▲小村寿太郎外務大臣
● 明治時代(明治天皇 第4次伊藤博文内閣)
Anglo-Japanese Alliance is signed.
特例日英 勝つために。
1902年 日英同盟 桂太郎内閣
北清事変鎮圧後も満州を占領し続けるロシアに対し、第1次桂太郎内閣の外相小村寿太郎はロシアとの妥協をはかる伊藤博文らの日露協商論を退け、1902年、日英同盟協約を締結。
日本はイギリスの援助で日露戦争の準備を急いだ。
[point]
1.山県有朋・桂太郎・小村寿太郎が推進した日英同盟が、1902年に締結された。
[解説]
1.義和団の乱(1900年、北清事変)以後、ロシアは北京から撤退した軍隊を満州(中国東北地方)にとどめ、満州さらには朝鮮半島への支配強化の方向をみせた。この情勢下で、朝鮮植民地化をねらう日本政府内には、対露問題解決について2つの外交方策が対立することとなった。
2.1つは満韓交換論にたつ日露協商論。伊藤博文・井上馨(かおる)が推進。ロシアの満州における支配権を認めるかわりに、日本の韓国(1897年から国号を大韓帝国(韓国)と改称)における優越権をロシアに承認させるというもの。もう一方は、イギリスとの同盟を力に、ロシアの南下を抑制しようとする日英同盟論。山県有朋・桂太郎・小村寿太郎らが推進した。
3.ロシアは現に満韓国境沿いにロシア軍を展開しており、日本による暴挙(1897年、閔妃虐殺事件など)により韓国政府が親露に傾いていた現状から見て、日本側にとって虫のよすぎる話であり、到底ロシアが考慮するような論ではなかった。結局1901年に成立した桂太郎Ⅰ内閣は、1902年にロンドンにて日英同盟協約(日英同盟)を調印した。
4.この協約は、両国がたがいに清国および韓国の独立と領土の保全を認めあうこと、清国における両国の利益と韓国における日本の政治・経済・産業上の利益を承認すること、もし同盟国の一方が他国と交戦した場合には他の同盟国は厳正中立を守り、さらに第三国が相手国側として参戦した場合には他の同盟国も参戦するという攻守同盟であった。
5.日英同盟の成立後もロシアは満州に駐兵を続けたので、政府は対露交渉を続けるかたわら開戦準備を進めた。日本国内の一部では、キリスト教徒の内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水・堺利彦らが、非戦論・反戦論をとなえ、国内世論も当初は戦争を好まなかったが、対露同志会などが決戦を声高にさけぶなか、しだいに開戦論に傾いていった。
〈2017早大・商
問C 下線部ハの第1次桂太郎内閣の間に起こった出来事として。誤っているものを2つマークせよ。
1.日英同盟協約の締結。
2.第1次日韓協約の締結
3.治安警察法の公布
4.第2次日韓協約の締結
5.文官任用令の公布」
(答:3、5 ※両者とも第2次山県有朋内閣)〉
〈2016早大・国際教養
問10 下線部h小村寿太郎に関連する説明として誤っているものはどれか。2つ選べ。
ア 第1次西園寺公望内閣の外相であった。
イ 日英同盟協約調印時の外相であった。
ウ 日露協商論者であった。
エ 韓国併合条約時の外相であった。
オ 日露講和条約調印時の全権であった。
(答:ア・ウ ※アは加藤高明)〉
〈2012明治大・政経
問10 下線部(ク)小村寿太郎の外相についての記述のうち、誤っているものは次のうちどれか。A~Eから一つ選べ。
A 韓国併合の功により侯爵位を授けられた。
B ポーツマスでの日露講和会議の日本全権として交渉に当たった。
C 日露協商論を抑えて日英同盟の調印に成功した。
D 義和団事件の前後、国際会議における日本全権となった。
E 朝鮮総督府の初代総督に任命された。」
(答:E× ※初代総督は寺内正毅)
日英同盟の改訂と廃止
都合いい対。
(1902・1905・1911 1921)
