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醍醐天皇(延喜の治)

2017-04-27 | ベック式!日本史用語集

暮れに荘園大整理。

古902年今和歌集・醍醐天皇)(日本三大実録・延喜格式)(最後の班田・意見封事十二箇条)(延喜荘園整理令


[句意]今期、(天皇)醍醐は(豊かだという)実力を隠して税を払わない12班田に延喜の荘園整理令をつきつけた、という句。


[ポイント]

1.醍醐天皇の代には、最後の班田を行い、延喜の荘園整理令を出し、『日本三代実録』、『延喜格式』や『古今和歌集』の編纂をおこない、意見封事十二箇条が提出された。

[解説]

1.藤原基経の死後、藤原氏を外戚としない宇多天皇は摂政・関白をおかず、学者菅原道真を重く用いたが、つづく醍醐天皇の時、藤原時平(899~909)は策謀を用いて道真を政界から追放した(昌泰の変(901))。

2.10世紀の前半は、醍醐村上天皇が親政をおこない、これはのちに「延喜・天暦の治」とたたえられた。

3.醍醐天皇(位897~930)の時代には、班田を励行し、延喜の荘園整理令(902)を出すなど、律令政治の復興に努力がはらわれ、また六国史の最後である『日本三代実録』のほか、『延喜格式』(907~27)や『古今和歌集』(905)の編纂などの文化事業もおこなわれた。しかし親政の合間にも、政治の実権は摂政・関白をつとめた藤原忠平(930~949)が握っており、この間の政策は藤原氏の政策ともいえる。

4.延喜の治の後半(914)に、三善清行から意見封事十二箇条が提出された。

5.その子の村上天皇(位946~967)も本朝(皇朝)十二銭の最後となった乾元大宝を発行するなど父の方針を受け継いだが、やがて都や地方の治安が乱れ、律令にもとづく政治はほとんどおこなわれなくなった。後世たたえられることになる「延喜・天暦の治」の内実はお粗末なものであった

〈2016関西大・全学部

(A)醍醐天皇は、藤原時平を左大臣、菅原道真を右大臣としたが、901年、藤原時平の策謀で、菅原道真は( 1 )に左遷された。道真は、学問・詩文に優れ、六国史の内容を分類・編年した史書『( 2 )』を編纂したことでも知られている。

 藤原時平は、政治を主導して律令制の立て直しのために班田の励行や、( 3 )の荘園整理令を出した。しかし、荘園の増加を抑制することはできなかった。この時代、地方の政治は混乱しはじめており、( 4 )は「意見封事十二箇条」を醍醐天皇に提出して対策を講じることを進言した。

(答:1大宰府、2類聚国史、3延喜、4三善清行 ※原問には選択肢30語あり)〉

〈2014明大・全学部前期

 下線部(十世紀初頭に朝廷は)(ウ)国司の行政の妨げとなる荘園を停廃する法令を発しに関する説明として誤っているものを、次のA~Dのうちから一つ選べ。

A この法令を発した天皇は桓武天皇である(×醍醐天皇)
B この法令の発布とともに、班田が実施された(〇)
C この法令が発布された時の年号は延喜である(〇)
D この法令発布の頃の戸籍には、実態を反映しないものが見られた(〇)」〉

〈2013早大・文化構想

 その後、1世紀が過ぎ、政治社会をめぐる意見を諸臣に求めた醍醐天皇の詔に応えて、三善清行は[ A ]」。

問3 空欄Aにあてはまる文はどれか。1つ選び、マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。もし、あてはまる文がなければ、記号オをマークしなさい。
  ア 17箇条の文書を提出した。
  イ 12箇条の文書を密封して提出した。
  ウ 11箇条の文書を掲示したあと提出した。
  エ 12箇条の文書を提出する予定であったが、妨げられた。」

(答:イ)〉

〈2009慶大・商

 10世紀になると、律令体制の崩壊がはっきりしてきた。(ア).違法な土地所有を禁ずる法令を出したり、班田の励行をはかるなどして、令制の再建を目指した。だが、もはや戸籍・計帳の制度はくずれてきており、牲田収受も実行不可能となっていた。914年、三善清行が[ 2930 ]天皇に提出した( c )にも、そのころの地方政治の混乱ぶりが指摘されている。」

(答:2930醍醐、c意見封事十二箇条)

問 下線部に関して、902年の(ア)違法な土地所有を禁ずる法令は何と呼ばれているか。

(延喜の荘園整理令)〉


桓武天皇

2017-03-19 | ベック式!日本史用語集



 

●平安時代(桓武天皇)

 794(延暦13)年 〈平安京遷都(~1180年)〉★★

Capital is moved to Heiankyō.

泣(な)くよ平安 感無量。

         794年    平安京  桓武天皇    

 

桓武天皇は、都を寺院などの旧勢力の強い奈良から交通の便利な山背(のち山城)へ遷すことにより、律令政治の再建をはかった。天皇は784年まず長岡へ、ついで794年、今の京都の地に平安京を造営し、そこに遷都した。この後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまで、国政の中心が平安京にあった約400年間を平安時代とよぶ。



(雑徭半減・公出挙割)(一紀一班(いっきいっぱん)・勘解由使(かげゆし)・健児(こんでい)の制)(岡京・平安京)(言宗・天台宗)(徳政相論・蝦夷討伐)
                        

[ポイント]

1.桓武天皇の主な11件は、雑徭半減公出挙3割一紀一班(いっきいっぱん)、勘解由使(かげゆし)、健児の制長岡京平安京真言宗天台宗徳政相論蝦夷討伐です。

[軍事]

1.桓武天皇は、伊治些麻呂(これはりのあざまろ)の乱以来の陸奥の混乱を鎮めるため、789年に紀古佐美(きのこさみ)(征東大使)を派遣したが、蝦夷の族長阿弖流為(あてるい)の軍に大敗した。このため、797年、坂上田村麻呂征夷大将軍)を派遣し阿弖流為軍を破り帰順させた。

2.田村麻呂は胆沢(いさわ)を築き(802年)、鎮守府多賀城から移し、翌年には北上川上流に志波(しわ)を築いた。


[造作]

3.桓武天皇は、仏教勢力の影響が強い平城京を嫌い、長岡京に遷都(784年)した。

4.しかし造営長官の藤原種継暗殺事件と同事件で廃された早良(さわら)親王の怨霊による祟(たた)りと思われる不幸のため、長岡京建設を中止し、平安京へ遷都(894年)した。


[律令再建]

5.天皇は、地方政治の乱れを正すために、勘解由使(国司の提出した解由状(げゆじよう)を審査する令外官(りようげのかん))を設けた。

6.班田収授法の6年一班を一紀(12年)一班に(12年毎に口分田を班(くば)る)改正した。


7.雑徭日数を年間60日から30日を限度に半減した。


8.公出挙の利息を利率5割から3割と負担を軽減した。


9.弱体化した軍団を廃止(東北・九州は除く)し、郡司たちの子弟から徴募する健児(こんでい)に転換(792年)した。


10.天皇は晩年(805年)、徳政相論(徳政論争)により軍事(東北遠征)と造作(造都などの大土木工事)に中止の断を下した。

 

〈2016早大・法〉
 奈良時代の後期、それまでの天武系の皇統に代わって天智系の光仁天皇が即位した。その後、光仁天皇と渡来系氏族出身の[ A ]との間に生まれた山部親王が即位し、桓武天皇となった。桓武天皇は784年に長岡京に遷都するが、反対する勢力によるc藤原種継の暗殺事件などがあり、10年後の794年に平安京に再遷都した。造都と共に推し進められたのが、晩年の桓武は、蝦夷征討と平安京造営の二大政策の是非に関する論争である徳政相論を裁定し、[ B ]の意見を入れて二大政策を打ち切った。

