
▲山科本願寺(1483年、本願寺第8代法主蓮如によって創建された)
●室町時代(後奈良天皇 足利義晴)
Hokke Ikki; .The Nichiren sect burns Yamashina-Honganji
人込みに散れ 疚(やま)しいな。
1532年 日蓮宗 山科本願寺焼き討ち
日蓮宗(法華宗)徒の多かった京都の町衆は一向一揆に対抗して1532年、法華一揆を起こし、一向宗徒討伐のため法華一揆の力を利用しようと考えた細川晴元(「晴元」の名は12代将軍足利義晴の偏諱を受けたもの)と結んで山科本願寺を焼き討ちした。
その後、1536年天文法華の乱で、延暦寺と争い敗れ、京都の日蓮宗21ヵ寺は消亡した。
《天文法華の乱》
日蓮宗の門徒たちは、1536年比叡山延暦寺を盟主とする天台宗の軍勢と戦い、敗退。
法華宗徒は堺に逃れた。
天文法華の乱とよばれるこの事件以後、京都における日蓮宗の勢いは衰えていった。
以後見ろ天も 法華去れ!
1536年 天文法華の乱 天台宗 法華宗 堺
However, when this was rejected, Enryaku-ji Temple sought permission for the subjugationof the Hokke sect from the Emperor Gonara.
だが、これ(延暦寺の大衆が集合して京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山に対して延暦寺の末寺になるように迫ったこと)を拒否されると、延暦寺は後奈良天皇に法華宗討伐の許可を求める。
〈2016同志社大・全学部
日蓮宗徒は1532年、法華一揆をむすんで( i )と対決し、京都の町政を自治的に運営するまでになったが、天文法華の乱では敗北し、一時勢力が哀えた。
(答:i一向一揆)
〈2013早大・国際教養
問8 下線部g日蓮宗はその後、戦国時代の京都で急速に普及したに関連して、15~16世紀における日蓮宗(法華宗)の動向について記した説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 日親による布教により京都の町衆の間に日蓮宗が広まっていた。
イ 法華宗を信仰する京都の町衆が一揆を結んでいた。
ウ 法華一揆の勢力が一向宗の拠点である山科本願寺を焼き払った。
エ 延暦寺の僧兵が京都の日蓮宗寺院を焼き払った。
オ 天文法華の乱により法華宗の信者たちが一向一揆勢を追放した。
(答:オ ※天文法華の乱は延暦寺と衝突した法華一揆(日蓮宗信徒の団結した集団)で、一向一揆(浄土真宗)と対立した法華一揆と混同しないこと)〉
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます