「生協だれでも9条ネットワーク」

日本国憲法と平和主義、民主主義を守る活動を進める生協関係者のネットワークのブログです

【みんなの声】戦後70年に思うこと(寄稿)

2015-12-17 23:57:04 | みんなの声
<管理人より>
12/10に発行された日本生協連役員のOB会の交流誌『久友会だより』No.82は「2015年秋のつどい特集」でしたが、「戦後70年に思うこと」をテーマにした寄稿集のコーナーもありました。その中にあった山本邦雄さんの文章の転載をこちらのブログへも寄稿という扱いでご紹介することのご承諾をいただきました。
以下、ご紹介いたします。末尾の写真は『久友会だより』No.82の表紙です。

【戦後70年に思うこと(山本邦雄)】

戦後の荒涼とした光景と反米意識 
 1944年9月生まれなので戦争、敗戦直後の記憶はないが私が幼年期を過ごした東京都港区三田(現在のJR田町駅周辺)は残った建物もあったが、多くは焼け落ち、ガレキも放置された状態だった。駅の一部は家を失った家族、怪我人などの仮住まいになっており、傷痍軍人がアコーディオンを弾き、軍歌などを歌って募金を訴えたりする荒涼とした光景をぼんやりではあるが憶えている。多分、4歳ごろのことだったと思う。 
 当時、田町駅前にはバラック建ての小さな商店街があった。祖父(母の実父)が戦前から露天商の仕切り役、いわゆるテキ屋の親分をしていた関係で戦後間もなく手掛けたらしい。終戦で戦地から帰った父は会社をやめ、祖父からそのまとめ役を任されていた。駅の南側は芝浦で進駐軍の施設・宿舎があった。夜になると商店街に酒に酔った米兵達がやってきて暴れたり、女性を追っかけ回したり、奇声を発したりしていた。ある日、父が彼らと喧嘩になり数名の米兵に追いかけられ、家に帰れなくなった。日本の警察ではらちがあかず、米軍のMP(憲兵)が出動して事は収まったが父が帰ってきたのは真夜中だった。後日、黒人のMPがその後は大丈夫だったかと様子を聞きに来た時、大きなアメリカの板チョコをくれ、母とまだ幼かった妹と一緒に穏やかにほほ笑むMPの写真が家に残っている。幼心に反米意識のようなものがあったが「アメリカ人にもいい人がいる、黒人は優しいんだ」とその時思った。

一つの区切りがついた
 1950年朝鮮戦争勃発、米兵や周囲の動きが慌しくなったことを感じた。第三次世界大戦かとも言われる状況だったが、誰もが「もう戦争はコリゴリだ、あんなバカなことはしてはいけない」と言っていた。
51年解任され、帰国するマッカーサーを家の近くの国道一号線まで父と見送りにいった。52年には対日講和条約・日米安保条約が発効し、小学校の朝礼で「ようやく日本は独立国になりました」という校長先生の挨拶を聞き、詳しい内容は分からなかったが何か一つの区切りがついたように子供心に思った。
助け合い、支えあって生きる協同する社会があった
 作詞家の阿久悠氏は「戦後で一番良かった時期は昭和30年代だった」と語っていた。1956年の経済白書の「もはや戦後ではない」に象徴されるように政治・経済も本格的復興にむけて動き出した。「昨日より今日、今日より明日」と復興の方向が見えて来るようになり国民生活はまだ貧しかったが助け合い、励ましあってみんな懸命に働いていた。大ヒットした映画「三丁目の夕日」に描かれていたような協同する社会が現実にあったように思う。私も日々変化する東京の町と東京タワーが完成する過程を見ながら中学生時代を過ごした。

変身は大学時代からはじまった
 高校に入った頃から都立高校の教師だった叔父(母の実弟)から労働組合や日本の教育問題などの話を通して反権力的な考え方の影響は受けたが何らかの行動に移すような段階ではなかった。大学1年の時、授業料値上げ反対の学園紛争があった。当時、どちらかというと体育会系の学生だったのであまり関心はなかったがクラス討論会での発言がキッカケで学生運動を一緒にやろうと何人もの人から誘われた。当初はあまり乗り気ではなかったが学園紛争から日韓条約反対、沖縄返還、ベトナム反戦闘争などに参加し、いろいろな人の影響を受けた。
 著名人では哲学者・思想家でもある古在由重氏の著作や講演から「大切なことはできあがった思想ではなく思想することである、実践が提起する課題と対決、格闘し、自らの難路を切り開き、自らの展望を勝ち取っていく作業、これを生きた思想というのだろう」ということを学び、感銘を受けた。4年生になった頃には未熟ながらもそれなりの理屈を言うようになっていた。周囲もそうだが自分自身もびっくりする「変身」だった。

戦後最悪な政権への憤りと将来への希望
 それから40数年、生協活動に携わったが何とかやってこられたのは1955年から60年代に感じ、学び、実践したなかで培われた精神、思想とも言えるものが土台にあったからだと思う。そして戦後の惨めさを味わい、戦争はしてはいけないという先人達の思いがその下地にあったと強く感じている。
 戦後70年の今年、「戦争法」ともいうべき「安保関連法」が戦争も知らない、戦後の苦労もロクにしていないであろう政治家が民意を無視し、知性を疑う薄っぺらな論理を振り回し、最高法規を一代の政権担当者の恣意によって改廃したことに強い憤りと危機感を感じる。
 と同時にこの法律に反対する運動が参加者一人一人が自主的考え、主権者としての自覚をもって行動し、国民的広がりを創り出した。これはかって経験したことのないことであり、新しい民主主義のはじまりを肌で感じる。それは将来への希望でもある。未来を担う若者たちに大いに期待したい。
     
若者のスピーチ聞きつつ涙する
日本が変わると思い震える
(2015・9・17 朝日新聞に掲載された歌に共感を覚える)



(追記)
「JCCU協同組合塾」の2013年度第3回例会で「日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる」というテーマでご講演いただきました。その時の要旨をリンクしてご紹介しておきます。
その1 その2 その3


コメントを投稿