問3 空欄Aには、百済系渡来人の和氏出身の桓武天皇の母の名前が入る。漢字4字で記述しなさい。

問4 下線cに関わったとして、事件後に廃太子された桓武天皇の同母弟は誰か。正しいものを1つ選べ。

 あ 阿保親王  い 他戸親王
 う 井上内親王 え 高岳親王
 お 早良親王


5 空欄Bには、「天下の民が苦しむところは軍事と造作である」と意見した人物の名前が入る。漢字4字で記述解答用紙に記入しなさい。」


(答:3高野新笠、4お、5藤原緒嗣)〉

〈2015早大・文:「
 古代の人々が、「田」と呼ばれる土地とどのように向かい合ってきたのかは、歴史を学ぶ場合、重要な課題となる。

まず、『日本書紀』が記す「改新の詔」には、a「田荘」の廃止や、「田の調」の徴収などがうたわれている。この「改新の詔」をそのまま信用することはできないが、律令制以前における「田」の実態の一面を間接的に伝えたものであろう。

 律令制のもとでは、戸を単位として人々にb口分田が班給された。田令の規定によると、口分田は良人の男女と、らに支給するとされているが、c支給額には、差異も定められていた。また、口分田を班給された人々は、口分田以外の余りの土地を意昧する[ A ]などを原則として1年借り、その地子をおさめることもおこなった。


 口分田は、戸籍などにもとづいて班給された。しかし、課役負担を逃れ、口分田を不正受給する目的などのために戸籍の内容が偽られるようになり、班田収授制は次第に実施が困難になりつつあった。そこで、桓武天皇は、班田をd―紀一班に改めるなどの施策を打ち出したが、その後、ほぼ1世紀を経て、班田は途絶えた。それと同時に、eはじめての荘園整理令が出された。


 このような推移は、とにかく微税を最優先する方向へとすすんだが、それは、人と土地をめぐる意識と構造の変化をともなうものであった。そして、公領や荘園の田地耕作と納税の責任を請け負う田堵があらわれた。その請作地には田堵の名が付され、徴税の単位とされた。大規模なものは[ B ]田堵と呼ばれ、f田中豊益はその偶像として知られている。」


問1 下線a田荘の語句は何と読むか。平仮名で記入しなさい。

問2 下線b口分田の説明として正しいものはどれか。1つ選べ。


 ア 売買は禁止された。

 イ 死亡すると、ただちに収公された。
 ウ 宅地を含む。
 エ 賜田とも言われた。
 オ すべて不輪租田である。

問3 下線c支給額には、差異も定められていたの説明として正しいものはどれか。1つ選べ。


 ア 女への支給額は、男の半分とされた。

 イ 私有の奴への支給額は、良人の男の3分の1とされた。
 ウ 私有の婢への支給額は、良人の女の半分とされた。
 エ 良人の男への支給額は2町とされた。
 オ 良人の女への支給額は1段とされた。

問4 空欄Aにあてはまる語句は何か。漢字2字で記入しなさい。

問5 下線d―紀の語句は何年を意味するか。1つ選べ。


 ア 3年

 イ 6年
 ウ 10年
 エ 12年
 オ 14年

問6 下線eはじめての荘園整理令が出された年は、何という年号の時か。1つ選べ。

 ア 長久

 イ 寛徳
 ウ 延久
 エ 保元
 オ 延喜

問7 空欄Bにあてはまる語句は何か。漢字2字で記入しなさい。

問8 下線f田中豊益の人物は、藤原明衡の著とされる作品に登場するが、その作品名は何か。漢字4字で記入しなさい。」


(答:問1たどころ、問2ア、問3イ、問4乗田、問5エ、問6オ、問7大名、問8新猿楽記)〉


合理主義(山片蟠桃)

2017-02-17 | ベック式!日本史用語集

 

 

●江戸時代(文政3年)

 1820年〈山片蟠桃 『夢の代』を完成〉★★

Despite his poor eyesight,Yamagata Banto devoted 18 years to writing the book titled "Yumenoshiro" which had as many as 12 volumes. In this book he supported the heliocentric theory, criticized the age of gods and advocated for atheism. He played a pioneering role of bringing about modern thought.

いやに大きな 夢の山。

     1820年       夢の代』 山片蟠桃  

 

山片蟠桃は、比較的豊かな播磨国の農民に生まれ、大坂へ出て商才を発揮して両替商升屋の番頭にまで上る。「蟠桃」はこの「番頭」からとったもの。懐徳堂中井竹山・履軒兄弟に儒学をんだ。1820年、18年を要し失明をこえて『夢の代』を完成した。その中で、「生ズレバ、智アリ、血気アリ、四支・心志・臓腑ミナ働キ、死スレバ智ナシ、神ナシ、血気ナク、四支・心志・臓腑ミナ働クコトナシ。然レバ何クンゾ鬼アラン。又神アラン」と、無神論を問いた。地動説を確信し、『古事記』『日本書紀』の神代巻(応神以前)を批判している。また理財に優れ、仙台藩などの財政立直しに手腕を発揮し名声を博した。

 

[ポイント]
1.山片蟠桃無鬼論を唱え『夢の代』を著す。

[解説]
1.山片蟠桃(1748~1821)は、比較的豊かな播磨国の農民に生まれ、大坂へ出て商才を発揮して両替商升屋の番頭にまで上る。「蟠桃」はこの「番頭」からとったもの。懐徳堂中井竹山・履軒兄弟に儒学を学び、そのほか天文学や蘭学も修め、唯物論・無神論(無鬼論)を唱えるに至った。
 20年を要し失明をこえて『夢の代』(1820(文政3)年)を完成した。その中で、地動説を確信し、『古事記』『日本書紀』の神代巻(応神以前)を批判している。また理財に優れ、仙台藩などの財政立直しに手腕を発揮し名声を博した。

〈2014明大・国際日本(国際日本)

問10.史料Ⅰ(本居宣長『秘本玉くしげ』)が著される時期まで、江戸時代を通じて、総じて農業技術は発達し、農村の生産力は上がったが、その結果、農村は全国的な貨幣経済に組み入れられ、村内では豪農などの有力百姓と、貧農の間の格差が広がり、多くの人々が村を離れ、仕事を求めて都市に流入するなど、社会の構造が大きく変容することにもつながった。これに限らず、この史料が著された頃にも社会の様々な局面で、徳川幕府の体制が揺らぎ始めていた。そうした状況の中での学問・思想について述べた文として誤っているものを、下記の1~4の中から選びなさい。

 1 『海国兵談』でロシアの南下を警告し海防論を説いた林子平が、人心を惑わせたとして『海国兵談』の版木は没収、本人も禁固刑となるなど弾圧されたが、同じ年、ロシアの使節ラクスマンが、大黒屋光太夫を伴い根室に来航し通商を求めた。

 2 天文方では、高橋至時が西洋暦法を取り入れた寛政暦を作り、高橋に学んだ伊能忠敬が全国の沿岸を測量し、『大日本沿海輿地全図』を作成した。
 3 水戸学においては、『大日本史』の編集に当たった藤田幽谷、幽谷に学んだ会沢正志斎、幽谷の子藤田東湖らによって、朱子学の大義名分論に基づいて天皇を幕府より上位とみなす尊王論が展開され、攘夷思想とも結びつき、倒幕連動の思想的基盤となった。
 4 八戸の医師だった山片蟠桃は、自然の世界の根本法則を追究し、これに反するものとして封建社会を厳しく批判し、万人が農耕に従事すべしとする『自然真営道』を著したが、当時は公刊されなかった。」

