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文人画

2017-05-07 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]頼む文 火山よさ。


池大雅(いけのたいが))(田能村竹田(たのむらちくでん)・谷文晁(たにぶんちょう)・渡辺崋山(わたなべかざん))(蕪村(よさぶそん))


[ポイント]

1.著名な文人画家は、池大雅与謝蕪村谷文晁田能村竹田渡辺崋山の5人。

[解説]

1.宝暦・天明期(宝暦・明和・安永・天明)(1751~1789)には、明や清の影響を受けた画風も起こり、文人画とも呼ばれて一部の知識人に好まれた。18世紀後半の池大雅(1723~76)や与謝蕪村(1716~83)がこの画風を大成した。

2.文人画(南画)とは専門の画家でない文人・学者が描いた絵のことで、中国の南画が文人・学者によって描かれることが多かったので、我が国でも同じ意味に用いられた。池大雅与謝蕪村の合作である『十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)』はとくに有名である。

3.文人画(ぶんじんが)は、化政期(1804-1830)に豊後の田能村竹田(1877~1835)、江戸の谷文晁(1763~1840)とその門人渡辺華山(1793~1841)らの出現によって全盛期を迎えた。

4.崋山(「蛮社の獄」で蟄居中自殺)の代表作には、写実にすぐれた肖像画の『鷹見泉石像(たかみせんせきぞう)』、また当時の市井風俗を活写した『一掃百態図(いっそうひゃくたいず)』がある。


5.美濃の江馬細香(えまさいこう)の(1787~1861)のような女性の文人画家も生まれた。

2013同志社大学・文経済
 芭蕉の没後、俳諧は徐々に卑俗化していくが、18世紀半ばには、蕉風への復古を目指した与謝蕪村らの活躍がみられた。蕪村は自然描写に長けた叙情的・絵画的な句をよみ。俳諧に新風を吹き込んでいる。彼は俳画に加えて高雅な文人画でも知られ、( i )との合作になる『十便十宜図』は著名である。

【設問i】空欄( i )に入る人物名を次のうちから1つ選べ。


 1.田能村竹田 2.谷文晃
 3.呉春 4.池大雅


(答:4)〉


2013法大・法国際文化キャリアデザイン:「

問6 下線部a~cのなかから正しくないものをそれぞれ一つ選べ。なお、下線部a~cがすべて正しい場合には、dを選べ。

 近世においては、異国の知識や文化の流入経路が限られるなか、かえって人々の間では異国的なものへの関心が高まった。絵画の分野では、a呉春が西洋画や中国画に触発されて独自に写生の技法を確立し、その後の絵画史に多くの影響を与えた。また、b司馬江漢や亜欧堂田善による、風景を写実的に捉えた西洋風銅版画が人気を博し、c池大雅や谷文晁らの文人画は中国的な風景や人物を描いて知識人たちに好まれた。」


(答:c×※池大雅は日本各地を旅行し中国とは違う日本の風景を描く)〉


2012明治大・政経:「

 18世紀半ば以降に、明・清の南宗画の影響を受けた(ク)文人画とよばれる画風がみられた。

問10 下線部(ク)文人画について、「鷹見泉石像」(東京国立博物館蔵)を描いたのは誰か。A~Eから一つ選べ。


 A池大雅 B浦上玉堂 C田能村竹田

 D谷文晁 E渡辺崋山」

(答:E)〉


2012同志社・神商心理

Ⅲ 次の文章を読み、該当する人物名を、漢字で記せ。また、文中の下線部e~fに関する設問の解答を漢字で、下線部キ~ケに関する設問の解答を番号で記せ。

 彼は三河国渥美郡にある田原藩士の長男として、寛政5年(1793)に江戸藩邸で生まれた。田原藩は1万2000石の小藩であり、父親が病身であったので貧窮のうちに育ち、家計を助けるために画を学び、のちにキ.谷文晁に師事した。文化8年(1811)に佐藤一斎に入門して儒学を学んだ。前年に家督を相統し、代々の藩主に仕え、天保3年(1832)に年寄役兼海防事務掛、同7年には江戸留守居役として小藩の藩務と改革に尽力した。

 画法においては、奔放な子供の様子を描いた寺子屋図を含む『一掃百態』などの風俗写生に才能を発揮し、民衆生活へ深い共感を寄せた。30歳頃からe写実的洋風画の技法を学び、独自の画風を確立した。佐藤―斎、松崎慊堂、鷹見泉石、市河米庵などの肖像画に人間洞察力と筆勢の鋭さをみせた。


 洋風画への傾倒はク蘭学の素地をつくり、天保年間になると洋学研究へと進んだ。多忙な藩務のかたわら、小関三英・高野長英らと尚歯会に参加して新知識の吸収に努め、主として海外事情を研究した。f.モリソン号事件に刺激されて日本の危機を告発する書を天保9年に執筆した。蘭学界で目立った存在となった彼の下へは、その学識をしたって幕臣や儒者などの知識人が集まるようになった。


 そのことが幕府の文教を掌る林一斎とその一門からなる反洋学派の忌むところとなり、翌10年に目付鳥居耀蔵(林家一門)の讒訴(ざんそ)によって、ケ幕政への批判誹謗の罪で投獄された。いわゆる蛮社の獄に遭ったのである。同11年に田原ヘの蟄居を命ぜられたが、藩主に迷惑のかかることを恐れて、同12年10月11日に田原で自刃した。享年49。

問キ.文晁とほとんど同時代人であり、『神奈川沖浪裏』などの作品を描いた浮世絵師の人物名を選べ。

 1.葛飾北斎  2.歌川広重 

 3.喜多川歌麿 4.東洲斎写楽

問e.前野良沢や平賀源内らと交流し、遠近法・陰影法を取り入れた洋風画を描き、1783年に日本銅版画を創製した人物名を記せ。


問ク.美作国津山藩医によって1793年に翻訳刊行が開始された著書名を選べ。


 1.『暦象新書』  2.『西説内科撰要』

 3.「ハルマ和解』 4.「解体新書』

問f.天保9年に執筆された、この書名を記せ。


問ケ.同じように幕政を批判誹膀した罪に問われて、1767年に死罪となった人物名を選べ。


 1.小関三英 2.生田万

 3.山県大弐 4.竹内式部

(答:彼→渡辺崋山、問キ1、問e司馬江漢、問ク2※著者は宇田川玄随、問f慎機論、問ケ3※田沼時代の明和事件)

 

●江戸時代(寛政5

 1793年〈宇田川玄随、『西説内科撰要』を完成〉

"Seisetsu Naika Senyo" (Western Internal Medicine Summary), the translation of the Johannes de Gorter's medical book by Genzui UDAGAWA, had as great influence as "Kaitai shinsho" had in that it extended interest in Ranpoigaku to the area other than surgery such as internal medicine.

人泣くさ歌 切ないか。

1793年 宇田川玄随西説内科撰要津山藩

江戸詰の美作国津山藩医であった宇田川玄随は、はじめ漢方医だったが、大槻玄沢に入門し洋学(蘭方医)に転じた。1793年、オランダの内科書の翻訳を完成、日本最初の西洋内科学書となる『西説内科撰要』 として刊行した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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