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ベック式!難単語暗記法ブログ

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★改税約書 かいぜいやくしょ

2017-07-23 | ベック式!日本史用語集

  下関戦争の償金減免と引換えに、1866(慶応2)年6月、幕府と英・米・仏・蘭4国代表との間に結ばれた協約。江戸協約とも呼ばれる。

その内容は輸入品価格の35%ないし5%をかける従価税方式であった関税が、4年間の物価平均で定まる原価の一律5%を基準とする従量税(商品の一定量を基準として課税)に改められた。

しかし、本質的な解決にはほど遠く、これにより国内の物価上昇に即応しない安価な外国商品が大量に流入することとなり、1867年には輸入超過となった。

この改正は明治政府の懸案となり、1894(明治27)年、条約改正交渉により廃棄に成功した。


ムム解約二重課税50両


(1966)(改税約書)(20%・従価税)(%・従量税)


[ポイント]

1.改税約書1866)では、平均20%の従価税を諸外国に有利な一律5%の従量税に改めた。

[解説]
1.協定関税の改訂版のこと。兵庫開港延期の代償として、4国との間で結んだ関税協定。

2.安政の五カ国条約では平均20%の関税率で、従価税であった。この関税率の引き下げを英・仏などが要求。

3.その結果、輸出入品ともに日本に不利な5%で、しかも課税額が少なくなる従量税とされた。この結果、これ以降輸出超過から一転して輸入超過となった。


2017関西大・全学部2/8:「

(A)1865年、列国は兵庫沖まで艦隊を送り、条約の勅許を勝ち取った。翌年には幕府と交渉して、関税率を一律5%の従量税に改め、また自由貿易をさまたげる諸制限を撤廃する【ア日英通商航海条約 イ改税約書 ウ貿易章程】に調印させた。

(答:イ)〉


2014明大・商(商):「

 1865年、英国など4か国は、依然として通商条約の勅許を認めない朝廷に対して兵庫沖に艦隊を送り軍事的な威圧をかけ、朝廷から勅許を得ることに成功した。翌年の1866年には、欧米列強は、幕府に対して、通商条約締結の際に定めた平均約20%の輸入関税率を輸出入一律(e)【1)3% 2)5% 3)6% 4)8% 5)10%】に引き下げる改税約書を調印させた。こうした状況の中で、尊王攘夷派勢力は攘夷の無力さ、無意味さを悟らざるを得なくなった。むしろ逆に先端的な技術を取得し、武器を獲得しようと、薩摩も長州もイギリスに近づくようになり、攘夷から開国へと考え方を変化させるようになる。」

(答:2)〉


2014同志社大・文:「

【設問あ】下線部a売込商と呼ばれる日本側の貿易商人が国内各地より輸出品を仕入れ、外国商館と取り引きするようになったに関連する幕末期の経済・通商の実態として正しい記述を、以下の1~4より1つ選べ。

 1.幕府は江戸問屋の保護と流通経済の統削を目的とし、特定の品物の開港場直送を禁じ、江戸問屋を経由することを発令した。

 2.日本と外国との金銀比価の相違により、大量の銀貨が海外に流出し、国内経済が混乱した。
 3.1866年、幕府は改税約書に調印し、安政の五か国条約で定められた輸入税を一律に引き上げた。
 4.開港当初における主要輸入品は、毛織物や絹織物であった。」

(答:1〇 ※2×金貨が流出、3×引き下げた、4×毛織物や綿織物)〉

●改税約書

  ベック式暗記法! 

入(い)るは無論だ 改税後

1866年          改税約書 5% 


1865年の出来事

2017-07-22 | ベック式!日本史用語集

 


兵庫無効で勅許した。


孝明天皇)(1865年・兵庫開港無し・条約勅許


[句意]孝明天皇の勅許は無港で勅許した、という句。「無港」は19「65」年のゴロも兼ねている。


[point]

1.1865年孝明天皇兵庫開港を勅許しないまま条約は勅許した。

[解説]

1.1865(慶応元)年10月、日米修好通商条約を勅許兵庫開港不許可とした。

(1)の四カ国は条約勅許と兵庫開港等を求め、京都朝廷へ圧力をかけるため連合艦隊を大阪湾に進入させ、兵庫(現神戸)沖に停泊した。外圧を直接受けるにおよび、頑迷な攘夷主義者の孝明天皇はようやく条約の勅許を認めた。


(2)兵庫港の開港勅許は、孝明天皇急死の翌1867年5月に明治天皇によってなる。


(3)1865年は幕府の長州再征計画が遅々として進まず、大事件はなかった。


2012法政大学・文経営人間環境

問12 「孝明天皇」について、正しいものを以下のa~dのなかから一つ選べ。

 a 1860年に妹和宮と江戸幕府の将軍徳川家茂の結婚を勅許した。

 b 1865年に江戸幕府が要請した条約勅許を拒絶した。
 c 1866年に結ばれた薩摩藩と長州藩の軍事同盟の密約(薩長同盟)を勅許した。
 d 1868年に兵庫開港を勅許した。」

(答:a ※b×1858年、c×秘密同盟であり薩長は勅許を求めていない、d×勅許したのは明治天皇。孝明天皇は1866年7月に没し、兵庫開港は明治天皇の名で1867年に勅許。)


藩校

2017-07-20 | ベック式!日本史用語集

 

会いにし米公 嵌めり籤 嘉蔵復讐 飽きめい巫女と
会津日新館(にっしんかん1664) 米沢興譲館1697明倫館(めいりんかん)1719)熊本・時習館(じしゅうかん)・1755)(造士館(ぞうしかん)・鹿児島1773)(岡・猷館(しゅうゆうかん)1784)(秋田明徳館1789)(水戸弘道館1841


[ポイント]

1.東日本の主な藩校は、会津日新館米沢興譲館秋田明徳館水戸弘道館

[解説]

1.秋田藩の藩校は明徳館佐竹義和(さたけよしまさ)が1789年に設立した。

2.会津藩の藩校は日新館保科正之が1664年に建てた学問所が始まり。


3.米沢藩の藩校は興譲館。1697年の設立だが衰微していたものを、中興の祖上杉治憲(はるのり)が再興。治憲が招いた折衷学者細井平洲(ほそいへいしゅう)が命名した。


4.水戸藩の藩校は弘道館(こうどうかん)。徳川斉昭(なりあき)が1841年に設立。

〈2016早大・文化構想:「
問12 下線f多くの藩校(藩学)、郷校(郷学)、私塾、そして寺子屋などが誕生したに関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 明倫館は長州藩の藩校(藩学)であり、日新館は会津藩の藩校(藩学)である。

 イ 弘道館は水戸藩の藩校(藩学)であり、修猷館は福岡藩の藩校(藩学)である。
 ウ 閑谷学校は岡山藩の郷校(郷学)であり、大坂の懐徳堂も郷校(郷学)と言える。
 エ 豊後日田の咸宜園は広瀬淡窓の私塾であり、江戸の古義堂は大槻玄沢の私塾である。
 オ 寺子屋は手習塾・手習所などと呼ばれ、女性の師匠もいた。」

(答:エ ※広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かんぎえん)は正しいが、古義堂は京都堀河にあった伊藤仁斎の私塾)〉

〈1995大学入試センター

史料C(問題文はある水戸藩史料)を提出した徳川斉昭は、水戸藩の藩政改革を実施し、水戸学と呼ばれる学問をさかんにした。この時期の水戸学に関する次のア~ウの記述について、その正(〇)誤(×)の組合せとして正しいものを、下の1~6のなかからから一つ選べ。

 ア.水戸学は、尊王論と攘夷論を結び合わせた尊王攘夷論を中心に発展した。

 イ.会沢安(正志斎)や藤田東湖は、水戸学の発展に大きな役割を果たした。
 ウ.徳川斉昭は藩校明倫館を設立し、水戸学の普及につとめた。
 
 1.ア-×、イ-〇、ウ-〇 
 2.ア-〇、イ-〇、ウ-×

 3.ア-×、イ-×、ウ-〇
 4.ア-〇、イ-×、ウ-×

 5.ア-×、イ-〇、ウ-×
 6.ア-〇、イ-×、ウ-〇」


(答:2 ※ウ×明倫館→弘道館の誤り)〉

 

□近世317.藩校(西の4校)の覚え方 ◇B

[ゴロ]次週くまモンと/(はぎ)メリは/御曹司(おんぞうし)のカゴで/福岡周遊


時習館(じしゅうかん)・熊本)(明倫館(めいりんかん))(造士館(ぞうしかん)・鹿児島)(岡・猷館(しゅうゆうかん))


[句意]次週、くまモンと萩の(羊の)メリーさんは土地の御曹司のカゴで福岡県を周遊観光する、というナンセンスの句。「萩の羊のメリーさん」は「くまモン」の4語に合わせて「萩メリ」と略しています。なお詳説日本史(山川出版)では、時習館は熊本のみ掲載されていますが、三河吉田藩など他5藩(ただし小藩)でも藩校名は時習館です。