(答:4×山片蟠桃ではなく安藤昌益の誤り)〉

〈2011文教大・全学部

 1820年、(i)懐徳堂に学んだ山片蟠桃は「生ズレバ、智アリ、血気アリ、四支・心志・臓腑ミナ働キ、死スレバ智ナシ、神ナシ、血気ナク、四支・心志・臓腑ミナ働クコトナシ。然レバ何クンゾ鬼アラン。又神アラン」と、その(j)著書の中で無神論を問いた

問9  下線部(i)について述べた文として正しいものどれか。次の中から一つ選べ。

 1.蘭学者緒方洪庵が大坂に開いた私塾で、門下から幕末・維新の人材を輩出した。

 2.荻生徂徠が江戸に開いた私塾で、積極的に幕政改革のための提言を行った。
 3.大坂の町人らが出資して設立した学問所で、町人学者を生み出していった。
 4.石田梅岩が説く町人道徳としての心学を学ぶ場として開設された。

問10  下線部(j)の「著書」に該当するものとして正しいものどれか。次の中から一つ選べ。


 1自然真営道 2夢の代

 3出定後語  4西域物語」

(答:問9→3、問10→2)〉


税制払うもの(調庸の課税額=布量)

2017-02-14 | ベック式!日本史用語集

サイと布踏むちょうどよう。
役(さいえき)10日)(布2尺)(調

[ポイント]
1.調およびの(庸は歳役10日の代わり)として納める2丈6尺である。

[解説]

1.調は正丁・次丁・中男へ賦課された。繊維製品(主に)での納入が基本。地方特産品での納入も認められていた。それらを都まで運ぶ運脚の義務があった。

2.歳役(正丁は10日)の代わりに布を代納するもの。次丁は正丁の2分の1中男は無し


3.両者の基本単位の2丈6尺の布とは麻布のことで、幅2尺4寸(約72センチ)×2丈6尺(約8メートル))の大きさである。


4.の義務は、京・畿内の住民については特別に調半減無しとされた。


5.このほか国司の命令によって、水利工事や国府の雑用に年間60日を限度に奉仕する労役の雑徭があった。


6.また、国家が春に稲を貸し付け、秋の収穫時に高い利息とともに徴収する出挙(すいこ)(公出挙)もあった。


〈2014立大・文

公民は年齢に応じて調・庸・兵士役などを負担させられ、に関する説明として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
 a.正丁は、2人のうち1人、少丁は、4人のうち1人の割合で兵士役を課された。
(×兵役は正丁のみで、3~4正丁に1人の割合)

 b.正丁に、絹・絁(あしぎぬ)・糸・布など郷土の産物の一種を一定量納めることが課されたが、少丁には課されなかった
(×郷土の産物の一種を一定量納めるとあるので調のことを言っている。調は正丁・次丁(老丁)・少丁(中男:17~20歳(のち18~21歳)の男性)へ賦課された)。

 c.正丁に、地方での労役60日以下が課されたが、次丁には課されなかった
(×庸についていっている。次丁は30日以下、庸なしは少丁)

 d.正丁に、都での労役10日間にかえて布2丈6尺の代納などが課されたが、京・畿内の住人には課されなかった
(〇)」〉


洋学(蘭学)発展期(医学内科療法)

2017-02-04 | ベック式!日本史用語集



一都原爆 出頭後。


伊東玄朴(げんぼく))(種痘法)


[ポイント]

1.伊東玄朴は、牛種痘法に成功した。

[解説]

1.伊東玄朴(1800~71)は、肥前国佐賀藩伊東家の養子で、シーボルト鳴滝塾に学んだ蘭方医。牛種痘法に成功し、江戸神田に天然痘の予防接種施設の種痘館(種痘所)を開設。あわせて西洋医療技術の教育を行ない西洋医学の拠点となり、これが1860(万延元)年、幕府の直轄になり、1863(文久3)年に医学所と改称、後身が現在の東京大学医学部。

〈2014明大・経営(経営・会計・公共経済)

「鎖国という言葉は、オランダ商館の医師だった( ク )の著書『日本誌』の一部をオランダ通詞( ケ )が『鎖国論』として訳したことで用いられるようになったと言われている。

問8 空欄(ク)にあてはまる人名として正しいものを1つ選べ。
 Aケンペル Bクルムス Cシドッチ Dツンベルグ

問9 空欄(ケ)にあてはまる人名として正しいものを1つ選べ。」
 A伊東玄朴 B工藤平助 C志筑忠雄 D野呂元丈」
(答:ク→ケンペル、ケ→志筑忠雄)〉


洋学(蘭学)発展期(自然科学)

2017-02-02 | ベック式!日本史用語集



社密会歌酔わん。


リンネ・宗(しゃみつかいそう))(宇田川榕庵
「榕」の字に注意。

[ポイント]

1.宇田川榕庵は、化学書『舎密開宗』を著し、リンネの植物学を紹介した

[解説]

1.宇田川榕庵(榕菴とも表記)(1798~1846)は、蘭方医、蘭学者。美濃国大垣藩医の家に生まれる。宇田川玄随の家を継いだ玄真の養子として宇田川家を継ぐ。化学書『舎密開宗』を著し、江戸時代の化学研究の基礎をつくる。

2.また『西説菩多尼訶(ボタニカ)』で、初めてリンネ(Carl von Linné)(1707~78)の植物分類学を紹介した。「ボタニカbotanica」は植物学の意のラテン語。リンネはスウェーデンの博物学者で、今日当たり前に行われている生物を厳密に分類し学名をつけることを創始した。


蘭学)発展期・自然科学 志筑忠雄

2017-02-01 | ベック式!日本史用語集


史好きだO(オー)の 鎖国歴。

志筑(しづき)忠雄(ただお))(鎖国論・暦象(れきしょう)新書



[ポイント]

1.長崎通詞(つうじ)の志筑忠雄は『暦象新書』を著した。

[解説]

1.志筑忠雄(1760~1806)は、長崎生まれ、元オランダ通詞。通詞を辞職以後、自宅にこもって翻訳と研究に専念した。『暦象新書』を著し、ニュートン(1642-1727)の万有引力説コペルニクス(1473~1543)の地動説を紹介した。

2.ドイツ人医師ケンペルはその著書『日本誌』で、日本は長崎を通してオランダとのみ交渉を持ち、閉ざされた状態であることを指摘した。志筑忠雄は、1801(享和元)年この『日本誌』の一部を和訳し、「鎖国論」と題した。鎖国という語は、以後、今日まで用いられることになった。


〈2016立教大・済コミュ福観光

 オランダ語の需要の高まりとともに、オランダ通詞もさまざまな蘭書を翻訳するようになった。12オランダ商館付き医師であったケンペルが書いた『日本誌』の一節を翻訳する際に、「鎖国」という用語を初めて用いた志筑忠雄も、元オランダ通詞であり、『( ワ )』を著してニュートンの万有引力説やコペルニクスの地動説を紹介した。こうして蘭学は医学・天文学・地理学などの分野を中心に発展を遂げた。」

問12.これに関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.オランダ商館では将軍の代替わり事にオランダ風説書を作成して、幕府に海外情報を伝えた
 b.オランダ商館に来航するオランダ船の年間貿易額は、18世紀以降、銀高6000貫に制限された
 c.オランダ商館は東インド会社の本店とされ、バタヴィアの支店を管轄した

 d.平戸にあったオランダ商館は、幕府によるポルトガル人の追放後、長崎の出島に移された」

(答:ワ暦象新書、問12d ※a×1641(寛永18)年から、オランダ船が入港するたびに提出。b×中国船が年間銀6000貫目。オランダ船は年間銀3000貫目、c×バタヴィアが本店)〉


