろう10代のバイオレンスさ、まあ葛藤って言ってもいいか、ってものをありのまま表現してるのがミネタ。

その正直さがミネタの「等身大」。


どういうことか?







10代の抱えるバイオレントな感情ってのは二つのものに向けられてる。



即ち、「大人」と「異性」、だ。



だから、どちらかに対する歌詞を持っていることが、若者に受け入れられる条件の一つなんだろう。



前者に対する部分ってのは結構いろんな人がストレートに歌っている。

ビストルズだったり、尾崎豊だったり、まあいろいろ。





でも後者に対する部分っていうのは、なぜかストレートに表現されてることが少ないんだ。


大抵の場合、「恋愛」っていうものに置き換えられて歌われる。


それが聴き手にとっては安心できて気持ちいい。品があるのだ。




でもミネタは恋愛で置き換えるって事はしない。


ミネタを見ていて清々しいのは、異性の部分をセックスと言い切ってしまっているところだ。


ストレート。直球勝負。


本当のことを本当に正直に表現しているところに、聴き手は気持ち良さや「等身大さ」を感じるんだと思う。




歌詞だけじゃなくて、音やパフォーマンスの方もそのスタンス同様、正直だ。


エネルギーの発するままの添加物無しの音。


ミネタのカッコ悪さ。




そういうありのまま、等身大な自分を曝け出すミネタに、みんな憧れるんだろうな。

このミネタの等身大に、誰が(笑)なんてつけられるんだろう。

魔法にかけられて

2008-02-05 00:19:20 | サブ・カルチャー
「魔法にかけられて」っていうディズニー映画が春に公開されるじゃないですか。




というか公開されるんですよ。


これ、実はすごく楽しみにしてる。

かなり前にラジオで太田光が話でちょっとだけ触れたことがあって、その頃から気になってた。


たぶんこれ読むとディズニー興味なくても見たくなるよ!(とハードルを上げつつ…)



どんな話かというと、おとぎの世界のお姫様と王子様が現代のニューヨークに追放されちまうって話。

おとぎの世界の場面はアニメだけど、ニューヨークの場面から実写に切り替わるらしい。

で、現実の世界での二人の葛藤を描く…のかどうかは知らないけど、とにかくおどぎの国の登場人物がニューヨークに来ちゃった!わー大変!って話。






なんかすごくない?






もともとディズニー映画っていうのは、たくさんファンを抱えつつも、なにかと嘲笑のネタにされるわけ。

劇中のミュージカル部分とか、人畜無害完全消毒済文部科学省推薦的なお決まりのラブストーリーとかがね。


実際僕の周りにも、「急に踊りだす意味が分からない」っていう人は結構いる(俺は割りにミュージカル好きだからそういう風には思わないけど)。


他には、ディズニーのセルアニメはヨーロッパ童話を徹底的に衛生化しものだ!ほんとはもっときたねーもんなんだ!なんつー中二病丸出しの元気な説もあって、たぶんそういうアンチテーゼが一昔前の「本当は怖いグリム童話」的な本のブームにつながっていったんでしょう。

いや、知らんよ、想像だから。



なんて言ってるとまた話が逸れるから。





要はこの映画のすごいところは、客のそういう嘲笑を逆手にとってディズニーが自らパロっちゃったってとこだ。




現実社会では会話の途中で踊り出すなんて「ありえない」し、あんな「お姫様」な服装や言動してたら正気の沙汰じゃないわけで。

そういう今までディズニーがアニメでやってきた正攻法を、登場人物達を実写に放り込むことによってバッサバッサ斬っていく。



こりゃすげー。

ディズニーがこれやっちゃうんだから強いわ。



これでバッドエンドだったら本物なんだろうけど、そこはお得意のハッピーエンドで上手くまとめてくるんでしょう。

僕もその方がいいです。


お姫様が苦しんだ末のオーバードーズで死んじゃったらさすがに萎えるっしょ。


やるんだったらディズニー以外がやってみて!