[ポイント]

1.西日本の主な藩校は、熊本時習館明倫館鹿児島造士館福岡修猷館

[解説]

1.熊本藩細川重賢(しげかた)は、1755(宝暦5)年、熊本に時習館を設立した。他藩の模範となり、ほかに5藩に同名の藩校が生まれた。

2.長州藩の藩校は、1719(享保4)年、明倫館。ほかに7藩に同名の藩校がある。


3.薩摩藩島津重豪(しげひで)は、1773(安永2)年、鹿児島に造士館を設立した。ほかに2藩に同名の藩校がある。


4.福岡藩の藩校は、福岡の修猷館。1784(天明4)年設立の2学問所のうち、東学問稽古所をいう。

 

 

 

〈2016早大・文化構想〉
問12 下線f多くの藩校(藩学)、郷校(郷学)、私塾、そして寺子屋などが誕生したに関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。
 ア 明倫館は長州藩の藩校(藩学)であり、日新館は会津藩の藩校(藩学)である。
 イ 弘道館は水戸藩の藩校(藩学)であり、修猷館は福岡藩の藩校(藩学)である。
 ウ 閑谷学校は岡山藩の郷校(郷学)であり、大坂の懐徳堂も郷校(郷学)と言える。
 エ 豊後日田の咸宜園は広瀬淡窓の私塾であり、江戸の古義堂は大槻玄沢の私塾である。
 オ 寺子屋は手習塾・手習所などと呼ばれ、女性の師匠もいた。」

(答:エ ※古義堂は京都堀河にあった伊藤仁斎の私塾)〉


〈2016関西大・全学部2月8日:「

 江戸時代には、諸藩が藩士の子弟を教育するために藩校を設立した。米沢藩の興譲館や長州藩の(1){ア時習館 イ日新館 ウ明倫館}は有名である。また、庶民が出資して設立した自主的な教育機関には、摂津平野郷の(2){ア懐徳堂 イ含翠堂 ウ古義堂}などがある。」

(答:1ウ、2イ ※含翠堂(がんすいどう)は大坂南部の平野郷にあった郷学で、1717(享保2)年創設)〉


〈2012立教大・文学部:「
 山本覚馬は会津藩の砲術指南の家に生まれ、江戸で砲術・兵学・蘭学を学び、藩校〈 つ 〉に開設された蘭学所の教授となった。京都守護職に任じられた藩主( ヌ )に関連して上洛し、皇居が戦場となった1864年の〈 て 〉では砲兵隊を指揮して勲功を立てた。その後失明し、鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩邸に幽閉されたが、その学識と先見性の故に厚遇された。維新後は京都府庁に出仕し、府政の顧問として開明的な政策を推進した。その後新島と知り合い、その学校創設計画に共鳴して、ともに( リ )英学校の創業・運営にあたった。」


(答:つ日新館、ヌ松平容保、て禁門の変、リ同志社)〉

 

□近世318.熊本・細川重賢(江戸時代中期名君3) ◇C

[ゴロ]くまモン次週に/細か地毛カット


熊本時習館)(細川重賢(ほそかわしげかた))


[句意]くまモンは次週、細くて黒い地毛をカットする、というナンセンスの句。


[ポイント]

1.細川重賢は、藩校時習館を設立した。

[解説]

1.細川重賢(1721~85)は、5男だったが、兄の死で急遽藩主となる。しかし当時の藩財政は困窮の極みにあり、知行の召し上げなどによる藩士の疲弊や綱紀の乱れが著しかった。そこで重賢は、藩校時習館、医学校再春館の創設による人材の育成をはかり、公正な私法や年貢徴収を確立をめざした。また守旧派の反対をおさえて綱紀の粛正にも成功、、見事に藩政改革を成し遂げた。

 

〈2012立教大・全学部

問3 18世紀後半頃からおこった各地での藩政改革では、特産物の生産が奨励された。漆・桑・楮の生産の奨励、絹織物産業の普及をはかるなど、米沢藩の藩政改革を行った人物は誰か。次のa~dから1つ選べ。

 a.上杉治憲 b、佐竹義和

 c.細川重賢 d.山内豊信」

(答:a)




寄進地系荘園

2017-06-16 | ベック式!日本史用語集

肥え可日頃かの子にキッチン・キー貸せ。

後・鹿子木荘(かのこぎのしょう))(系荘園・紀伊桛田荘(かせだのしょう))

[ポイント]
1.寄進地系荘園の代表例は紀伊桛田荘肥後鹿子木荘である。

[解説]
1.寄進地系荘園初期荘園墾田地系荘園)に対する語。国司らの圧迫を免れるため、開発領主らが、その所有地を中央の権門(けんもん)勢家(せいか)に名目上の寄進をして、その荘官となり利権を確保した荘園。不輸(ふゆ)・不入(ふにゅう)の特権を得て、1OC頃より増加。一方公領(こうりょう)では、開発領主が、遙任国司が派遣する目代(もくだい)のもとで、在庁官人(ざいちょうかんじん)として利権を確保した。

2.鹿子木荘(肥後:熊本)は、11C初め、開発領主(かいほつりょうしゅ)沙弥寿妙(しゃみじゅみょう)の孫の代に、「権威を借らんがため」に400石の上納を条件に藤原実政に寄進し領家(りょうけ)と仰(あお)いだ。実政の曽孫願西の代に、半分の200石の上納を条件に、高陽院(かやのいん)(鳥羽天皇皇女)を本家(ほんけ)と仰ぎ、のち御室(おむろ)(仁和寺(にんなじ))に再寄進されたとある。ただし、長らく寄進地系荘園の代表例とされてきたが、原史料は鹿子木荘が成立して200年後に作成されたもので、荘園の支配権をめぐる訴訟のなかで、一方の側の主張を裏付けるために作成されたものという指摘があり、内容に疑義が唱えられている。


3.桛田荘(紀伊:和歌山)は9C初めに開発され、12C後半に後白河院に、ついで神護寺に寄進された。荘の領域を示す絵図面で知られる。

〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)〉
問6 東寺(教王護国寺)が所蔵する束寺百合文書には、束寺が領有した荘園に関する文書が多い。次のうち、東寺百合文書に含まれる文書からわかるのはどれか。1つ選びなさい。

 1 紀伊国阿氏河荘の百姓等が地頭湯浅氏を訴えたこと。
 2 伯香国東郷荘の下地中分。
 3 越後国奥山荘波月条に地頭屋敷や市場があったこと。
 4 紀伊国柿田荘の膀示の位置。
 5 肥後国鹿子木荘の伝領。」

(答:5)〉

〈2015大学入試センター試験:「

問6 下線部fに関して,次の史料に関して述べた文として誤っているものを下の1~4から一つ選べ。
 鹿子木(注1)の事
一、当寺(注2)の相承は、開発領主沙弥(注3)寿妙(じゆみよう)嫡々相伝の次第なり。
一、寿妙の末流高方(注4)の時、権威を借らむが為めに実政卿(注5)を以て領家と号し、年貢四百石を以て割き分ち、高方は庄家領掌進退の預所職となる。
一、実政の末流願西(がんさい)(注6)微力の間、国衙の乱妨を防がず。この故に願西領家の得分二百石を以て、高陽院(かやのいん)内親王(注7)に寄進す。……これ則ち本家の始めなり。『東寺百合文書』
(注1)鹿子木:肥後国(熊本)にあった鹿子木荘。
(注2)当寺:教王護国寺(東寺)のこと。
(注3)沙弥:在俗の僧。
(注4)高方:中原高方。寿妙の孫。
(注5)実政卿:藤原実政(1019~93年)。当時、大宰大弐であった。
(注6)願西:藤原隆通の法名。藤原実政の曾孫。
(注7)高陽院内親王:鳥羽天皇の皇女(?~1148年)

1 開発領主沙弥寿妙の寄進により、藤原実政が領家となった。
2 開発領主沙弥の孫中原高方は、現地を管理する預所となった。
3 実政の曾孫願西は、国衙の干渉を防ぐため、収益の一部を寄進した。
4 実政の曾孫願西の寄進により、高陽院内親王が本家となった。

(答:1)

〈2013大学入試センター試験に桛田荘の絵図を使用した問題が出題(第3問の問3)された〉

〈2012早大・文化構想:「
7 下線部水田開発と灌漑システムの管理は法的にも寺院や貴族や農民個人に委ねられるようになりについて。8世紀前半に三世一身法と墾田永年私財法が施行される。これらの法令によって東大寺などの大寺院が形成した荘園は何と呼ばれるか。2つ選び、マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。」