〈2016慶大・商AB方式

  またオランダ通詞あった[ 31 ]は『暦象新書』を著し、ニュートンの万有引力説やコペルニクスの地動説なども紹介した。」

(答:31志筑忠雄 *原問には選択肢が55語あり)〉


〈2014明大・経営(経営・会計・公共経済)

 鎖国という言葉は、オランダ商館の医師だった( ク )の著書『日本誌』の一部をオランダ通詞( ケ )が『鎖国論』として訳したことで用いられるようになったと言われている。」

問8 空欄(ク)にあてはまる人名として正しいものを1つ選べ。

 Aケンペル Bクルムス Cシドッチ Dツンベルグ

問9 空欄(ケ)にあてはまる人名として正しいものを1つ選べ。」


 A伊東玄朴 B工藤平助 C志筑忠雄 D野呂元丈」


(答:問8ク→ケンペル、問9ケ→志筑忠雄)〉


〈2013中大・経済

問2 下線部1のオランダ通詞で、ドイツ人医師ケンペルの『日本誌』の一部を「鎖国論」という題で訳した蘭学者の名を、下のア~カのなかから選べ。

 ア青木昆陽 イ稲村三伯 ウ大槻玄沢

 エ志筑忠雄 オ高僑至時 カ平賀源内」

(答:エ)〉


〈2012明大・法

 1637(寛永14)年の島原の乱は、幕府や大名にキリスト教への警戒感をさらに深めさせた。幕府は、1639(寛永1G)年・にポルトガル船の来航を禁止し、1641(寛永18)年にはオランダ商館を、平戸から、ポルトガル人の去ったあとの長崎の出島に移した。こうしていわゆるf鎖国が完成した。鎖国により、日本に来航する貿易船は、オランダ船と中国船だけとなり、長崎に限つて交易が認められた。海外の事情は、もっぱらオランダ船の入港のたびにオランダ商館長が幕府に提出する『[ カ ]』や中国船・朝鮮通信使などがもたらす情報から知ることができた。

問9.下線部f鎖国に関連して、鎖国という言葉の使用は、1801(享和元)年に長崎のオランダ通詞志筑忠雄がドイツ人医師ケンペルの『[ オ ]』の一章を『鎖国論』と題して訳したことにはじまる。空欄(オ)に該当する著書名を記しなさい。


問10.空欄(カ)に該当する語句を記しなさい。


(答:問9オ→日本誌、問10カ→オランダ風説書)

〈2012同志社大学・法グロコミュ:「
設問h ケンペルの『日本誌』一部を「鎖国論」として邦訳したオランダ通詞は誰か。その人物名を漢字で記せ。」

(答:志筑忠雄)〉


仏教公伝

2017-01-24 | ベック式!日本史用語集

御参拝しよ 仏来りゃ。

[ポイント]
1.欽明天皇の538年、日本に仏教が公伝された。

[解説]
1.欽明天皇戊午(ぼご)538年)、百済聖明王が仏像・経典を伝えたと『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』の両者に記述がある。

2.『日本書紀』は欽明天皇の13年(壬申年、552年)のこととしているが、上記の戊午説の方が有力百済聖明王から欽明天皇に仏像・経典などが贈られたという内容は三者で一致。


3.この時期の朝鮮半島では、百済高句麗や新羅の圧迫を受け(聖明王は554年、新羅戦で戦死)存亡の危機にあり、日本との提携の一手段として仏教外交を行ったものと考えられる。


4.一方、受け入れ側の日本では、新興勢力で仏教受容派の蘇我氏と、反対する旧勢力の物部氏が激しく対立した。(崇仏(すうぶつ)論争


5.「志癸嶋(しきしま)(欽明)天皇の御世(みよ)、戊午(538)年の十月十二日、百済国主明王(めいおう)(聖明王)、始めて仏像経教並びに僧等を度(わた)し奉(たてまつ)る。勅して蘇我稲目宿禰大臣(そがのいなめのすくねのおおおみ)に授けて興隆せしむ。」(『上宮聖徳法王帝説』)


※蘇我稲目宿禰大臣は大臣の蘇我稲目(馬子の父)のこと。宿禰は尊称。


〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

6世紀の半ばごろ( イ )天皇の時代に、百済の聖明王から、釈迦仏の金銅像や経論が公的な形で伝えられた。このとき天皇が仏への礼拝の可否を臣下に尋ねたところ、受け容れに積極的な( ロ )が、物部尾輿と対立した。587年、( ロ )の息子は尾輿の息子を滅ぼし、一族の権勢を固めていった。」(答:イ欽明、ロ蘇我稲目)〉

〈2013慶大・法

仏教伝来に関しては諸説あるものの、『日本書紀』によれば、わが国に仏教が伝来したのは、百済の聖明王が[ 12 ]に経典や仏像をおくった552年とされる。」(答:欽明天皇※原問題には選択肢78語あり)〉

〈2013青山学院・文

百済からわが国に仏教が公的に伝えられたのは[ a ]天皇の時代である。問1、空欄[ a ]に入るもっとも適切な語句を、次の選択肢の中から選びマークしなさい。1.安閑 2.宣化 3.欽明 4.敏達
(答:3)

崇仏論争(蘇我馬子対物部守屋)

硬派な馬子もの申す。
(物部守屋(もののべのもりや))(蘇我馬子(そがのうまこ)・587年)

[ポイント]

1.蘇我馬子は、587年、対立する物部守屋を滅ぼした。

[解説]

1.6世紀中ごろには、蘇我氏渡来人と結んで朝廷の財政権をにぎり、政治機構の整備や仏教の受容を積極的に進めた。

2.仏教の受容に積極的な蘇我馬子と反対する物部守屋のあいだの戦いとなり(崇仏論争)、587年に守屋を滅ぼして蘇我氏の権勢が確立した。


〈2010大学入試センター試験・日本史B

A 次の史料は、『日本書紀』の文章の一部である。ここには、ある政争にかかわって、二人の人物がそれぞれ戦勝祈願した結果、二つの寺院が創建されたという伝承が記されている。
 蘇我馬子宿禰(すくね)大臣、諸(もろもろの)皇子と群臣とに勧めて、[ ア ]大連を滅ぼさむことを謀る。(中略)乱を平(しず)めて後(のち)に、(ある皇子の発願により)摂津国にa.四天王寺を造る。b.大連の奴(やつこ)の半(なか)ばと宅(やけ)とを分けて、大寺(おおでら)(注1)の奴・田荘とす。田一万頃(しろ)(注2)を以て、迹見首(とみのおびと)赤檮(いちい)に賜ふ。蘇我大臣、亦(また)本願の依(まま)に、飛鳥の地に[ イ ]を起(た)つ。
(注1)大寺:四天王寺を指す
(注2)頃:土地の面積を表す単位

問1 空欄[ ア ][ イ ]に入る語句の組合せとして正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
 1 ア大伴金村 イ法隆寺  2 ア大伴金村 イ法興寺
 3 ア物部守屋 イ法隆寺  4 ア物部守屋 イ法興寺(答:4)

問2 下線部aは、蘇我馬子とともに戦った、ある皇子(王)が創建したと伝えられている。この人物が国政にかかわっていた時期の出来事について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
 1 世襲による氏姓制度とは異なり、個人の功績や才能を評価する冠位の制度が定められた。(〇:冠位十二階)
 2 中国南朝に使者を派遣し、倭と朝鮮半島南部での軍事指揮権を示す称号を求めた。(×:倭の五王の記述)
 3 倭国では大きな争乱が起こり、しばらく収まらなかったが、諸国が共同して女性の王をたて、約30国からなる連合体をつくった。(×:邪馬台国の記述)
 4 稗田阿礼によみならわせていた神話や伝承、歴史などを、太安万侶が筆録し、書物として完成させた。(×)

