Kanedaiのブログ

ぼくの きょうみのあること おもったこと

シンプルな話

2014年07月30日 | Weblog
とてもシンプルな話だけど
教育は 生徒のためにあるものだし
医療は 患者のためにあるものだし
そもそも絶対に外せない 基軸がある

それが いつの間にか 
組織とか 人間関係とか しくみとか 経営とか
そういうものに目を奪われて 私利私欲に走り 
そもそも何のために という基本を見失う事が往々にしてある

今の政治を見ていると その骨頂である
政治は 国民のためにあるものなのに
気付けば 政権のために 
代々成せなかった祖父の 首相の名誉のために 金のために 利権のために
そんな我欲を推し通し
国民から金を巻きあげ ばらまき 
更に国民の命を危険さらすような法律を平然と打ちたてる 
気付けば 政治の本分とはかけはなれた愚行が繰り広げられる

漱石の一節を思い出した
最後の
『あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。决して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。』
つまり 小説は 読者のためにあるもので 小説家を押すのではない
という部分は改めてそうだな…と思った


夏目漱石の手紙
大正5年8月24日(木)午後6時─7時 牛込區早稻田南町七番地より
千葉縣一ノ宮町一ノ宮館 芥川龍之介・久米正雄へ

 此手紙をもう一本君等に上げます。君等の手紙があまりに潑溂としてゐるので、無の僕ももう一度君等に向つて何か云ひたくなつたのです。云はゞ君等の若々しい春の氣が、老人の僕を若返らせたのです。
 今日は木曜です。然し午後(今三時半)には誰も來ません。例の瀧田樗陰君は木曜日を安息日と自稱して必ず金太郎に似た顔を僕の書齋にあらはすのですが、その先生も今日は缺席するといつてわざわざ斷つて來ました。そこで相變らず蝉の聲の中で他から頼まれた原稿を讀んだり手紙を書いたりしてゐます。昨日作つた詩に手も入れて見ました。「癲狂院の中より」といふ色々な狂人を書き分けたものだといふ原稿を讀ませられました。中々思ひ付きを書く人があるものです。
 芥川君の俳句は月並ぢやありません。もつとも久米君のやうな立體俳句を作る人から見たら何うか知りませんが、我々十八世紀派はあれで結構だと思ひます。其代り畫は久米君の方がうまいですね。久米君の繪のうまいには驚ろいた。あの三枚のうちの一枚(夕陽の景?)は大變うまい。成程あれなら三宅恒方さんの繪をくさす筈です。くさしても構はないから、僕にいつか書いて呉れませんか。(本當にいふのです)。同時に君がたは東洋の繪(ことに支那の畫)に興味を有つてゐないやうだが、どうも不思議ですね。そちらの方面へも少し色眼を使つて御覽になつたら如何ですか、其所には又そこで滿更でないのもちよいちよいありますよ、僕が保證して上げます。
 僕は此間福田半香(華山の弟子)といふ人の三幅對を如何はしい古道具屋で見て大變旨いと思つて、爺さんに價を訊いたら五百圓だと答へたので、大いに立腹しました。是は繪に五百圓の價がないといふのではありません。爺なるものが僕に手の出せないやうな價を云つて、忠實に半香を鑑賞し得る僕を吹き飛ばしたからであります。僕は仕方なしに高いなあと云つて、店を出てしまひましたが、其時心のうちでそんならおれにも覺悟があると云ひました。其覺悟といふのを一寸披露します。笑つちやいけません。おれにおれの好きな畫を買はせないなら、已を得ない。おれ自身で其好き[な]畫と同程度のものをかいてそれを掛けて置く。と斯ういふのです。それが實現された日にはあの達磨などは眼裏の一翳です。到底芥川君のラルブルなどに追ひ付かれる譯のものではないのですから、御用心なさい。
 君方は能く本を讀むから感心です。しかもそれを輕蔑し得るために讀むんだから偉い。(ひやかすのぢやありません、賞めてるんです)。僕思ふに日露戰爭で軍人が露西亞に勝つた以上、文人も何時迄恐露病に罹つてうんうん蒼い顔をしてゐるべき次第のものぢやない。僕は此氣燄をもう餘程前から持ち廻つてゐるが、君等を惱ませるのは今回を以て嚆矢とするんだから、一遍丈は默つて聞いてお置きなさい。
 本を讀んで面白いのがあつたらへて下さい。さうして後で僕に借して呉れ玉へ。僕は近頃めちやめちやで昔し讀んだ本さへ忘れてゐる。此間芥川君がダヌンチオのフレーム オフ ライフの話をして傑作だと云つた時、僕はそんな本は知らないと申し上げたが其後何時も坐つてゐる机の後ろにある本箱を一寸振り返つて見たら、其所に其本がちやんとあるので驚ろいちまひました。たしかに讀んだに相違ないのだが何が書いてあるかもうすつかり忘れてしまつた。出して見たら或は鉛筆で評が書いてあるかも知れないが面倒だから其儘にしてゐます。
 きのふ雜誌を見たらショウの書いた新らしいドラマの事が出てゐました。是はとても倫敦で興行できない性質のものださうです。グレゴリー夫人の勢力ですら、ダブリンの劇場で跳ね付けたといふ猛烈のもので、無論私の刊行物で數奇者の手に渡つてゐる丈なのです。兵隊がV.C.を貰つて色々なうそを並べ立てゝ景氣よく應募兵を煽動してあるく所などが諷してあるのです。ショウといふ男は一寸いたづらものですな。
 一寸筆を休めて是から何を書かうかと考へて見たが、のべつに書けばいくらでも書けさうですが、書いた所で自慢にもならないから、此所いらで切り上げます。まだ何か云ひ殘した事があるやうだけれども。
 あゝさうだ。さうだ。芥川君の作物の事だ。大變神經を惱ませてゐるやうに久米君も自分も書いて來たが、それは受け合ひます。君の作物はちやんと手腕がきまつてゐるのです。决してある程度以下には書かうとしても書けないからです。久米君の方は好いものを書く代りに時としては、どつかり落ちないとも限らないやうに思へますが、君の方はそんな譯のあり得ない作風ですから大丈夫です。此豫言が適中するかしないかはもう一週間すると分ります。適中したら僕に禮をお云ひなさい。外れたら僕があやまります。
 牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老獪なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事ある相の子位な程度のものです。
 あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。决して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
 是から湯に入ります。
     八月二十四日                 夏目金之助
   芥川 龍之介 樣
   久 米 正 雄 樣
 君方が避暑中もう手紙を上げないかも知れません。君方も返事の事は氣にしないでも構ひません。
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