最終兵器オコジョ

2008-02-03 22:59:19 | サブ・カルチャー


おーっす。

雪降ったね。


テンションあがりました。

やっぱ白はきれいだし、交通量少なくなるから静かな感じするし、電車は遅れるし、とにかくいつもとちょっと違くなる。




ちなみに昨日はサイカノ観てたらほぼ徹になってしまった。

完全に俺の中ではサイカノのリバイバルヒットが来たわけで。


今回初めてアニメ版見たけど、やっぱ良いストーリーであることだよなあ。

話の途中で吐き気がするほど切ない気分に浸っていた時に、たまたま窓の外見ると雪降ってた。


すげー。

画面の中の世界観、完全にこっちの世界で再現されちゃってるよ。


まああれだ、すごくゆっくりした時間を過ごせたな、午前4時。




雪見てた時は久しぶりに人生の走行車線に戻った気がする。


1年くらい前から僕は人生を走行車線から追越車線に乗り換えて、スピード感が出てきた気がする。

走行車線をのんびり走ってたのが、車線変更して追越車線に乗り換えた感じだった。


あ、いま同じこと言ったね。


ブログ書くのも随分速くなったし、そのせいで文の調子結構変わったね。

文体は変わってないけど。


とにかく、のんびりやってんのは負けだ、っていう考えが結構強くなっていた。




でもそんな俺は矛盾を抱えてる。

走行車線走ってるとき、追越車線を猛スピードで走る車を見ると、「あんなスピードだして何急いでんだよ」って思う。

追越車線走ってる時は、ちんたら走る車を見ると、「どんだけ安全運転なんだよ」って思う。


結局どっち走ってんのが本当の自分なんだろうか。


どっちでも楽しめちゃうんだけどね。



谷戸ゆりあ/サヨナラ

映画ひとこと評価①(腑抜けども、悲しみの愛を見せろ・キサラギ)

2008-01-12 00:32:43 | サブ・カルチャー
今日後輩と映画を観たんだけど、色々語ろうと思ったら、「素直に楽しいっていう感想を持ちましょうよ」と呆れられた。

俺は悲しい(泣)


でもこういうときにはブログがある。

そのままだと闇に消えていってしまう感じたことを、言語化して保存しておける便利な場所。

あとは興味持った人が勝手に読んでくれる。

語っても滅多にウザがられない。




映画の感想には点数制(5点満点)を導入してみようと思う。


【5点】・・・神。人生最大の収穫の一つと言えるレベル。
【4点】・・・めちゃめちゃ良い。友達にしつこく薦め、熱く語るレベル。
【3点】・・・なかなか良い。機会があれば友達に薦めるレベル。
【2点】・・・良い。ただ、別段騒ぐほどではないというレベル。
【1点】・・・つまらない。時間やお金を返せと感じるレベル。


ちなみに、

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」【4.4点】(現時点で最高評価)
「小林サッカー」【0.1点】(現時点で最低評価)

おそらく過去には【0.0点】の映画もあったんだろうけど、そのレベルだと無意識に記憶から削除してしまうんだろうか。





今日の2作は早速高評価。




●腑抜けども、悲しみの愛を見せろ
【3.6点】

おい、おい、おい、お茶
おい、おい、おい、お茶
佐藤江梨子のー 美味しいトコだけー
米倉涼子のー 美味しいトコだけー

というオモシロソングでお馴染みのサトエリ主演の映画。


めちゃめちゃ良いというところまであと一歩。

でも良かった。


メンドイからストーリーは各自調べてほしい。


田舎という閉鎖された空間特有の日常の狂気というものをバックに、一つの家族が崩壊していく過程を描いている。



正直この映画を観ていた僕には戸惑いがあった。


なぜなら、一体自分がどういった姿勢でこの映画に向き合えばいいのかいまいち分からなかったからだ。


さっき書いたように、これは一つの家族が崩壊していく過程を描いていると思うんだけど、エンディングには主人公である姉妹に不思議と悲愴感はない。


シリアスなのか

コミカルなのか

シニカルなのか。

それが最後まではっきりしない。



ちょっと見方を変えさえすれば、ストーリーの性格が180度変わってしまう。


今の場面は笑い飛ばす場面なのか?それとも同情すべき場面なのか?