問3 下線部bに関して述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1 国政を担う大連は、連の姓をもつ有カな氏のうちから任じられた。(〇)
 2 『日本書紀』の「改新の詔」には、豪族の所有する田荘を廃止する命令が記されている。(〇)
 3 有カな豪族のもとには、「奴」とよばれる人々がいた。(〇)
 4 四天王寺は、人や土地を所有することが禁止されていた。(×)


古代の宮都

2017-01-23 | ベック式!日本史用語集

国知れ何よ しかし閉口。

恭仁京(40年)難波宮紫香楽京平城京の順で遷都した。

[解説]

1.飛鳥浄御原宮は、天武天皇が、壬申の乱後の672年に、岡本宮の南に造営した宮である。

2.藤原京は694~710年、持統文武元明天皇3代の都。我が国初の都城制を採用。畝傍・耳成・天香具山に囲まれた地域に造営された。


3.元明天皇710年藤原京から遷都。都城の東部分に外京があるのが特徴。787年、長岡京に遷都。


4.740(天平12)年には、藤原広嗣が吉備真備玄らの排除を求めて九州で大規模な反乱をおこしたが鎮圧された(藤原広嗣の乱)。


5.聖武天皇はこの乱直後に、恭仁京(740~44)→難波宮(744))→紫香楽京(744~45)とめまぐるしく遷都を繰返し、745年のうちに平城京に還都した。


6.なお近江大津宮紫香楽宮だけは畿内五畿)外の近江国すなわち東山道にあった。


〈2014立大・文

下線部3聖武天皇が行ったことはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.勘解由使を設けた

 b.検非違使を設けた
 c.恭仁・難波・紫香楽と遷都した(〇)
 d.弘仁格式の編纂を命じた」

(答:c ※a×797年聖武天皇、b×816年嵯峨天皇、d×820年嵯峨天皇)〉


〈2013慶大・文

次の史料は、いずれも『万葉集』に収められた歌である。これらを読んで、設問に答えなさい。(原万葉仮名)

 今造る ( C )の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし」

問8(C)の中にふさわしい、聖武天皇が新規に造営した都の名称を記しなさい。


問9  聖武天皇が(C)に遷都する直接的原因となった出来事とは何か、記しなさい。」

(答:問8C恭仁京、※二音の可能性が高いことに気づければ大きい。問9藤原広嗣の乱)〉

〈2013早大・文化構想

 ながい日本の歴史のなかで、人々は政治や社会について様々な意見を述べ、また、議論をしてきた。それが知られる早い例は、744年から翌年にかけて、遷都をめぐる幅広いa意見聴取がおこなわれたことである。」下線aの意見聴取において、最終的に決まったところはどこか。1つ選べ。」

 ア平城 イ難波 ウ恭仁
 エ紫香楽 オ藤原」

(答:ア ※「恭仁京→難波宮→紫香楽宮」と遷都した挙げ句、最後は再びもとの平城京に還都されたことを忘れがちである)〉


〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン

問 下線部a~cのなかから正しくないものをそれぞれ一つ選び、その記号を解答欄にマークせよ。なお、下線部a~cがすべて正しい場合には、dをマークせよ。

a7世紀の末に藤原京が都に定まると、b3人の天皇が、即位してから死去するまで、藤原宮に住み続けた。ついで[ A ]のとき、都が藤原京から平城京にかわると、平城宮は数人の天皇の宮として継続した。即位してから死去するまで平城宮に住み続けた最後の天皇は[ B ]である。c.ただし、その間、別の地に宮を設けた天皇もいた。

(答:A元明天皇、B光仁天皇、a〇694年、b×3人は持統・文武・元明各天皇だが、持統の治世の途中に遷都、また元明も治世の途中で平城遷都している。c〇聖武天皇で恭仁京→難波宮→紫香楽宮)〉

〈2010早大・法

2.下線a8世紀に鋳造された日本の東大寺盧舎那大仏について。この頃(742~753年)の歴史事象として正しいものは次のうちどれか。2つ選べ。

 あ 聖武天皇は近江紫香楽宮で盧舎那大仏の造立を宣言した。
 い 諸国に国分尼寺を建て、尼僧20人と金光明最勝王経を置いた

 う 八幡神の託宣により、淳仁天皇が廃された。
 え 光明皇后は、聖武天皇が没した後、帝位に就いた。
 お 740年には藤原広嗣の乱が起こり、この後、聖武天皇は都を度々移した。」

(答:あ・お ※あ〇743年造営中の紫香楽宮で詔を出す、い×741年国分寺・国分尼寺造立の詔、う×769年宇佐八幡宮神託事件、え×そのような事実はない)〉


天智天皇

2017-01-21 | ベック式!日本史用語集


労慣れ天智 交互ネジ。

庚午年籍(こうごのねんじゃく))(天智天皇)(近江大津宮・670


[句意]「今後のネジ」という展覧会の展示準備が大詰めを迎えた、という句。

[ポイント]
1.近江大津宮で即位した天智天皇は、670年、庚午年籍をつくった。

[解説]
1.朝鮮半島では、新羅が結んで660年に百済を、668年には高句麗を滅ぼした。難波から飛鳥へもどった斉明天皇(皇極天皇の重祚)のもとで、倭は旧百済勢力による百済復興を支援するため大軍を派遣したが、663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した。この後、新羅が半島の支配権を確立し676年に半島を統一した。

2.白村江の敗戦を受けて防衛政策が進められ、百済からの亡命貴族を中心に大宰府の北方に水城(みずき)や大野城、南方に基肄城(きいじょう)などがきずかれ、対馬から大和にかけて朝鮮式山城がきずかれた。また664年には氏上を定め、豪族領有民を確認するなど豪族層の編成が進められた。

3.唐・新羅連合軍の侵攻を恐れた中大兄皇子は、667年に都を内陸の地近江大津宮に移し、翌年に即位して天智天皇となり、670年には最初の戸籍である庚午年籍を作成した。

〈2014明大・農(食料環境政策)

問7.下線部(エ)白村江の戦いに関連して、その後の出来事1~5を正しい順番で並べたものを下記の選択肢から一つ選べ。

 1.飛鳥浄御原令施行
 2.近江大津宮に遷都
 3.藤原京に遷都      
 4.大宝律令完成
 5.庚午年籍の作成
〔選択肢〕

 A.53341 B.25134 C.52314
 D.51324 E.25143」


(答:B ※1→689、2→667、3→694、4→701、5→670)〉


〈2013青山学院・文

問7.下線部f大規模な宮に関連して、飛鳥地方に大規模な宮が造られる前に、中大兄皇子が遷都し、滋賀の都とも呼ばれた宮を何というか。下から選べ。

 (1)飛鳥浄御原宮
 (2)長柄豊碕宮
 (3)紫香楽官
 (4)近江大津宮」〉


(答:4)〉

〈2011文教大・全学部:「
問5.年表中の(c)(663~702)の時期のA~Cのできごとについて、古いものから年代順に正しく並べよ。


 A.藤原京に遷都する

 B.八色の姓を定める
 C.庚午年籍を作成する」

(答:CBA、※Aは持統天皇の694年、Bは天武天皇の684年、Cは天智天皇の670年 ※なお混同しやすい庚寅年籍は持統天皇の690年)〉


〈2009慶大・商

 中国では、秦の時代から[ 1 ]に当たる律が編纂されていたのに対し、日本では、[ 2 ]としての令の方が優先された。670年、最初の全国的な戸籍である[ 3 ]を作成した天智天皇が、最初の法典[ 4 ]を制定したといわれている。」

(答:1刑法、2行政法、3庚午年籍、4近江令 ※原問には70語の選択肢あり)〉


天平文化

2017-01-15 | ベック式!日本史用語集

 

 商店 古都2万、焼き倒壊し象徴す

 聖武天皇       

    天平文化       

       奈良時代          

          仏教文化 

            『古事記』 

              唐の影響 東大寺 唐招提寺

                『日本書紀』

                   『万葉集』

                     薬師寺吉祥天像

                       東大寺戒壇院四天王像

                             正倉院鳥毛立女屏風

 


「正倉院鳥毛立女屏風」の画像検索結果

聖武天皇のころの、の文化の影響を強く受けた国際色豊かな仏教文化を天平(てんぴょう)文化という。

東大寺には、聖武天皇の愛用品や宝物を納めた正倉院(しょうそういん)がある。

「正倉院」と「聖武天皇」に共通する〈ショウ〉の音を意識して覚えよう!