 ア初期荘園  イ領域型荘園  ウ寄進地系荘園
 エ公家領荘園 オ墾田地系荘園

(答:ア・オ)〉


近松門左衛門

2017-06-05 | ベック式!日本史用語集

遅刻迷信 そう心中。

近松門左衛門)(国姓合戦(こくせんやかっせん)・冥途(めいど)の飛脚(ひきゃく))(心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)・曽根崎心中(そねざきしんじゅう))


[ポイント]

1.近松門左衛門の代表作は、『国姓爺合戦』・『冥途の飛脚』・『心中天網島』・『心中天網島』の4作。

[解説]

1.近松門左衛門(1653~1724)は、人形浄瑠璃で語りの竹本義太夫(1651~1714)と組み、数々の名作を生む。義理と人情の板挟みに苦悩し、結局死をもってしか誠を示せない封建社会に生きる人間の姿を描いて、多くの町人たちの共感を呼ぶ。代表作は『曽根崎心中』『冥土の飛脚』『心中天網島』『国姓爺合戦』など。

2.町人を題材にしたもの(江戸時代の現代劇)を「世話物」という。これの代表作は『曽根崎心中』(遊女お初と醤油屋の手代徳兵衛の心中)・『心中天網島』(遊女小春と紙屋治兵衛の心中)・『冥途の飛脚』(遊女梅川と飛脚屋忠兵衛の心中)。いずれも実際にあったとされる事件に題材をとっている。


3.武家社会に題材をとった作品を「時代物」という。武家社会を描くときは、当該武家を憚って(はばかって)、過去の時代・別の姓名に変えて上演したので、必然的に時代物となる。(例えば赤穂事件をあつかった竹田出雲作『仮名手本忠臣蔵』では時代は室町時代、浅野家→塩冶家、大石良雄→大星由良助、吉良義央→高師直という具合)。

4.近松の時代物の代表作は『国姓爺合戦』(中国人が父、母が日本人で台湾の英雄である鄭成功(ていせいこう)が、台湾を拠点に明朝の復興運動を行った史実を題材に脚色した物語)。


2016上智大・神外(英)総人(教・心):「

問1 文章の下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。誤っている語句をa~dの中から1つ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、語群から1つ選びなさい。

D 京都、都万太夫座のa浄瑠璃作者。b竹本義太夫のために作品を書いた。作品は、c.歴史物と世話物に大別され、義理人情の葛藤の描写に特色がある。最初の世話物d『曽根崎心中』は徳兵衛と遊女お初の心中話である。

 〔語群〕
 1歌舞伎 2青表紙 3市川団十郎
 4坂田藤十郎 5時代 6流行
 7『心中天網島』 8『冥途の飛脚』

(答:c5 ※Dは近松門左衛門)〉

2016慶大・商AB方式:「
 また、歌舞伎では鶴屋南北の『東海道四谷怪談』や河竹黙阿弥の作品など、(カ).町人の日常生活を写実的にとらえた作品が人気をあつめた。
問6 下線部(カ)で述べられている歌舞伎の脚本を何というか。漢字4文字で書きなさい。

(答:生世話物 ※文化文政期以降、とくに写実性のつよい生粋(きっすい)の世話物を生世話物(きぜわもの)(真世話物)と称した)〉


2014早大・教育:「

問9 下線部e文政の時代に活動していた文人をすべて選べ。

 ア柳亭種彦 イ曲亭馬琴

 ウ近松門左衛門
 エ三浦梅園 オ松尾芭蕉
 カ富永仲基 キ井原西鶴

(答:ア・イ ※ウ近松・オ芭蕉・キ西鶴は元禄期(17世紀後半)、エ梅園は明和・天明期(18世紀後半)、カ仲基は享保・元文期(18世紀前半))〉


2013早大・政経:「

 下線部5(文昭院〈=6代家宣〉)の頃に成立した文学、工芸作品はどれか。

 a鈴木春信「弾琴美人」

 b鈴木牧之「北越雪譜」
 c海北友雪「一の谷合戦図屏風」
 d狩野探幽「大徳寺方丈襖絵」
 e近松門左衛門「冥途の飛脚」

(答:e)〉

 

●江戸時代(化政文化)

 1764(明和元(宝暦14)年)〈鈴木春信、錦絵を始める〉

Suzuki Harunobu produces full-color woodcuts (nishiki-e).

否むよ美人 春のブス。

       1764年 『弾琴美人』      鈴木晴信 

 

田沼時代の1764年、江戸の浮世絵師鈴木春信は多色刷の錦絵を創始。『弾琴美人』などの情緒に富む美人画が好評を博した。美人画は明和期の春信の後、寛政期の喜多川歌麿のとき黄金時代を迎える。



2013中大・法:「

問7 下線部6人形浄瑠璃や歌舞伎が庶民の娯楽として発展したに関連する説明文として正しいものにはイ、誤っているものにはロをマークしなさい。

 a かぶき踊りは芳沢あやめがはじめたものである。
 b 竹本義太夫、辰松八郎兵衛らがあらわれ、人形浄瑠璃の人気をもりあげた。
 c 近松門左衛門は世話物のほかに『国性爺合戦』などの武家物とよばれる脚本を書いた。

(答:aロ※芳沢あやめ→出雲阿国、bイ、cロ※武家物→時代物)〉


唐で客死した渡航者

2017-06-04 | ベック式!日本史用語集

精神高く清い仲。

遣唐使で客・阿倍仲麻呂)(井真成(せいしんせい)・向玄理・藤原清河(ふじわらのきよかわ))


[point]

1.唐で客死した著名人は阿倍仲麻呂高向玄理藤原清河井真成の4人である。

[解説]
1.高向玄理は、第1回遣隋使小野妹子一行の1人。南淵請安らともに帰国し国博士となり活躍後、再入唐したが客死。


2.阿倍仲麻呂は唐の大学に学び科挙に合格、玄宗皇帝に仕え、詩人王維李白と交友したが、客死。


3.仲麻呂は「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という望郷の歌を詠んでいる。


4.藤原清河は北家の祖房前の子で、鑑真を伴い帰国をはかり、鑑真は無事日本に到着したが、清河と阿倍仲麻呂の乗る船は難破し、唐で客死した。


5.井真成は仲麻呂と同便で渡航、玄宗皇帝に仕え客死した人物の中国名。その墓誌は国号表記「日本」の最古の例。

2014同志社大・文:「
〔Ⅰ〕次の(1)(2)の文章を読み下線部または空欄に対応する下記の設問に笞えよ。                 

(1)618年に、隋にかわって中国を統一した唐は、アジアに大帝国をきずき、周辺諸地域に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんとなり、都の長安は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。東アジアの諸国も唐と通交するようになり、日本からはa)遣唐使が派遣された。大使をはじめとする遣唐使には、留学生・学問僧らも加わり、ア)多いときは約500人もの人々が渡海した。航路は難波津から筑紫の大津浦(博多湾)を経た後、壱岐・対馬から朝鮮半島の西沿岸を北上し、山東半島に至る「北路」と、五島列島付近から一気に東シナ海を横断して揚子江岸に向かう「南路」および、九州南端から種子島・屋久島・奄美大島などを経由した後、東シナ海を横断して揚子江口を目ざす「南島路」の、イ)ルートがとられた、b)しかし、造船や航海の技術はまだ末熟であったたため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した( c )や吉備真備は、のち聖武天皇に重用され政界でも活躍した。

【設問ア】使節が渡航に用いた、奈良時代の基本的な船の数を、次のうちから1つ選べ。

 1.2隻 2.4隻
 3.6隻 4.8隻

【設問イ】これらのルートのうち、派遺の初期に主にとられたルートを、次のうちから1つ選べ。

 1.北路 2.南路 3.南島路

【設問b】717年に留学生として入唐したある人物は、王維や李白らと交流し、鑑真の渡日に尽力し自らも帰国を試みるが失敗に終わっている、この、玄宗皇帝に重用され高官にのぼり、唐で没した人物名を漢字で記せ。

【設問c】空欄( c )は、法相宗の僧で、橘諸兄の政権に参画し、僧正に任ぜられ、護国仏教の確立に努めた。この人物名を漢字で記せ。」

(答:ア2 ※死の船と忌避されるようになった。、イ1 ※新羅との関係が悪化し、南路に。、b阿倍仲麻呂、c玄昉)

2011文教大・全学部:「
問6 下線部(d)吉備真備・玄昉の人物について述べたA~Cの文について、その正誤の組合せとして正しいものはどれか。次の中から一つ選べ。

 A 吉備真備は大和の有力豪族出身で、蔭位の制によって位階を得て中央政界に進出した。
 B 玄昉は称徳天皇の薨去(こうきよ)とともに失脚し、下野薬師寺別当に左遷された。
 C 吉備真備と玄昉は、ともに聖武朝下の橘諸兄政権に参画した。