そういう疑問を観ている最中に真剣に抱かせる。


そんな映画だ。



その微妙などっちつかずの立ち位置が、この映画の弱点であり、同時に最大の魅力である。


もしこれが監督の確信犯だとしたら、素晴らしい。


だって、そもそも人間模様というのはそういうもの。

喜劇とも悲劇とも割り切れないのが人生だ。


僕はこの映画の終わり方を素直にハッピーエンドとして捉えたんだけど、実はそんなハッピーかバッドかなんて視点は無用なんだと思う。

「SかMか」っていう談議をはじめとする世にはびこる下らない二元論は、この映画の前にひれ伏せばいいんだと思う。






●キサラギ
【3.7点】

今日観た2作はインパクトの強いものだった。


このキサラギもびっくりした。

これもストーリーは各自調べてほしい。


ネットの掲示板で知り合った初対面の5人が、自殺したとされるアイドル「如月ミキ」の一周忌にビルの一室に集まる。

そこであるきっかけから5人は如月ミキの自殺に疑問を持ち始める。


で、なんとこの映画、舞台が最初から最後までそのボロいビルの一室なのだ。


それにもかかわらず、そこで繰り広げられる推理戦(というか実はつじつま合わせに過ぎない)が観ている者を飽きさせない。


推理自体は途中から何となく読めてしまうんだけど、完全に読めるわけではない。

その絶妙なバランスが、パズルをパコパコはめてくのに似た快感を与えてくれる。



推理の楽しさだけでなく、いろいろ考えさせる要素もあった。

匿名性ってネット社会だけじゃなくて現実の人間関係にも当てはまるよなーとか、仮説って何ぞやとか、アイドルって何ぞやとか、深い?テーマも色々提示されていたように思う。



そういうの抜きでも、とにかく推理の迷走やドタバタが笑えて、後味の良い映画だった。

クロノトリガー

2007-12-21 22:31:53 | サブ・カルチャー
クロノトリガーのサントラ借りてきた。

クロノトリガーは、同世代と比べてゲームを全然やってこなかった僕がハマった数少ないゲームの一つ。

ハマった理由はその世界観にあると思う。

このゲームやるときは、別にRPGとして楽しむとかそういうんじゃなくて、ストーリーに浸るためにスーファミの電源を入れてたと思う。

うまく言い表したり説明することは出来ないんだけど、このゲームには、プレーヤーにとってストーリーを他人事に思わせないような独特の魔力がある。

小2、3の僕はこのストーリーに憑かれていた。

いや、少なくとも小学校のときはこのゲームに恋してた気がする。

常に頭のどっかでクロノトリガー的な旅を夢見てた。

で、たぶんストーリーにそういう力を与えていた要素の一つが音楽だと思う。

クロノトリガーは名曲揃いだからね。

いちいちメロディーが琴線に触れる。

海底神殿とか黒の夢とか時の回廊とか・・・小2、3の時ずっと口ずさんでた。

今聴きなおすと思い出が噴き出てくる。

こういう感覚はFFにもドラクエにも聖剣伝説にも無い。

クロノトリガーまたやりたくなってきた。

僕のスーファミはまだ生きてるかな。




でね、

ライナーノーツ読んで衝撃を受けたのが、クロノトリガーの音楽を作曲した光田康典はソフト発売当時22歳だったこと。

当時スクウェアの作曲部みたいなとこにいたっぽい。

この人、すぎやまこういちとか植松伸夫みたいな大ベテランだと思っていたけど、クロトリがデビュー作だったなんて知らなかった。

今の僕と一つしか違わないこの歳でこの大作を手がけたなんて信じがたい。


もしこれがミュージシャンだとしたら22歳なんて珍しくなくて、そのこと考えたら椎名林檎とかは10代に自作自演で大ヒット飛ばしてるわけです。

でもそういうミュージシャンと比して何がすごいって、光田さんは22歳(あるいはそれ以下の年齢)にしてクロノトリガーっていうビッグプロジェクトに抜擢され、鳥山明、坂口博信、堀井雄二っていう大御所に「音楽作ってよ」って任せられたってことだ。

そういう周りからの信頼やそれに応えるだけの実力を持っていたっていうすごさ。

若いうちから組織の中でそういう高い位置づけにいたっていうすごさ。


しかも、光田さん自身も言ってるけど、ゲーム音楽って曲数は多いし、ファンの年齢層が幅広いから色々な音楽を学ばなければならない。

確かにゲーム音楽はただ表現するだけではなく色々な制約があると思う。

そんな中でクロノトリガーの世界観にマッチした名曲の数々をつくり出した彼を尊敬する。




Fun Factory / I Wanna B With U

ニコ動一周年

2007-12-12 23:59:59 | サブ・カルチャー
今日でニコニコ動画一周年。

おめでとー。



以前日本産業デザイン振興会の人に取材をした時に、グッドデザイン賞の意義について熱く語ってもらったことがあるんだけど、その後ニコ動が登場して「これってグッドデザインもんだよなー」とか冗談半分で考えてたらほんとにグッドデザイン賞受賞しちゃったもんね。