[point]
1.日英同盟は、1902年に締結され、1905年、1911年に改訂され、1921年に廃止が決まった。
[解説]
1.第一次日英同盟協約(1902)。なお受験的に単に「日英同盟」でも通用している。略。
2.第二次日英同盟協約(1905)。日露戦争後の日本は、戦勝で得た大陸進出拠点の確保につとめた。1905(明治38)年、イギリスとは日英同盟協約を改定(第2次)し、アメリカとも非公式に桂・タフト協定を結んだ。両国に日本の韓国保護国化を承認させ、イギリスのインドにおける特権を、アメリカのフィリピン支配を認めあったもの。日本は、この第2次日英同盟および4次にわたる日露協約(1907~16)による日英・日露協調を背景に、満州権益を国際社会で承認させていく。
3.第三次日英同盟協約(1911)。アメリカの要求をいれ、アメリカを交戦相手国の対象外に定めた。また日本は第三次同盟(攻守同盟)を理由に、軍事行動の範囲についてイギリスと合意に達しないまま、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦し、多大な利益を得た。
4.第一次世界大戦(1914~18)後、世界の盟主になり、日本の中国進出を警戒するアメリカが、ワシントン会議(1921~22)を招集した。この会議で、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約(1921)が締結された。この条約締結と引き替えに日英同盟の廃止が決定、1923年に失効した。
〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン
問4 下線部4)のパリ講和会議に関係する説明として正しいものをつぎのア~エのなかから一つ選べ。
ア 原敬内閣が加藤友三郎を全権としてパリに派遣した。
イ 強力な武力制裁権限を持つ国際連盟が設立された。
ウ 日本が山東省の旧ドイツ権益を継承し、これに関連して中国国内で五・四運動が起きた。
エ この会議で日英同盟の廃棄が決まった。」
(答:ウ〇 ※ア×全権は西園寺公望・牧野伸顕、イ×武力制裁はない、エ×ワシントン会議の四カ国条約で)〉
〈2013早大・政経
問3 下線部2)ワシントン会議について、正しいのはどれか。
イ 補助艦の制限が議論されたが、米・英・日の意見対立で失敗した。
ロ 国際連盟の設立が決定された。
ハ 四カ国条約が締結され、日英同盟の破棄が決定された。
ニ 英・米・独・日など15カ国が不戦条約に調印した。
ホ 日本の補助艦を対米6.975割とする軍縮条約が調印された。」
(答:ハ〇 ※イ×補助鑑については大きな対立は未だ起きていない。このあと超ド級の巡洋艦などの建艦競争が生じ問題化していく、ロ×ワシントン会議は1921~22年。国際連盟は1919年のヴェルサイユ条約で設立が決まり1920年発足、ニ×不戦条約は1928年、ホ×主要艦の比率の間違い)〉
〈2012大学入試センター試験・日本史A
問5 下線部dイギリスからの紡績機械の輸入や、清国やインドからの原料綿花の輸入に関連して、近代の日本と諸外国との関係に関して述べた次の文X・Yについて、その正・誤を判定せよ。
X 第一次世界大戦が始まると、日本は、イギリスが清国から租借していた香港を攻撃した。
Y 桂-タフト協定により、日本はイギリスのインド権益を認め、イギリスは日本の朝鮮権益を認めた。」
(答:X誤。「イギリスが清国から租借していた香港」→「ドイツの根拠地山東省の青島とドイツ領南洋諸島」。 Y誤。桂一タフト協定は、1905年に結ばれた日米間の協定。日本はアメリカのフィリピン統治を認め、アメリカは日本の韓国保護国化を認めた。「イギリスのインド権益を認め、イギリスは日本の朝鮮権益を認めた」のは、1905年の第2次日英同盟。)〉