 1正正誤 2正誤正
 3誤正誤 4誤誤正」

(答:4 ※A蔭位の制により出世したのではない。蔭位忌避。B玄昉は道鏡の誤り)〉


遣唐使

2017-06-02 | ベック式!日本史用語集

仲間のゲイボーイと/初トウキビ

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ))(玄昉(げんぼう))(の奈良時代遣使・吉備真備(きびのまきび))


[ポイント]

1.奈良時代初の入唐者は、吉備真備玄(げんぼう)・阿倍仲麻呂の3人である。

[解説]

1.吉備真備(693?~775)は、珍しく蔭位(おんい)によらずに大学を経て役人となり、公卿まで昇進。学業に優れ、717~735年唐に留学、帰朝後は新知識をいかんなく発揮して昇進を重ね、玄(げんぼう)と共に橘諸兄の政権の顧問格となる。藤原仲麻呂により九州の国司に左遷され一時不遇だった。しかし唐末の混乱(安史(あんし)の乱など)という国際情勢緊迫下に真備の軍事および国際知識が必要とされ中央政界に復帰。逆に勢威を失った藤原仲麻呂の乱を平定し、つぎの道鏡政権下でも右大臣に出世し、さらにその失脚後の光仁天皇時代も引き続き右大臣を務め死去。後の菅原道真と並ぶ学者政治家。

2.玄(?~746)、は法相宗の僧で、717~735年唐に留学し帰朝のとき経論(きょうろん)5000巻をもたらした。これらの経論は次々と書写されて流布、日本の仏教信仰確立に多大な貢献をした。玄は、唐で呪術的能力も学んでおり、聖武天皇・皇后光明子をはじめ皇室関係者の病気平癒に活躍し、その威光により仏教界で絶大な権力をふるった。また橘諸兄政権で大仏造営など護国仏教の確立に努めた。藤原仲麻呂により筑紫観世音寺に左遷され、同地で死去。

3.阿倍仲麻呂(698?~770?)は、留学生として717年に入唐。大学に学び科挙に合格(スゴイ!)、任官し要職を歴任。帰国を願ったが許されず、ようやく許されて753年遣唐使一行と帰途についたが、再び長安に戻り玄宗皇帝に仕え、ふたたび要職を歴任し、帰国を果たせず死去。その学識と文才は唐でも知られ、詩人王維李白と交友(これもスゴイ!)。望郷の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という歌はよく知られている。

〈2014同志社大・文:「遣唐使たちは、唐から先進的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した( c )や吉備真備は、のち聖武天皇に重用され政界でも活躍した。」
(答:玄昉)〉

〈2013明大・商:「しかし、天然痘の流行で四子が相次いで病死すると勢力は一時衰え、政権は皇族出身の[ 3 ](684~757)や唐に留学経験のある玄昉、吉備真備らの主導するところとなった。玄昉と吉備真備は、[ 3 ]に重用されて活躍したが、d【1)藤原百川 2)藤原武智麻呂 3)藤原緒嗣 4)藤原冬嗣 5)藤原広嗣】は、彼らを除くことを名目に、740年、乱を起したが、敗死した。」
(答:3橘諸兄、d(5))


『浮世風呂』式亭三馬

2017-06-01 | ベック式!日本史用語集

いや奥の風呂仕切ってさ。

風呂(うきよぶろ)・(うきよどこ))(式亭三馬(しきていさんば))(滑稽本(こっけいぼん))


[句意]浮き浮き気分で風呂の床を仕切って滑稽なサンバを踊った、という句。広く大きな銭湯を想定して下さい。ただし『浮世床』の「床」は「床(ゆか)」ではなく「髪結床(かみゆいどこ)」(今で言う床屋さん)なので念のため。

[ポイント]
1.式亭三馬の代表作は、滑稽本の『浮世風呂』『浮世床』。

[解説]

1.滑稽本は、上方から始まり、江戸で流行し、町人の日常生活に題材をとった、滑稽さや笑いをネタに、庶民の生活をいきいきと描いた小説。寛政の改革以後文化期を中心に天保までつづく。多くは対話文をとる。代表作家は十返舎一九(1765~1831)と式亭三馬(1776~1822)である。

2.式亭三馬は、浅草の生まれ。父は版木師。8歳で戯作本などの版元(はんもと)に奉公し、やがてその流れで黄表紙、合巻を書く戯作者となる。滑稽本で本領を発揮し、代表作は『浮世風呂』(1809)、『浮世床』(1813)。戯作のかたわら出版屋、古本屋を兼業したのち創業した売薬の製造販売業が当たるなど、波乱に富んだ生活だった。また肉筆浮世絵もこなすなど多才でもあった。


3.『浮世風呂』『浮世床』は、庶民の社交場である湯屋(ゆや)(銭湯)、および髪結床(かみゆいどこ)に集う人びとの威勢の良い江戸弁の会話から庶民の生態を生き生きと描写している。


4.なお三馬と並ぶ十返舎一九の代表作に、弥次郎兵衛(やじろべえ)、喜多八(きたはち)による珍道中を描いた『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』(1802)がある。

2016関西大・全学部2/8:「
D 手紙の形式でさまざまな語彙や知識を学ぶ往来物は、江戸時代に広く教科書として使用された。また、戯作者のなかには新しい教科書を作る動きもみられ、駿河生まれの戯作者で、滑稽本『東海道中膝栗毛』などを著した[ア曲亭馬琴 イ十返舎一九 ウ式亭三馬]は、1815年から10年余りの間に約60種類もの教材を作ったといわれる。」

(答:イ)〉


2015早大・社会科学:「

問2 下線部(2)文学作品に関連して、著者と作品の組み合わせとして、不適切なものはどれか。1つ選べ。

 イ 式亭三馬―『浮世風呂』

 ロ 十返舎一九―『東海道中膝栗毛』
 ハ 山東京伝―『江戸生艶気樺焼』
 ニ 曲亭馬琴―『雨月物語』
 ホ 為永春水―『春色梅児誉美』」

(答:問2ニ×『雨月物語』は上田秋成)


神道

2017-05-29 | ベック式!日本史用語集



伊勢わた唯よ 垂やふひ


会家行(わたらいいえゆき)・勢神道)(田兼倶(かねとも)・一(ゆいいつ)神道)(崎闇斎・加神道)(古神道・平田篤胤

[ポイント]
1.神道は、両部神道→伊勢神道度会家行)→唯一神道吉田兼倶)→垂加神道山崎闇斎)→復古神道平田篤胤)と発展した。

[解説]     

1.両部神道は、平安時代にはじまる、インドの仏と日本の神は本来同一であるとする神仏習合説による神道。真言密教の両界(両部)曼荼羅により説明するところからこの名がある。

2.鎌倉仏教の影響を受けた独自の神道理論が、伊勢外宮の神官度会家行(生没年不詳)によって形成され、伊勢神道(度会神道)とよばれた。度会家行は『類聚神祇本源』を著し、従来の本地垂迹説と反対の立場に立ち、神を主として仏を従とする神本仏迹説(反本地垂迹説)をとなえた。

3.また神道思想による『日本書紀』などの研究も進み、吉田兼倶(1435~1511)は神本仏迹説にもとづき、神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする唯一神道を完成した。

4.山崎闇斎(1618~82)は、京都の生まれで鍼医の子。幼くして比叡山の小僧となり、25歳の時還俗して儒者となる。京都に塾を開き、多くの門人に教え崎門(きもん)学派を形成する。48歳のとき会津の保科正之に招かれ藩政への助言者として活躍する。このころから次第に神道に傾倒し、神道を朱子学で解釈した垂加神道を説く。垂加闇斎の号。これまでの伊勢神道・唯一神道や吉川惟足(これたり)にはじまる吉川神道などを土台にしたもので、道徳性がきわめて強い。神の道と天皇の徳が一体であることを説くことから、闇斎一門の崎門学(きもんがく)は、尊王論の根拠ともなった。

5.平田篤胤(1776~1843)は、『古道大意』で尊王思想・排仏・排儒の国粋主義にたつ復古神道を確立。尊王攘夷運動に影響。

〈2016早大・商

問E  江戸時代の下線部ホ.吉田神道と吉田家に関する説明で、正しいものはどれか。

 1.吉田神道は両部神道として大成された。

 2.諸社禰宜神主法度は、吉田家による神職の組織化を促進した。
 3.吉田神道は本地垂迹説を唱えた。
 4.吉田家を神職の本所と定めた諸社禰宜神主法度は、朝廷から発布された。
 5.吉田神道は仏教や儒教とは習合しなかった。

(答:2 ※1×両部神道→唯一神道、3×反本地垂迹説、4江戸幕府)

〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)

G 南学派の儒学者で神道家。a京都の鍼医の息子。土佐の人で南学の実質上の祖といわれるb谷時中に学び。江戸で保科正之に献策する。神道と儒教を融合したc垂加神道を創始した。d『群書類従』と題された読書記録が残る。

問1 Gの下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。A~Lそれぞれについて、誤っている語句をa~dの中から1つ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、語群から1つ選びなさい。