〈2015早大・人間科学

問8 下線部h国際色豊かな天平文化が花開きに関連して、正倉院宝物に含まれるものはどれか、2つ選べ。

 ア 両界曼荼羅 イ 阿修羅像  ウ 螺鈿紫檀五絃琵琶

 エ 漆胡瓶   オ 鑑真和上像 カ 扇面古写経

(答:ウ・エ) 


〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

東大寺の大仏は銅像の表面に鍍金を施した金銅像であるが、天平文化の時代には、( へ )や乾漆像の制作技法も発達した。( へ )は木を芯として粘土を塗り固めて造る像で、乾漆像は粘土などの原型の上に麻布を漆で幾重にも覆い固め、中の原型を抜き取って造る像である。

(答:ヘ塑像)


2012中央大・経済

問7 聖武天皇時代の年号をとって名付けられた国際色豊かな貴族文化を何というか。漢字で答えなさい。また,その文化を示す作品を、次のア~サからすべて選び、記号で答えなさい。

(ア)法隆寺全堂壁画画 (イ)正倉院鳥毛立女屏風
(ウ)高松塚古墳壁画  
(エ)興福寺八部衆像
(オ)東大寺法華堂月光菩薩像 (カ)興福寺仏頭

(キ)法隆寺全堂釈迦三尊像 (ク)広隆寺半跏思惟像
(ケ)薬師寺薬師三尊像 (コ)中宮寺天寿国繍帳
(サ)薬師寺吉祥天像


(答:天平文化 イ・エ・オ・サ)

 

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豪族の私有民

2016-12-31 | ベック式!日本史用語集


[ポイント]

1.豪族の私有地を田荘といい、これを耕す豪族の私有する農民を部曲という。

[解説]

1.(べ)は大王家や豪族に隷属(れいぞく)して生産に従事した労働集団。部に編成された農民・技術者が部民(べのたみ)である。部民には他に田部(たべ)、品部(しなべ(ともべ))、子代(こしろ)・名代(なしろ)をあわせおもに5種類ある。

2.部曲は、豪族の私有地田荘を耕作する農民で自然村落を単位として編成された。所有者である豪族の名を冠して蘇我部(そがべ)・大伴部(おおともべ)などと呼ばれた。

3.皇室の直轄領を屯倉といい、ここを耕作する農民を田部という。朝廷の管理下にあり、渡来人や国造(くにのみやつこ)支配下の民を割(さ)きとり集団移住させて編成された。


4.朝廷・大王の私有民に品部子代名代がある。后(きさき)・皇子らの名を冠(かん)し長谷部(はせべ)、あるいは職名を冠し錦織部(にしごりべ)などのように呼ばれた。そのうち品部伴造(とものみやつこ)に指揮される朝廷に所属する渡来系技術系部民である。子代名代は皇室のためにおかれた部民だが、その区別などなお不明なことが多い。

5.なおまた豪族などの氏集団は部民に加え、奴隷として使われる()を私有した。

 〈2016早大・人間科学

 さらに庸や調の徴収にあたっては、g畿内は畿外に比べて優遇を受けていた。これは、畿内の勢力が畿外を支配する形態をとったヤマト政権の構造がそのまま律令国家にも引き継がれたことを意昧している。このように、古代国家は中国な支配体制をそのまま導入したわけではなく、h氏族制など律令制以前からの制度を温存しつつ律令制を受け入れたとということができる。
問7 下線部g畿内にあてはまらない国はどれか、1つ選べ。もし該当するものがなければ、カをマークせよ。
 ア大和 イ近江 ウ和泉
 エ摂津 オ河内」
問8 下線部h氏族制など律令制以前からの制度に関して述べた文として、誤っているものはどれか、1つ選べ。
  ア 筑紫国造磐井の反乱を契機に、屯倉が設置された。
  イ 豪族に属する部民を部曲、私有地を田荘といった。
  ウ 地方豪族には君や直などの姓が与えられた。
  エ 四等官制に基づく郡司の地位が、地方豪族に与えられた。
  オ 伴造が職掌に応じて王権に奉仕した。
(答:問7イ、問8エ)〉

〈2015センター試験・日本史B

 問3 下線部c古墳時代には列島各地を政治的に統合したヤマト政権が誕生するにいたるに関して述べた次の文a~dについて、正しいものの組合せを、下の1~4のうちから一つ選べ。

 a.ヤマト政権を構成する豪族らは、氏として組織化された。
 b.ヤマト政権は、列島各地に田荘とよばれる直轄地を設けた。

 c.『魏志』倭人伝によれば、倭の五王は中国の北朝に朝貢した。
 d.大王や王族に奉仕する部民として、名代・子代が設定された

 1a・b  2a・d
 3b・c  4b・d

(答:2 ※b田荘は豪族の所有地、c『魏志』倭人伝→『宋書』倭国伝)〉


〈2015早大・文

 古代の人々が、「田」と呼ばれる土地とどのように向かい合ってきたのかは、歴史を学ぶ場合、重要な課題となる。
 まず、『日本書紀』が記す「改新の詔」には、a「田荘」の廃止や、「田の調」の徴収などがうたわれている。この「改新の詔」をそのまま信用することはできないが、律令制以前における「田」の実態の一面を間接的に伝えたものであろう。」

問1 下線aの語句は何と読むか。平仮名で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。

(答:たどころ)〉

〈2013青山学院・文:「
問6.下線部e種々の技術に関連して、このような技術を大陸からもたらした人々には伴造に従い、大王家・朝廷に所属して、それぞれの職能に応じて奉仕したものもいたが、この人々は何と呼ばれたか。下から選べ。


 1.部曲 2.品部
 3. 4.舎人」

(答:2)〉

〈2012早大・文化構想:「
 下線d次第にその領域を拡大していったについて。畿内の王権が地方に進出し、その直轄領としたところはなんと呼ばれるか。記述解答用紙の解答欄に漢字で記入しなさい。」

(答:屯倉)〉


陽明学 

2016-12-29 | ベック式!日本史用語集




[ポイント]

1.陽明学中江藤樹に始まり、熊沢蕃山へとつづく。

[解説]

1.中江藤樹(1608~48)は、近江国の農家に生まれるが、伊予大洲藩に仕官した祖父の養子として武士となる。17歳のとき儒学に志し、独学で朱子学を学んだ。やがて行為よりも知識を重んじる朱子学に疑問をもち、明の王陽明(1472~1528)が知識と行為の一致(知行合一)を説いた陽明学に傾倒した。かれは脱藩して近江に帰り私塾藤樹書院を開き、近江聖人と呼ばれた。「藤樹」は、実家が大きな藤の木の下にあったことからついた名。