確かにニコ動はインターネット上の新しいコミュニケーションや表現方法を提案しました。



ニコ動にはいろんな「動画職人」による作品が投稿されていて、クオリティ高いのも多い。

組曲『ニコニコ動画』

→組曲『ニコニコ動画』(ウィキペディアの解説)


これは主にアニソンをつなぎ合わせて作った組曲なんだけど、つなげ方とか、アレンジとかまじですごい。

曲構成のドラマチックさはクイーンのボヘミアンラプソディをも彷彿とさせる。

いや、ほんとに。

実はもともとアニソンってその辺のJPOPよりもクオリティ高いからなおさら。

これ聴くとDJやりたくなる。

できないけど。

台湾中央大学の学生数百人が合唱したバージョンとかが投稿されたりして海外からの反響も大きい。

で、それに対して日本からは台湾へのお礼の特別バージョンが投稿される。

もはや文化圏つくってるよな。


まだこういう文化に対する風当たりって意外と(意外だ)強いけど、もっと評価されて良いと思う。

そりゃ下らないかもしれないけど、一般人が何の報酬も無いのにこんな凝った表現活動するのって世界でもなかなかないよ。

そういう裾野の広さが今の日本のコンテンツ産業の圧倒的な強さに直接つながってると思う。


過剰に保護する必要は無いと思うけど、マスコミとかが面白おかしく伝えてバカにすんのはまじでやめてほしい。

特に日本は新聞とテレビが情報独占してる傾向強いんだから、みんな誤解しちゃう。

見たり聴いたりしないでバッシングしてる人多いもん。

せめて見たり聴いたりしてから批判してほしい。

誤解→バッシング(≠批判)→文化が育たない

この流れだけは怖いから。

批判ならジャンジャンしていいと思います。

俺もたまにキモいって思う物もあるから笑

でもまあ昔は漫画とかも読むとバカになるとか言われて軽蔑されていたことを考えると、オタク文化(この呼称、好きじゃないし定義よく分からないけど敢えて使う)もそのうち日本の誇り?みたいなもんとして迎え入れられるんだろうなーっていうのは簡単に想像できる。