〔語群〕

1大阪 2江戸  3本居宣長 4新井白石
5吉川 6度会 7『文会筆録』 8『集義和書』

(答:Gd→7  ※Gは山崎闇斎〈斎〉に『』) 


  〈2015関西大・済文社会など

(B)こうした仏教界の動きに刺激されて、鎌倉時代末期には、度会家行が反本地垂迹説に基づく( 6 )神道を唱えた。さらに、室町時代には( 7 )が神祗信仰と儒教・仏教を統合した神道を創唱して、全国の神職を組織化していった。

 江戸幕府は封建的支配のー環として仏教を利用したため、神道の保護には消極的であった。 17世紀後半、谷時中門下の儒者であった山崎闇斎は伊勢神宮への参拝を契機に神道に傾倒し、朱子学と神道の合一を求めて( 8 )神道を起こした。これに対して、国学者の平田篤胤は、賀茂真淵や本居宣長らによって唱えられた思想を、( 9 )神道として大成させた。


 19世紀に幕府体制が握らいで社会不安が高まると、既成の仏教や神道とは別に、生神ともいえる強烈な個性を持った教祖による新しい宗教が唱えられるようになった。岡山の黒住宗忠による黒住教や、同じく岡山の( 10 )による金光教など、さまざまな民衆宗教が誕生した。


〔語群〕

 ア栄西   イ伊勢   ウ開目抄
 エ教行信証 オ東常縁  カ吉川
 キ垂加   ク国家   ケ一条兼良
 コ極楽寺  サ尊王   シ立正安国論
 ス井上正鉄 セ正法眼蔵 ソ円覚寺
 タ摧邪輪  チ中山みき ツ川手文治郎
 テ復古   ト顕如   ナ日親
 ニ両部   ヌ吉田兼倶 ネ山王
 ノ一遍   ハ称名寺  ヒ選択本願念仏集
 フ唯一   ヘ明恵   ホ蓮如」

(答:6イ、7ヌ、8キ、9テ、10ツ ※今後代わって天中や。〉


〈2014明大・全学部前期

 東アジアの17世紀から19世紀において、武家政権をトップにもち、世襲の身分制度に依拠した江戸時代の日本社会では、儒教はその本質から離れ幕藩体制の都合にあわせ、ゆがんだ形で解釈された。たとえば、歴史書『本朝通鑑』を編纂した[ 1 ]は、幕府内では僧侶として位置づけられていたし、会津藩主保科正之の信任を得た[ 2 ]は、吉川惟足から神道を学び、朱子学と融合させた垂加神道を説き、江戸時代を通じて影響力をもった。しかし、中国や朝鮮ではこのようなことはおよそ考えられないのである。(中略)

 19世紀に入ると、不安定になる社会への危機意識から、日本の神代の時代を理想とする復古的な国学が登場し、[ 5 ]が復古神道を盛んにし、水戸藩では国学を政治論までたかめ、国体論を形成し、尊王懐夷運動に影響を与えていったのである。」

(答:1林羅山、2山崎闇斎、5平田篤胤)〉


〈2013慶大・文

 平田篤胤は、( N )と呼ばれる神道説を大成した。」

(答:N復古神道)

 

●鎌倉時代(元応2

 1320年〈度会家行、『類聚神祇本源』を執筆〉★★

Kitabatake Chikafusa writes “Jinnō Shōtōki (Chronicles of the In1320,“Ruijyujingihongen” was edited to theorize Shinto by Ieyuki WATARAI.

秘密終わったら 類似品。

1320年  度会家行『類聚神祇本源』 

              伊勢神道   

1320年、度会家行は神道思想を集大成した『類聚神祇本源』を著し、神本仏迹説(反本地垂迹説)の立場から、伊勢神道(度会神道)論を創始した。

 

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柳亭種彦

2017-05-28 | ベック式!日本史用語集

いや憎まれて豪華だね。
1829年 偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ))(合巻(ごうかん)・種彦(りゅうていたねひこ))


[句意]日系二世が村へ来て合コンをやったね、という句。「二世」はその他芸能人二世でも政治家二世でもお好みで。「柳」は(やなぎ)の読みを使っています。


[ポイント]

1.天保期の柳亭種彦の主著は、合巻の『偐紫田舎源氏』。

[解説]

1.柳亭種彦(1783~1842)は旗本で、長編合巻偐紫田舎源氏』で知られる戯作者。1842(天保13)年60歳のとき、水野忠邦天保の改革で弾圧され、それを気に病み間もなく没した。自殺説もある。

2.『偐紫田舎源氏』は『源氏物語』(紫式部)を題材に時代を室町時代にうつして描いた作品だが、「大奥の内情を風刺している」として処罰された。

2015早大・文

問3 下線a寛政の改革によって、この版元や戯作者たちが処罰や弾圧を受けたについて。処罰や弾圧を受けた人物は誰か。2つ選べ。

 ア柳亭種彦 イ恋川春町
 ウ為永春水 エ曲亭馬琴
 オ山東京伝


(答:イ・オ ※ア柳亭種彦・ウ為永春水は天保の改革で弾圧された)〉


2015早大・社会科学:「

問2 下線部2文学作品に関連して、著者と作品の組み合わせとして、不適切なものはどれか。1つ選べ。

 イ 式亭三馬 『浮世風呂』

 ロ 十返舎一九『東海道中膝栗毛』
 ハ 山東京伝 『江戸生艶気樺焼』
 ニ 曲亭馬琴 『雨月物語』
 ホ 為永春水 『春色梅児誉美』」

(答:問2ニ× ※『雨月物語』は上田秋成)


2014立大・現代心理・コミュ福祉・経営:「

問13.これ(寛政の改革)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.恋川春町が著した『偐紫田舎源氏』が刊行され、人気を博した

 b.須原屋茂兵衛が版元となって、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵が出された
 c.地方の有名寺社が江戸で行った居開帳には、露店などが建ち並んだ
 d.都市の民衆は、寄席で演じられる落語や講談などを楽しんだ。

(答:d〇江戸を中心に、都市文化が開花した。芝居小屋や見世物小屋、講談・落語・曲芸などを演じる寄席があり、銭湯や髪結床も庶民の交流と娯楽の場となった ※a×『偐紫田舎源氏』は柳亭種彦の作、b×須原屋茂兵衛は武鑑や地図が専門で浮世絵売買は蔦屋重三郎、c×居開帳は自分の寺社でおこなうもので地方の寺社が出張して行なう開帳は出開帳)〉

2012立大・経済法異文化コミュ:「
 大御所徳川家斉が死去すると、12代将軍徳川家慶の信任を受けた〈 う 〉が天保の改革と呼ばれる一連の政治改革を進めた。〈 う 〉は、綱紀粛正・経費節減を宣言し、( ハ )を著した為永春水らを処罰した。

 a江戸生艶気樺焼 b浮世風呂

 c春色梅児誉美  d偐紫田舎源氏」

(答:う水野忠邦、ハc)〉


2012同志社・神商心理

問オ.『源氏物語』を借り、時代を異にして江戸幕府大奥の実情を描写したともいわれる『偐紫田舎源氏』の著者名を選べ。

 1.柳亭種彦 2.上田秋成

 3.為永春水 4.恋川春町」

(答:1)

 

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井原西鶴

2017-05-26 | ベック式!日本史用語集

西鶴好色武道胸ええ。

(井原西鶴)(好色一代男・好色一代女・道伝記(ぶどうでんらいき) 世間算用(せけんむなざんよう)・日本永代蔵(にほんえいたいぐら))


[ポイント]
1.井原西鶴の代表作は、『好色一代男』『好色一代女』『武道伝来記』『世間胸算用』『日本永代蔵』など。

[解説]
1.井原西鶴(1642~93)は大坂の町人で、はじめ西山宗因(1605~82)に学んで談林俳諧で注目を集め、やがて浮世草子の小説に転じ、現実の世相や風俗を背景に、人びとが愛欲や金銭に執着しながら、みずからの才覚で生き抜く姿を描き、文学に新しい世界をひらいた。谷崎潤一郎をはじめ、明治以降の近現代作家に大きな影響を与えた。

2.代表作品には『好色一代男』(1682)『好色一代女』(1686)などの好色物や、『武道伝来記』などの武家物、『日本永代蔵』(1688)『世間胸算用』(1692)などの町人物がある。

2016明大・情報:「
問1 下線部ア17世紀後半の時期の説明として、もっとも正しいものを、つぎの1~4のうちから1つ選べ。

 1.幕府は、糸割符制度を設けて、貿易統制を始めた

 2.上方を拠点とする井原西鶴が『好色一代男』を刊行した
 3.角倉了以は西廻り航路を整備し、北前船が就航しはじめた
 4.江戸の山東京伝が『仕懸文庫』を著した」

(答:2 ※1×糸割符制度(1604)、3×角倉了以→河村瑞賢、4×山東京伝(1761~1816))〉


2016上智大・神外(英)総人(教・心)