2.熊沢蕃山(1619~91)は、中江藤樹の第一の門人。岡山藩主池田光政に重用され藩政改革に貢献。蕃山の生きた時代は2代将軍秀忠から5代将軍綱吉」の時期。『大学或問』で、幕政批判をしたとして、下総古河に幽閉されその地で客死した。死後1世紀を経て評価が高まり、新井白石と並ぶ大学者としてあがめられた。


3.なお後世に独学で陽明学を学んだ大塩平八郎(1793~1837)がいる。


〈2016立教大・現心社コミュ福

問11.これ陽明学に関する記述として正しいのはどれか。

 a.岡山藩主に仕えた熊沢蕃山は『大学或問』を著した

 b.寛政異学の禁において、昌平坂学問所で講義することが認められた
 c.唐の王陽明が創始した儒学の一派である
 d.日本におけるこの学の祖とされるのは太宰春台である」

(答:a ※b×禁止された、c×陽明学は南宋の陸象山を基礎に明代の王陽明が展開した学、dは徂徠の弟子で古学派のうちの古文辞学派)〉


〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)

次の短文は、江戸時代の文化を担った人について叙述したものである。よく読んで、あとの問いに答えなさい。

問1 次の文章の下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。誤っている語句をa~dの中から1つずつ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、それぞれの語群から1つずつ選びなさい。

 京都の人で陽明学者。a萩藩主池田光政に仕え、治績をあげた。b経済政策論としての『大学或問』を著し、社会批判を展開。c重農主義的立場から武士の帰農、d参勤交代の緩和を主張した。                        

〔語群〕

 1松江  2岡山 3外交 4教育
 5重商 6重工 7年貢 8国内旅行規制」

(答:a→2 ※人物は熊沢蕃山)〉

  
〈2016法大・文(英地心)法(国)営(戦略)

問9 下線部f天保の改革の直前に大塩平八郎の乱が起きている。大塩が大坂で教授していた学問は「知行合一」を説くものであったが、その学問として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。

 ア国学 イ朱子学 ウ陽明学 エ水戸学」

(答:ウ)〉

〈2014早大・文化構想

問5 下線eの人物柳沢吉保はある将軍の側用人を務めたが、その将軍の治世に関する文章として誤っているものはどれか。2つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。

 ア 大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺された。

 イ 上方を中心に元禄文化と呼ばれる町人文化が発達した。
 ウ 生類憐みの令が出され極端な動物愛護の方針が採られた。
 エ 中江藤樹が藤樹書院を開いた。
 オ 足高の制が施行された。」

(答:エ・オ ※5代将軍徳川綱吉(位1680~1709)、エ.藤樹書院の解説は1634年。オは吉宗)〉


〈2013同志社大・全学部:「

【設問q】鳥取藩主から岡山藩主となった池田光政が登用した儒学者で、『大学或問』を著した人物として適切なものはどれか。次のうちから1つ選べ。

 1.山鹿素行 2.中江藤樹

 3.熊沢蕃山 4.伊藤仁斎」

(答:3)〉


〈2015立命館大・全学部2/2:「

 次の文章を読み、下線部cの「かれ」の氏名を答えよ。かつ(m)の問いに答えよ。

〔3〕cかれは、「近江聖人」「日本陽明学の祖」として知られているが、その学問は必ずしも陽明学一辺倒ではなく、中国の明末の思想や儒教・仏教・老荘思想からも多くの影響を受けている。「孝」を中心とした思想は、3武士だけではなく、町人・農民にも伝えられ、儒教道徳の民間への普及に功績があった。


問m 下線部3に関連して、「かれ」の武士の弟子としてよく知られている人物は誰か。もっとも適当な人名を下から一つ選べ。


 あ貝原益軒 い室鳩巣

 う新井白石 え熊沢蕃山」

(答:かれ→中江藤樹、問mえ)〉


古学

2016-12-26 | ベック式!日本史用語集



 偉人掘り出す講義どう。

伊藤仁斎 堀川 古義堂 東涯 童子問


[ポイント]
1.古義学派は、伊藤仁斎東涯青木昆陽とつづく。

[解説]
1.伊藤仁斎(1627~1705)は京都町衆の出。朱子学を批判し、『論語』『孟子』などを重視し原典を直接学ぶことを唱える古義学を創始した。私塾古義堂(堀川塾)を開き、門弟は3000人に達した。それを長男東涯(1670~1736)が発展させた。仁斎の主著は『論語古義』。

2.青木昆陽(1698~1769)は、江戸日本橋の魚屋の子。京に上り伊藤東涯に古義学を学び、江戸八丁堀に塾を開く。折からの享保の飢饉に書いた『蕃薯考(ばんしょこう)』が大岡忠相を通じて吉宗に認められ出仕。以後甘蔗の普及につとめる。吉宗の命を受け野呂玄丈とともにオランダ語学習につとめ、その成果は前野良沢によって継承され、のちの蘭学興隆の基となった。

〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)

 次の短文は、江戸時代の文化を担った人について叙述したものである。よく読んで、あとの問いに答えなさい。

 a大坂の町人の家に生まれる。『論語』『孟子』などの原典の研究を通じて直接聖人の道を正しく理解しようとし、b古義学をとなえ、京都c堀川に塾を創設した。政治と道徳を区別する学風を形成した。著書にはd.『童子問』などがある。

〔語群〕

 1江戸  2京都 3陽明 4心
 5下賀茂 6丸太町
 7『万葉考』 8『玉勝間』

問1 文中の下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。誤っている語句をa~dの中から1つずつ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、それぞれの語群から1つずつ選びなさい。」


(答:問1a2 ※文は伊藤仁斎)〉


〈2016早大・文化構想:「

問12 下線f多くの藩校(藩学)、郷校(郷学)、私塾、そして寺子屋などが誕生したに関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 明倫館は長州藩の藩校(藩学)であり、日新館は会津藩の藩校(藩学)である。

 イ 弘道館は水戸藩の藩校(藩学)であり、修猷館は福岡藩の藩校(藩学)である。
 ウ 閑谷学校は岡山藩の郷校(郷学)であり、大坂の懐徳堂も郷校(郷学)と言える。
 エ 豊後日田の咸宜園は広瀬淡窓の私塾であり、江戸の古義堂は大槻玄沢の私塾である。
 オ 寺子屋は手習塾・手習所などと呼ばれ、女性の師匠もいた。」

(答:エ ※古義堂は京都堀河にあった伊藤仁斎の私塾)〉


〈2015立命館大・全学部

Ⅲ 次の文章を読み、下線部dの「かれ」の氏名を答えよ。かつ(n)の問いに答えよ。

〔4〕d.かれは、裕福な4京都町衆出身で古義学の創始者として知られている。最初、朱子学の熱心な実践者であったが、しだいにその静態的傾向に疑問をもち、孔子・孟子に立ち返って儒教的道徳を日常生活に活かすことを主張するに至った。平易な教えは影響力も大きく、門人は3000人に達したといわれている。

問n 下線部4京都町衆に関連して、「かれ」の妻も「京都町衆」で、画家・工芸家を輩出した家の出身であった。その家の代表的人物の一人で、『紅白梅図屏風』『舟橋蒔絵硯箱』などの作者は誰か。その氏名を答えよ。」