海外で日本のサブカルファンは想像以上に多いようなので、まあ必然じゃないかな。

現に時代はそうなってきてるしね。



こういうお宅文化が日本を中心として世界に広がってきてることもそうだけど、日本って何かと「先進国」だなーって思う。

昔、日本異端論とか流行ったけど、実は日本が世界の未来の姿なんじゃないかなーとか妄想します。

生魚食ってるとかバカにされてたけど今じゃ世界的に流行ってるし、バカ丁寧って言われてた日本式のサービスも普及してきたじゃん。


そういうの抜きにしても、文化はものすごい影響力持ってるし、少子高齢化は世界でダントツで進んでるし、環境技術もトップ。

影響力ある文化を持ってるっていうのは、グローバルとか言われてる世界においてとてつもない強み。

少子高齢社会や環境問題は途上国が先進国になる過程で、おそらく絶対通る道だから、日本は自身のノウハウで世界を先導するポテンシャル持ってるはず。

環境問題に関しては、日本は四大公害病の問題を乗り越えた実績を持ってる。

川や湖も昔に比べて随分きれいになった(昔のは実際見たこと無いけど)。

ハイブリッド車の技術はダントツだし、国全体のエネルギー効率もナンバー1(か2)らしいじゃん。


ソフトに社会問題に環境。

もっと日本が影響力持つチャンスじゃないのかなーとか思いました。





すげーむちゃくちゃ。何の話だっけー笑

17歳のカルテ

2007-11-27 23:37:07 | サブ・カルチャー


『17歳のカルテ』


原題『GIRL,INTERRUPTED』、つまり、中断された少女。

心に病を抱えたせいで社会での生活を「中断」せざるを得ず、思春期病棟で毎日を過ごす少女達の物語だ。

17歳という年齢を僕は素敵だと思う。

もう子どもではない、でもまだ大人ではない、危ういバランスの上に成立している年齢。

自分って何なのだろうという拭われぬ自己嫌悪、見えぬ未来を前に沸きあがる焦燥感、社会への漠然とした苛立ち。

多感で、何にでも傷つくのだ。

17歳はその危うさと懸命さ故に美しい。

この年齢を通ってきた人なら、この病棟でもがく少女たちに何かしら共感する部分があるだろう。

何とも悲惨な彼女らの運命だが、この映画にはきちんと救いも用意されている。



とりわけ僕は、スザンナとリサが病室にこもってしまった友達のために『恋のダウンタウン』を歌うシーンが好きだ。

アコギの音色にのせてこんな風に歌う二人の悪戯っぽい声が、思春期病棟の冷たい廊下を優しく包む。


When you're alone and life is making you lonely you can always go Downtown
(ひとりぼっちで孤独な人生を送っているならいつだってダウンタウンに行けばいいの)


そうだよ、悩んでないで扉の外に出ておいで。

それで一緒にたくさんおしゃべりして、たくさん笑おうよ。

君はひとりなんかじゃないんだから!




山椒魚戦争

2007-11-18 12:26:42 | サブ・カルチャー

昔読んだんだけど、ちょっと思う所あって、これに関する文章を書きたくなった。

「山椒魚戦争」。

カレル・チャペックの代表作の一つ。

チャペックは「ロボット」っていう言葉を作った人としても有名。

他にも童話とかエッセイとか紀行文とかいろいろ書いてる人だけど、どれもあたたかみのある文章で個人的には冬向きの作家だと思ってます。

今回取り上げる「山椒魚戦争」。

これは1930年代の作品。



南の島で頭の良い山椒魚たちが見つかる。

かれらは人間に言葉や文明を教え込まれ、単純労働に使われて、やがて繁殖しまくって人間を圧倒し、自立心に目覚め、人間を絶望の淵に追いやる。

簡単に言うとそんな話。



この話は何を言いたかったのだろう。

僕はこの点に関して、解説での栗栖継氏の解釈は間違っていると思う。

彼はこう解説している。

「作者が山椒魚の中にナチスドイツを見ていたことは誰の目にも明らかだった」

この話は1930年代に書かれたので、時代的には合っている。

でもこれは人間-山椒魚間の支配被支配の関係のみに焦点を当てた、安易過ぎる解釈だ。




だって山椒魚に悪いところなんて何も無いんだもん。

自分たちの生活を良くするために水中都市をつくることが悪いこと?

自分たちを酷使する資本家に権利を要求するのは悪いこと?

悪くないよ。

じゃあ一方の資本家に悪いところはあったか。

資本家が安い労働力と市場を求めるのは悪いこと?

悪くない。当然のことだ。




チャペックが書きたかったのはナチスなんかじゃない。

ここに書かれているのは、もっと壮大な、人類の宿命みたいなものだ。

チャペックはこの小説に限らず、そういう壮大なテーマに取り組んできたはずだ。




表紙の解説では「人間の本質的な愚かさを鋭くついた」作品っていう風に解説されている。

でもさ。

どうやったらこの物語の人間は滅亡を防げたんだろう。

どこかの地点で人間の行いに誤りはあっただろうか。

たぶん無かった。

この話のものすごく巧妙なところは、「悪者」がいないところ。

山椒魚は自らの生活の向上を求めた。

資本家は安い労働力と市場を求めた。

これらの行動は果たして愚かなことだろうか。




一体この物語に登場する誰を、あるいは何を責めることが出来るだろうか。






僕が途上国の貧困の様子を見て感じることは次のようなことだ。(逆に、外国資本があまり届いていないインドの一地域で感じたある種の豊かさは以前の記事で書いた。)

つまり、ここは昔のまま農業(あるいは漁業)だけをしていれば幸福だっただろうに、ということ。

先進国の後付けで工業化や都市化を目指すから無理が生じたのだ。

そもそも先進国に住む僕らでさえ工業や都市によって幸せになったかどうかも確信を持てないのに?