問1 文章の下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。誤っている語句をa~dの中から1つ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、1つ選びなさい。

B 浮世草子の作者で談林派のa俳人。大坂の人。仮名草子を発展させて浮世草子を創作。浮世草子は、b.現世肯定的教訓を主とするc仮名草子とことなり、d享楽的現世を描いた風俗小説である。その町人生活の写実的な描写は、のちの文学に大きな影響をあたえた。


〔語群〕

 1小説家 2朱子学者 3現世否定的
 4来世肯定的 5枕草子 6御伽草子
 7禁欲的 8節制的」

(答:b3 ※Bは井原西鶴)〉


2015立命館・全学部2/3:「

問n 下線部(6)1697年、宮崎安貞によって初めての体系的農書といえる『農業全書』が刊行されたに関連して、同じころの学問・文化の動向を説明した文章として、適当でないものを下から一つ選べ。

 あ 井原西鶴の『世間胸算用』が刊行された。

 い 林信篤が大学頭となった。
 う 西川如見が『華夷通商考』を刊行した。
 え 塙保己一が和学講談所を設立した。」

(答:え×和学講談所は1793年、※あ〇『世間胸算用』1692年刊、い〇大学頭就任は1690年※「微禄を信篤大学に。」、う〇『華夷通商考』1695年刊)〉

 

●江戸時代(寛政5年)

 〈塙保己一、和学講談所を設立し、『群書類従』を編纂〉

Hanawa Hokiichi devotes his life to the editing “Gunshoruijyu”.

人泣くさ我が 鼻(はな)はグショ。

 1793年      和学講談所 塙保己一 『群書類従』  

 

武蔵に生まれ7歳で失明した塙保己一は江戸で賀茂真淵の門に入り、和漢の学に通じた。1793年に和学講談所という学問所を創立し、ここで古代から江戸初期に至る国書を25項に分類、合冊して『群書類従』を編纂した。

 

ヘレン・ケラーは幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と両親より教育されていて、来日した際、記念館を訪れている。

 

 

●江戸時代(元禄8年)

 1695〈西川如見、『華夷通商考』を刊行〉  

Joken NISHIKAWA from Nagasaki wrote "Kaitsushoko" (Considerations on commerce with foreign countries) which described overseas circumstances he learned in Nagasaki from the viewpoint of trade relations.

広く御助言 開通後。

       1695年  西川如見  『華夷通商考』

 

1695、江戸中期の天文学者西川如見は長崎で見聞した海外事情を通商関係の観点から記述した日本で初めての世界地誌、『華夷通商考』を著した。

 

 


2014早大・教育

問9 下線部e文政の時代に活動していた文人をすべて選べ。

 ア柳亭種彦 イ曲亭馬琴
 ウ近松門左衛門
 エ三浦梅園 オ松尾芭蕉 
 カ富永仲基 キ井原西鶴」


(答:ア・イ ※ウ近松・オ芭蕉・キ西鶴は元禄期(17世紀後半)、エ.梅園は明和・天明期(18世紀後半)、カ仲基は享保・元文期(18世紀前半)〉


2013同志社大学・文経済:「

【設問f】下線部f井原西鶴について、この人物の作品を次のうちから1つ選べ。

 1『椿説弓張月』 2『冥途の飛脚』

 3『武道伝来記』 4『浮世床』」

(答:3)


2012立大・経済法異文化コミュ

問1.この時期(17世紀後半)の出来事でないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.井原西鶴が『日本永代蔵』を著した

 b.河村瑞賢が東廻り海運・西廻り海運を整備した
 c.角倉了以や茶屋四郎次郎らの初期豪商が活躍した
 d.宮崎安貞が『農業全書』を著した」

(答:c×初期豪商は17世紀初め)〉


2011近畿大・法済営:「

問4 下線部(a)の1657年に江戸で起こった大火についての文として最も適当なものはどれか。次のうち一つを選べ。

 1 大岡忠相が組織させた町火消が消火にあたった。

 2 火災で家財を失った町人を救済するために棄捐令が出された。
 3 井原西鶴の歌舞伎にも取り上げられた。
 4 江戸城の天守閣も焼け落ち、以後再建されなかった。」

(答:4 ※1×明暦の大火は4代家綱の代で大岡忠相は8代吉宗の代、2×棄捐令は寛政の改革時の旗本御家人救済令、3×井原西鶴の歌舞伎台本は現存しないので「最も適当」は4)〉


清和源氏の系譜

2017-05-17 | ベック式!日本史用語集

 

経満寄りの 寄りよ良い よしち為義 良しとより。

経基 満仲 頼信 頼義 義家 義親 為義 義朝 頼朝


[ポイント]

1.清和源氏の主な棟梁は、経基1→満仲2→頼信3→頼義4→義家5→義親 為義 義朝 頼朝9とつづいた。

[解説]

1.平安時代の皇室は皇族に源姓を与えて臣籍に降下させ、皇族増加を抑え財政の窮迫を防いだ。清和源氏清和天皇から出た源氏。子(親王)で賜姓したのは5人。さらに孫たちもすべて源姓を賜姓しているが、貞純親王の子経基の系統がもっとも栄えた。

2.源経基(生没年不詳)は、清和天皇の孫で貞純親王の子。追捕使小野好古の副官として藤原純友の乱を鎮圧する。


3.源満仲(912?~997)は、藤原北家と結びつく安和の変での密告を機に、畿内に地盤を築く。


4.源頼信(968~1048)は、平忠常の乱の武功で東国進出をとげる。


5.源頼義(988~1075)は、頼信の子で前九年の役で活躍し、東国武士の棟梁としての地位を確立。


6.源義家(1039~1106)は、前九年の役で父に従軍、後三年の役(豪族清原氏の内紛)で活躍。

〈2016慶大・商AB方式:「
 朱雀天皇の時代、桓武天皇の子孫である平将門や、藤原北家の出である[ 13 ]が承平・天慶の乱を起こした。また1019年には刀伊の入寇があり、[ 14 ]らがこれを平定した。承平・天慶の乱に関連して登場するのが、後の武家社会の中心的存在となる清和源氏の[ 15 ]である。その子、[ 16 ]は安和の変にかかわり、藤原摂関家との関係を深くした。1028年に起きた平忠常の乱では、[ 17 ]がこれを平定し、源氏の東国進出の足がかりを築いた。その後奥羽地方を舞台に、源頼義・義家父子は前九年合戦で出羽の清原武則とともに陸奥の安倍氏を討ち、さらに、源義家は清原氏の内紛に介人する形で後三年合戦を[ 18 ]とともに戦って、奥羽地方は[ 18 ]の支配するところとなる。源義家にとっては思惑違いの結果に終わったが、それでも源氏の名声を世に広めることにはなって、後世に大きな影響を及ぼす。しかし源義家の後は、その子、[ 19 ]の乱、および一族の内紛もあって源氏の勢力は停滞を余儀なくされる。」

(答:13藤原純友、14藤原隆家、15源経基、16源満仲、17源頼信、18藤原清衡、19源義親 ※原問には選択肢が65語あり)〉

〈2016立命館大・全学部2月3日:「
問題a 下線部1の人物源満仲の子が平定した、関東地方で生じた反乱を何というか。」

(答:平忠常の乱)〉

〈2012中大・法:「
 清和源氏は、清和天皇の孫とされる経基王が源の姓を受け、武蔵介となったのに始まる。清和源氏は畿内に本拠地を構えつつ、中級貴族として活躍していった。源経基の子である源満仲は2安和の変の際に陰謀事件に加わるなどして藤原氏との関係を深めていった。源満仲は藤原兼家に、満仲の子である源頼光・頼信兄弟は藤原道長に仕え、諸国の受領を歴任した。

 1028(長元元)年に上総国で[ 2 ]の乱か発生すると、源頼信は房総半島に広がったこの乱を平定した。これにより関東の平氏は衰退し、源氏は東国進出への足がかりを得ることとなった。 1051 (永承6)年に安倍頼時が反乱を起こした際には、源頼信の子である源頼義が、子の義家とともに束国の武士を率いてこれと戦った。頼義・義家父子は、安倍頼時が戦死した後も、その子である安倍貞任らの激しい抵抗を受けたため、出羽国の清原氏の助けを得て3.この反乱を平定した。

 安倍氏滅亡後、奥州で勢力をふるったのは清原氏であった。しかし、清原氏一族の中で紛争が発生したため、源義家は清原氏の一族であった清原(藤原)清衡を助けて4.この紛争を制した。以後、奥州は藤原氏が三代にわたって支配し、北方との交易や金などの産出物による富を背景にして5.京の仏教文化の移入に努め、繁栄を誇った。