(答:d伊藤仁斎、n尾形光琳

置(お)こうバイクや カキツバタ。

尾形光琳 『紅白梅図屏風』 「八橋蒔絵硯箱」 『燕子花図屏風』



〈2013愛知教育大・前期

 江戸時代には、さまざまな学問・教育活動が展開していた。その一翼を担ったのは、儒学者たちであった。林羅山のように、幕府に仕えた者もいたが、私塾を経営しながら学問・教育につとめた者もいた。たとえば、中江藤樹は伊予国大洲藩に仕える武士であったが、脱藩して、近江国の小川村で陽明学を教えた。京都の上層町人の伊藤仁斎は、私塾( a )で、『論語』や『孟子』にもとづきながら、町人の生活実態にふさわしい儒学を教えた。」

(答:古義堂)

 

ツナ踏むお 鼓舞せいよ。

1726年   荻生徂徠      古文辞学 『政談』  吉宗 

荻生徂徠)(太宰春台(だざいしゅんだい))(古文辞(こぶんじ)学派)

[句意]雄牛のようなダサい身体(からだ)つきの子分が痔になった、というナンセンスの句。「子分」は親分に従う配下。

 

[ポイント]
1.古文辞学派は、荻生徂徠太宰春台と続く。

[解説]

1.荻生徂徠(1666~1728)は、綱吉の侍医の子。父の不遇時代に上総(かずさ)の農村で暮らす。この経験が実証的な学者となる基礎となる。やがて儒学者として柳沢吉保につかえる。吉保の失脚後は官を持し江戸で私塾蘐園塾(けんえんじゅく)を開き、古語(古文辞)の本来の意味の研究を究めて解釈することを主張する古文辞学を大成。さらに吉宗に登用され、人口移動や都市問題を含む経世論を説いた『政談』を献じた。

2.太宰春台(1680~1747)は、徂徠の経世論を発展させ、武士の商業活動を奨励する『経済録』を著す。


〈2016法大・法(政法)国際キャリア

問9 江戸時代の有名な人物同士である[   ]は、対面したことがない。

 ア 松平定信と荻生徂徠
 イ 池田光政と熊沢蕃山

 ウ 賀茂真淵と本居宣長
 エ 蔦屋重三郎と本居宣長

 オ 徳川斉昭と藤田東湖
 カ 徳川家宣と新井白石」


(答:ア)〉


〈2015立命館大・全学部

 次の文章を読み、下線部eの「かれ」の氏名を答えよ。かつ(o)の問いに答えよ。

〔5〕eかれは、5柳沢吉保にも仕えた儒学者で、蘐園学派の祖でもあり、18世紀の学問界にもっとも影響を与えた学者の一人であった。中国の古典である六経に基づく「経世済民」が儒教の要であるとして、何よりも政治的実践を重視したが、むしろその古典研究法が文学・国学などに与えた影響の方が大きい。」

 

問o 下線部5に関連して、柳沢吉保は、幕府奥向にあって将軍に近侍し、表向との取次を担当する役職に就いて絶大な権力をふるった。この役職を何というか。」

(答:荻生徂徠、問o側用人)〉


〈2014立大・現心コミュ福観光営

 3荻生徂徠は、古文辞学派の儒学者でもあった。徂徠は『( イ )』を著し武士の土着論を展開し、また徂徠門下の〈 あ 〉は『経済録』や『経済録拾遺』を著し4武士の商業活動の必要性を説くなど、その積極的な政治経済への発言がその後の経世論発達の礎となった。」

問3.下線部3の荻生徂徠が江戸に開いた私塾はどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.蘐園塾 b.古義堂
 c.洗心洞 d.藤樹書院

問4.これを同じく説いた『稽古談』の著者は誰か。次のa~dから1つ選べ
 a.海保青陵  b.工藤平助
 e.佐久間象山 d.林子平」


(答:イ政談、あ太宰春台、問3a、問4a)〉


〈2014明大・全学部前期

問4 下線部(イ)荻生徂徠に関する説明として正しいものを、次のA・Dのうちから1つ選選べ。

 A 京都堀川に塾を開き、古義学を唱えた。

 B 岡山藩主池田光政に仕え、藩政改革を推進した。
 C 『政談』を著し、武士土着論を唱えた。
 D 大坂に懐徳堂を設立し、町人に儒学を教授した。

(答:C ※A×伊藤仁斎、B×熊沢蕃山、D×中井竹山)〉


〈2013早大・政経

『政談』の著者が唱えた原典解釈の方法を何というか。」

(答:古文辞学)〉



曇徴と観勒 

2016-12-25 | ベック式!日本史用語集



還暦が来りゃ 鈍行か。

(絵の具紙)(高句麗僧・曇徴)(済僧・勒・暦法天文地理)


[句意]僕は高級な緞帳を百巻持ってる、という文字通りの句。「もってる」は「天文」を倒置させたゴロ。曇徴と観勒についての紛らわしい正誤問題が頻出しているので、「百巻もってる」を覚えるだけでもかなり役立つはず。「緞帳」は劇場や学校体育館の舞台などにある厚地の模様入り幕のこと。


[ポイント]

1.高句麗曇徴が、絵の具の製法を、百済観勒暦法天文地理の書を伝える。

[解説]

1.曇徴(生没年不詳)は、高句麗僧。推古朝の610年来日。絵の具の製法を伝えた。

2.観勒(生没年不詳)は、百済僧。推古(すいこ)朝の602年来日。暦法天文地理の書を伝えた(604年、初めて暦を使用)。

 

〈2016立命館大・全学部

〔2〕日本最古の本格的な伽藍寺院である飛鳥寺の造立には、朝鮮半島から遣わされた工人集団が重要な役割を果たしたが、この時期に渡来した僧も、8.仏教とともに新しい知識や技術を伝えた。また、日本から派遣された遣隋使に随行した9留学生や学問僧は、帰国後日本の新しい国家体制の構築に貢献することになった。

問i 下線部8に関連して、高句麗から渡来し、紙・墨や絵の具の製法を伝えたとされる僧は誰か。もっとも適当な僧の名を答えよ。

問j 下線部9に関する説明として、適当でないものを下から一つ選べ。


 あ 学問僧として遣隋使に随行した南淵請安は、中臣鎌足や中大兄皇子らに大陸の知識を伝えたとされる。

 い 留学生として遣隋使に随行した高向玄理は、大化の新政権に参画したが、のち遣唐使として再び大陸に渡り、客死した。
 う 学問僧として遣隋使に随行した観勒は、暦や天文の書をもたらし、また僧正に任じられて僧尼の教導にあたった。
 え 学問僧として遣隋使に隨行した旻は、孝徳天皇のもとで国博士の任につき、また十師の一員となった。」

(答:i曇徴、jう×観勒は百済から来日した僧 ※え〇の「十師」は僧尼の統制のため10人の高僧を任じたもの)〉

〈2014明大・農(食料環境政策)

問4 下線部(ア)高句麗に関連して、高句麗と周辺諸国との関係について記述した文章として最も適切なものを一つ選んで、その記号を解答欄にマークせよ。

 A 朝鮮半島北部におこり、次第に領土を広げ、313年には楽浪郡を滅ぼした

 B 5世紀後半に南下策を進めると、朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために、倭国と争うことになった。
 C 高句麗の僧観勒は日本に彩色・紙・墨の技法を伝えたとされている。
 D 高句麗との戦いにより、倭人はいやおうなしに騎馬技術を学び、5世紀になると、日本列島の古墳の副葬品にも馬具が現れるようになった。
 E 隋による高句麗への侵攻が始まったのは7世紀中葉のことである」

(答:D ※A発生は現中国東北部で朝鮮半島ではない、E.高句麗侵攻は598~614年)〉

〈2013青山学院・文

602年に百済僧[ ア ]によって暦本・天文地理書・遁甲方術の書などがもたらされ、暦法が教授されてからであった。

問3.空欄[ ア ]に入る人物は誰か。その名前を漢字で記しなさい。

(答:観勒)〉