それでも彼らに僕らのような生活を望むことをやめさせることは、出来ない。

そして、彼らが僕らのような生活を達成したときの世界の様子も僕らは知っている。

資源や食料、あらゆる物の不足・・・(そんなこと僕は考えたくも無い)。



どうにかしなければいけない。

でもどうにもできないもどかしさ。

一体誰に人類の滅亡をとめることが出来るのだろう。

予言者チャペックもそこまで教えてはくれなかった。

新世紀「エヴァ」の解釈

2007-09-17 23:39:11 | サブ・カルチャー



らきすたが終わりました。

ちょっとさみしい。




こんなこと言っといてなんだけど、そして僕はオタクではないという前提で言うんだけど、最近オタクが陽の存在になってきているのがちょっと嫌です。

オタクはオタク以外の人間に対しては恥じらいを持っていないといけないと思う。

まあオタクと非オタクの境界が曖昧になってきているってのはあるけどね。

何がオタク?どこからがオタク?

たぶん、その曖昧さをますます押し進める要因となるであろう映画を何日か前に観てきました。





『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(以下、新エヴァ)です。

観客には、昔からのエヴァ・ファン層よりもずっと若い世代が目立ったし、カップルも多かった。

たぶん10年前よりもエヴァはカジュアルなコンテンツになってるんだと思う。












エヴァは祭りだ。

僕の敬愛する鈴木謙介様は、新エヴァを観に来ている若い世代の雰囲気を「10年前には乗り遅れた祭りにやっとリアルタイムで参加できるぜって感じだ」って言ってる。

これは実に的を得た表現で、実際僕もそんな気分だ。

テレビ放送の時僕は小学生だったんだけど、その時は僕は日本にいなかったので厳密にはリアルタイムで接することはできなかった。

そしてまだ小さかったので、その頃ブームっぽくなってた「謎解き論争」は難解すぎた。

その事が僕はちょっと悔しかった。

でも今は満を持してこの祭りに参加できる。

ありがとう、庵野さん。


「祭り」は精一杯楽しむべきだ。

今回の新劇場版が完結するまで解釈を避けるっていう人もいるらしいけど、それはもったいない。

その都度みんなが解釈し合って、その解釈が結果的には間違っている場合もあるだろうけど、その「あ~全然違った~」っていうのも含めて楽しんだほうがお得だ。

それが全4作のチケット代とパンフ代の合計約1万円(ポップコーン・飲み物代を含めればもっと)の無駄のない楽しみ方。



なので、僕も深読みして解釈話に花を咲かせたいと思う。


以下、ネタバレ注意。



新エヴァは旧作と異なっている部分がいくつもある。

「破」以降はさらに違いが鮮明になっていくらしいから楽しみだ。



新エヴァでは、ミサトさんのセリフ「現時点をもって、本作戦をヤシマ作戦と呼称します」がなくなっていたのがちょっとガッカリ。

このセリフのところは僕がエヴァで最も好きな場面の一つ。


まあこれはどうでも良い。




今回僕が一番印象的、かつ重要に思えたのはシンジの性格の変化。

シンジが強かった。


旧作ではシンジというのは物事の責任を常に他人に委ねている。

回が進むにつれて変化していくものの、この傾向に基本的に変わらない。

「言われたからエヴァに乗るんだ」と常に思っている。

しかし今回のシンジは少し違った。

今回の新エヴァではそういう責任逃れ的な感じは影を潜めて、シンジの責任が大きく描かれている。




例えば、シンジとミサトさんの確執のシーン。

旧作だとミサトさんがシンジを叱りつけたことを後悔して、シンジを探しに行く。

この際のミサトさんの葛藤は結構丁寧に描かれていたと思う。

でも新エヴァではミサトさんはそこまで後悔しなかった。

後悔する代わりに彼女がとった行動は、シンジをセントラルドグマに連れて行くこと。

それだけ。

ミサトさんのフォローは圧倒的に少ないのだ。

しかし、そこにはりつけになっていたリリスを見たシンジは決断する。

このように新エヴァではほとんどの場面で最終的な決断をシンジ自身が強い意志によって下す。



こういった描写は、新エヴァではシンジは自分で責任を自覚して行動していきますよ、という示唆だと思う。

旧作よりもミサトさんがシンジを思いやる場面の印象が薄かったのは意図されたものだろう。