問1 文中の空欄[ 2 ]に入るもっとも適切な人名を漢字で答えなさい。

問3 下線部2の安和の変は、村上天皇の死後、左大臣源高明が左遷された事件であるが、源高明は誰の擁立を企てたとして左遷されたのか。適切な人名を漢字で答えなさい。

問4 下線部3に関する説明文として正しいものにはイ、誤っているものにはロをマークしなさい。

 a これは朝廷の許可なしに行われた私戦とみなされたため、反乱を平定した源氏に対する恩賞は出されなかった。
 b 『陸奥話記』は、この経過を記した軍記物語である。
 c この反乱の平定後、陸奥国の備えを固めるため、源頼義は陸奥守に任じられた。

問5 下線部4の紛争を描いたもので、源義家が雁の列の乱れから敵の伏兵を知りこれを攻めている場面が有名な美術品を何というか。漢字で答えなさい。

問6 下線部5に関する説明文として正しいものにはイ、誤っているものにはロをマークしなさい。

 a 院政期に、京では六勝寺と総称される大寺院が造営された。
 b 京の仏教文化は地方にも広がりを見せたが、寺院に所属しない聖や上人による布教活動に負うところが大きかった。
 c 藤原清衡が建立した中尊寺金色堂には、藤原三代の遺体が安置されている。」

(答:問1平忠常、問3.為平親王、※「かあき」は「めひ」を擁立。問4aロ・bイ・cロ、問5後三年合戦絵巻、問6aイ・bイ・cイ)〉


●血族

2017-05-16 | ベック式!日本史用語集

足利尊氏ー足利基氏(初代鎌倉公方)…足利持氏―足利成氏(1454年 享徳の乱)


安倍頼時(前九年の役で敗れいた蝦夷)…

                                 安倍晋三(69代首相 )

                   岸信介(56代首相 58代首相の佐藤栄作は弟)…

阿部比羅夫(蝦夷を服属させた将軍)ー阿部仲麻呂(奈良時代の遣唐留学生) 

尼子経久ー

一条兼良-尋尊

伊東義祐(日向の領主:母方の祖父)ー伊東マンショ(天正遣欧使節)

 

上杉憲実―上杉憲忠(1454年 享徳の乱)


大内義興―大内義隆(1551年 大寧寺の変で陶に滅ぼされる)

 

王頎―王弥(王頎の孫 石勒と対立して殺された)

大久保忠世-大久保忠隣(1613年改易)

大久保彦左衛門(忠世の弟)

織田信行ー津田信澄(本能寺の変に際して光秀の娘婿であったことが災いし、信孝に殺害される(28))

桂広澄(1524年 相合元綱擁立反乱の責任を負って自害)ー桂元澄

カール4世(1356年:金印勅書)ージギスムント(カール4世の次男:1414年コンスタンツ公会議)

清原武貞ー清原真衡(1083年、後三年の役)

近肖古王(346年即位 仲哀)ー近仇首王

公孫度ー公孫康(204年:帯方郡設置)ー公孫淵(237年燕王を称する)

司馬懿(仲達)ー司馬師

         -司馬昭ー司馬炎(265年 晋を建国)

島津貴久島津義久(島津貴久の長男)

      ー島津義弘(島津貴久の次男)ー島津家久(1609年に琉球侵攻

       ー島津家久(島津貴久の四男 ※1609年に琉球侵攻を行った家久は義弘の子で別人)

スキピオ・アフリカヌス(ザマの戦い)-スキピオ・エミリアヌス(小スキピオ 養孫 前146年、カルタゴを陥落させる)ーグラックス兄弟(母方の孫)

武田元繁(有田中井手の戦い)…安国寺恵瓊(曾孫)

ジョセフ=チェンバレン( 植民相)ー ネヴィル=チェンバレン(イギリス首相)

ティベリウス(2代皇帝)ー大ドゥルースス(ティベリウスの弟)-ゲルマニクス(ティベリウスの甥で養子)ーカリグラ(3代皇帝

 

山上王ー西川王…烽上王ー美川王(烽上王の弟の子。300年に即位 313年、楽浪郡を滅ぼし、14年には帯方郡を滅ぼす)ー故国原王

 

藤原種継-※「く」藤原薬子


藤原実頼…     〈孫〉藤原実資(『小右記』の作者)

藤原通憲法(信西)-貞慶

藤原師輔〈実頼の弟〉-藤原伊尹〈師輔の長男〉


藤原秀郷(平将門の乱を鎮圧した領使)…藤原清衡州藤原氏初代)ー藤原基衡(毛越寺建立)ー藤原秀衡

                           …荒木村重(1578年 信長に謀反)

北条早雲ー 北条氏綱-北条氏康(三国不戦同盟)ー北条氏政(1590年切腹)ー北条氏直

細川藤孝細川忠興(妻はガラシャー細川忠利

慕容廆-慕容皝(慕容廆の長男)ー慕容儁(ホムツワケ=ヤマトタケル)

                     -慕容垂(384年、後燕を建国)

-慕容仁慕容廆の三男 皝に殺される

マクシミリアン1世-カール5世(孫)

源経基(藤原純友の乱を鎮圧 藤原氏の「(もと)」を造る)ー源満仲(安和の変 藤原氏の力を「たす」)-源頼信源頼光の弟。平忠常の乱を鎮圧)ー源頼義ー源義家(後三年の役)ー源義親ー源為義ー源義朝ー源頼朝

経満寄りの 寄りよ良い よしち為義 良しとより。

 

イメージ 1

        毛利隆元ー毛利輝元

毛利弘元ー毛利元就ー 吉川元春ー吉川広元

        小早川隆景

李克用(独眼竜 黄巣の乱鎮定)ー李存勗(後唐の建国者)

劉焉ー劉璋

劉淵(304年、漢を建国)ー劉聡ー劉曜

ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドーライオネル・ロスチャイルド(1808-1879)

渡辺勝(1524年相合元綱擁立反乱の廉で殺される)ー渡辺通(1543年 月山富田城の戦いで奮戦の末に戦死討死)


浮世絵の系譜

2017-05-06 | ベック式!日本史用語集

モロ春の歌 社保ヒロシ。

(菱川宣(ひしかわもろのぶ)・鈴木信(すずきはるのぶ)・喜多川麿(きたがわうたまろ))(東洲斎楽(とうしゅうさいしゃらく)・葛飾斎(かつしかほくさい)・歌川広重(うたがわひろしげ))                 

[解説]
1.菱川師宣(生没年不詳)は、肉筆画による名作『見返り美人図』で知られるが、浮世絵版画の開祖とされる。遊里(ゆうり)と芝居に関する風俗画を版画で量産した。

2.鈴木春信(1725?~1770)は、版画技術の彫刻し摺る(する)技術の向上とあいまって、色彩表現の可能性を広げ、多色刷り版画「錦絵(にしきえ)」の確立に尽力。美人画で知られ、おもに上流の若い婦人を、柔らかな曲線と美しい色彩の、細身で清楚に描いた。代表作に『弾琴美人(だんきんびじん)』。

3.喜多川歌麿(1735?~1806)は、美人画で知られる。微妙な表情や仕草を描き分け、対象の心理まで、人物の内面的な個性までも鋭く絵に表した。上品かつ質の高い美人画で知られる。代表作は『婦女人相十品(ふじょにんそうじっぴん)』のうち「ポッピンを吹く女」。1804年、タブーだった秀吉を『太閤五女花見之図』に描いたことで弾圧され手鎖50日の刑を受けた。

4.東洲斎写楽(生没年不詳)は、大首絵(おおくびえ)の手法を駆使した特異な画風で知られる。大胆な誇張表現(デフォルメ)によって、歌舞伎役者など人物の内奥にまで迫る。錦絵は現代のブロマイド的役割。写楽は美男美女に描くことをしなかったため不評だったのか、わずか10か月間に140数点の錦絵を描いて消え、その後が不明な謎の画家。様々の実在の人物との比定が行われているが決定的な説はない。

5.葛飾北斎(1760?~1849)は、写実から離れ、大胆な構図と画面構成で、風景の劇的な瞬間を掴み(つかみ)取る。代表作『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』。風景画以外にも優れ、多作で知られる巨人。人物の様々なポーズを瞬間的活写した『北斎漫画』が、踊り子の絵で知られるドガをはじめモネやゴッホなど後期印象派に多大な影響を与え、国際的な評価も高い。

6.歌川広重(初代)(1797~1858)は、風景画に優れる。季節の移り変わりや、気象の変化に応じ、そこに旅する人々の姿を移しこみ叙情的に描く。代表作『東海道五十三次』。ゴッホは熱心に模写しており、彼に影響を与えたことでも知られる。