そもそも旧作のシンジの性格は今の時代とはそぐわないだろう。

今は旧作が放映されてた10年前よりも自己責任が問われる時代。

勇敢な雰囲気の漂う時代でもあるだろう。

そういった意味で今回の新エヴァはまさに新世紀用のエヴァである。

もし旧作の卑屈なシンジを観たら、現代の新しいファンはドン引きだろう。




ただ、こういう見方もできるかもしれない。

シンジが割りと簡単に自分の決断を下せたという事は、屈託がなく、「自分って何?」っていう自分という領域に関する問いかけをしなくなったという風に。

現代は社会がますます複雑化しているから、自分という領域の問題に取り組む時間がないということと関連性が見出せないだろうか。

自分という領域の問題に取り組む時間がないと、気付いたときには心がボロボロになっている。

現代における鬱とかってそういうことじゃないだろうか。






と、なると今回の新エヴァの結末は、ちょっと怖いものが予想できてしまう。

劇中にも今後の伏線になり得ると思われる描写があった。

それは、戦闘中のシンジの葛藤である。

先にも書いたようにシンジはリリスを見てわりと早く自分で決断を下したのだが、その代わりに戦闘中に躊躇する場面というのも散見された。

このシンジの心の問題は今後どのように展開していくのでしょうか。





このほかにも書きたい解釈はたくさんあります。

後のシンジを思い起こさせるゲンドウの行動の描写の意味や、トウジなどクラスメイトの描写が少ない理由など。

そしてこれは作品の本質の解釈ではないけれど、第三新東京市の街としての矛盾に気付いてしまったこと、でもその矛盾が観客に効果的なイメージを与えているだろうということ。

けれどキリがないのでこの辺で。




申し遅れました。

僕の新エヴァへの感想。

「期待以上。素晴らしい」




今日の一曲はPE’Zの『SAMBA DE 恋して』。

小田実死去、そして

2007-07-30 23:17:48 | サブ・カルチャー


選挙でにぎやかな新聞紙を一枚めくったら、小田実が亡くなったっていう記事があった。

僕は小田実氏については詳しくは分からない。

ただ、彼の著作にはかなり心を揺さぶられた。

僕は旅行記を色々読んできたけど、その中でも特に印象的だったのはこの2冊だ。



『何でも見てやろう』(小田実 1967年)
『遠い太鼓』(村上春樹 1990年)



僕にとってバイブル的な存在。

『何でも見てやろう』は60年くらい前の話ってのが今でも衝撃。

戦後間もない時期に22カ国を貧乏旅行というのは想像を絶する(その絶した想像をこの本がしっかりと補ってくれるわけだけれど)。

今みたいに海外旅行が身近でない時代。

もちろん格安航空券もガイドブックも無い。

どんな貧乏旅行記もこれを読んだ後だとままごとにしか見えない。

で、この本の内容は依然として古くならない。

彼の経験から導かれる認識は、現在の「旅行記界」にも脈々と受け継がれている。


二年間ひとりで、日本の外をぶらぶらしていていちばんよかったことは何か、と訊ねられるたびに、私は、それは日本が地図にあるあの弓なりの列島のかたちで見えたことだ、と答えた。(中略)日本にいれば、自分の周囲のゴタゴタガタガタにまきこまれて、日本を「日本」という一つの大きな単位で考えることはとうていできない。現代の日本が一つの大きな混乱とすれば、その混乱を外から眺め得たこと――やはり、それは、私にとって貴重な経験であった。

(『何でも見てやろう』)






外国に行くとたしかに「世界は広いんだ」という思いをあらたにします。でもそれと同時に「文京区だって(あるいは焼津市だって、旭川市だって)広いんだ」という視点もちゃんとあるわけです。僕はこのどちらも視点としては正しいと思います。そしてそのようなミクロとマクロの視点が一人の人間の中に同時に存在してこそ、より正確でより豊かな世界観を抱くことが可能になるはずだと思うのです。

(『遠い太鼓』)





で、小田実は先駆者としてのすごさや経験の質は断トツなんだけど、僕の一番好きな旅行記作家というと村上春樹になります。

旅行記そのものとしてなら、春樹のが一番。

自分の海外体験をこんなに様々な角度からオリジナルな洞察をできる作家に僕はまだであったことがない。

それと、洞察だけじゃなくて、風景描写・情景描写はさすが。

僕は村上春樹は小説よりも旅行記が好きだ。






あ~、リュック担ぎたい。