2016法大・文(哲史)営(営)人間:「
B 町人文芸の興隆とともに浮世絵も盛んになり、版画に対する需要がいよいよ高まった。18世紀半ばには、d錦絵とよばれる多色刷の浮世絵版画の制作がはじめられ、その黄金時代となった。題材は美人・役者・相撲・花鳥・風景などさまざまで、寛政期ごろにはe喜多川歌麿・東洲斎写楽ら、天保期ごろにはf歌川広重らの名匠が輩出した。この浮世絵は、開国後、西洋の注目するところとなり、のちにフランスの後期印象派に強い影響を与えた。

問4 下線部d錦絵を創始した人物として正しいものを、以下のア~エのなかから一人選べ。

 ア 鈴木春信 イ 鳥居清忠 
 ウ 菱川師宣 エ 勝川春章

問5 下線部e喜多川歌麿が制作した作品として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。

 ア『婦女人相十品』  イ『見返り美人図』
 ウ『恋女房染分手綱』 エ『弾琴美人』

問6 下線部f歌川広重が制作した作品として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。

 ア『富嶽三十六景』 イ『不忍池図』
 ウ『十便十宜図』 エ『名所江戸百景』」

(答:問4ア、問5ア、問6エ)〉

〈2015明大・商

 19世紀初期に流行っていた南伝馬町の坂本氏販売の「美艶仙女香」という美白化粧品が役者絵や風景画のなかにたびたび登場しており、さらに十包購入すると人気役者のサイン入り団扇がもらえるというキャンペーンを展開したともいわれている。役者桧は現代でいえば、一種のブロマイドとしての側面もあり、多くのファンがお目当ての役者絵を楽しむ点に目をつけたプロモーションであった。文化文政期の役者絵では、東洲斎写楽や「役者舞台の姿絵・高麗屋」などの
D【1渡辺崋山 2伊藤若冲 3司馬江漢 4円山応挙 5歌川豊国】(1769~1825)らが著名である。「仙女香」はさらに浮世絵のなかにも登場する。広重の「東海道五十三次」の「関宿」では、あわただしく朝出立の準備をする大名の一行の背後、本陣の玄関先に下がっている札に「仙女香」、「美艶香」の文宇が描かれている。本来は宿泊する大名の名が記載されているはずの部分であるが、さりげなく商品広告に使っている。」

(答:5)〉

2015早大・文:「
〔Ⅵ〕次の文を読んで、問に答えなさい。

 浮世絵の起源は、挑山時代に盛んに描かれるようになった風俗画である。洛中洛外図や歌舞伎図、職人尽図など、民衆の暮らしや遊興のようすを画題にする点ではこれらはたしかに浮世絵と共通点がある。しかし、桃山時代の風俗画が、権力者の財産として人間や都市を描き、権力者が見て楽しむという性格が強かったのに対し、江戸時代の浮世絵は、民衆が手に入れて楽しむという点で大きく変化した。

 そのことを象徴的に示すのが、元禄時代に江戸で活躍した英―蝶という画家の存在である。彼は最初、江戸開府以来の徳川幕府お抱え絵師であった[ A ]の一員であったが、破門されて町絵師になったという。注文制作の肉筆画で、江戸の市民生活や吉原の風俗を軽妙なタッチで描き出し、自身も吉原の男芸人であった。また、―蝶にやや先立って、菱川師宣が版画による浮世絵制作をはじめた。これによって浮世絵は量産可能となり、ひろく民間に普及するようになる。

 ついで18世紀中頃になると鈴木春信が出て、ひとつの作品に多数の色版を重ね摺りして技巧を凝らした錦絵を作り始める。これによって、浮世絵版画は肉筆画に匹敵する精緻な表現を獲得したのである。 18世紀後半になると、美人画を得意とする喜多川歌麿や、個性的な役者絵を手がけた東洲斎写楽が活躍し、浮世絵界は黄金時代を迎える。優れたプロデューサーとして彼らを支えた[ B ]という版元(出版業者)の存在も大きかった。しかし、18世紀末に幕府老中の座についた松平定信がおこなったa寛政の改革によって、この版元や戯作者たちが処罰や弾圧を受けたことは、浮世絵界にも打撃を与えた。

 さらに19世紀に入ると、浮世絵版画による日本諸国の風景画にも民衆の人気が集まるようになり、葛飾北斎のb『富嶽三十六景』と、歌川広重のc『東海這五十三次』シリーズが相次いで世に出た。なお、広重が属していた歌川派はその後も浮世絵の最大派閥としての地位を保持した。dその命脈は明治初頭の開化錦絵や近代の画家にも及んでいる。

問1 空欄Aに入る語句は何か。1つ選べ。

 ア土佐派 イ鳥居派 ウ住吉派
 エ狩野派 オ琳派

問2 空欄Bについて。次ページの図はその店頭の情景である。この版元の名前を何というか。漢宇2字で記入しなさい。

問3 下線a寛政の改革によって、この版元や戯作者たちが処罰や弾圧を受けたについて。処罰や弾圧を受けた人物は誰か。2つ選べ。

 ア柳亭種彦 イ恋川春町 ウ為永春水
 エ曲亭馬琴 オ山東京伝

問4 下線b『富嶽三十六景』について。このシリーズのうち俗に「赤富士」の名で知られる作品はどれか。1つ選べ。

 ア凱風快晴   イ甲州石斑沢
 ウ尾州不士見原 エ山下白雨
 オ神奈川沖浪裏

問5 下線c『東海道五十三次』について。このシリーズの冒頭を飾り、大名行列の出立や魚売りを描いている作品の題名を何というか。漢宇3宇で記入しなさい。

問6 下線dその命脈は明治初頭の開化錦絵や近代の画家にも及んでいるに関して。近代の東京における歌川派の末流として、江戸の風情を色濃く伝える美人画を描いた日本画家は誰か。1つ選べ。

 ア菱田春草 イ竹久夢二 ウ上村松園
 エ鏑木清方 オ岸田劉生

(答:問1エ、問2蔦屋(重三郎)、問3イ・オ ※柳亭種彦・為永春水は天保の改革で弾圧された、問4ア、問5日本橋、問6エ)〉

〈2015早大・社会科学

問3 下線部3美術の発達に関連して、文化・文政時代前後の美術に関する記述として、不適切なものはどれか。1つ選べ。

 イ 明・清の南画の影響を受けた文人画は大きな発展を遂げた。
 ロ 円山派は写生を重んじ、立体感のある作品を描いた。
 ハ 四条派の風景圃は上方の豪商に歓迎された。
 ニ 鈴木春信は浮世絵版画を創始した。
 ホ 錦絵の風景版画が人気を博した背景には、庶民の旅への関心があった。」

(答:ニ× ※創始者は菱川師宣)

2015関西大・済文社会

(D)寛永年間以降、活宇印刷は衰退し再び木版印刷の時代を迎える。多様な読物類が出版され、庶民向けの情報紙である瓦版のほか、美術の分野でも江戸の{ア菱川師宣 イ鈴木春信 ウ東洲斎写楽}によって浮世絵版画が創始され、その後、多色刷版画に発展し、人物画や風景画などに新境地を開いた。」

(答:ア)〉

2013早大・文:「
 下線部菱川師宣について。以下のうち師宣の代表作はどれか。1つ選べ。

 ア「洛中洛外図巻」 イ「婦女人相十品」
 ウ「夕顔棚納涼図屏風」
 エ「見返り美人図」 オ「名所江戸百景」

(答:エ)〉

〈2012立大・全学部

  織物業と染色技術の発達があったばかりでなく、浮世絵版画の普及なども、人びとの間に衣装模様や装い方への関心や需要を高めていった。浮世絵版画は、『見返り美人図』でも有名な〈 お 〉が確立したことで知られており、美人図や役者絵などが好んで題材とされていった。役者絵で措かれたのは歌舞伎役者であるが、17世紀初めにかぶき踊りが〈 か 〉によって始められて以降、歌舞伎はたびたび幕府の禁止や続制を受けながらも、江戸時代の庶民の代表的娯楽として発展していった。」

(答:お菱川師宣、か出雲阿国)〉

〈2012同志社・神商心理

問キ.文晁とほとんど同時代人であり、『神奈川沖浪裏』などの作品を描いた浮世絵師の人物名を選べ。

 1.葛飾北斎  2.歌川広重
 3.喜多川歌麿 4.東洲斎写楽」

(答:1)〉


1471(文明3)年 〈蓮如、越前に吉崎道場を創建〉★

2017-04-28 | ベック式!日本史用語集

Rennyo5.1.JPG

 室町時代(後土御門天皇 足利義政)

 1471(文明3)年 〈蓮如、越前に吉崎道場を創建〉

In 1471, Renny moved hiss base to Yoshizaki in present Fukui prefecture.

費用無い由 連絡し。

1471年  吉崎道場 蓮如

本願寺8世の蓮如は浄土真宗の立場を比叡山宗徒のため本願寺を焼かれ、1471年、越前に吉崎道場を創建。坊舎を構え、御文を通じて教化活動を展開。やがて山科に本願寺を再建し、晩年、大坂石山に坊舎を造った。