四万十川レコード 公式ブログ

四万十と言う小さな町に生まれ、思春期に音楽に目覚めそして今も、長い長い音楽の旅をしています。

作詞、作曲家の寿命

2012-05-30 00:40:54 | 音楽業界
作詞、作曲家の寿命と言っても人生、命の事では無いです。
職業としての現役生活の長さの事です。
何故こんな事を考えたのかと言うと、TVでね氷川きよしさんの
事務所の会長の長良じゅんさんの葬儀の映像があって参列者に
作詞家のなかにし礼さんのコメントがありました。
大御所ですね作詞界の、なかにし礼さんは直木賞作家でもありますが。
ヒット曲を上げれば切りのない位の著名な作詞家さんです。
で、なかにしさんが氷川きよしさんに作詞した最新曲「櫻」の詞について
コメントをしていました、そこはどうでもいい(失礼)のですが
このレベルの作詞家に依頼をする、出来る人が今現在何人位いるのだろうかと‥
そこが少し気になりました。
一般に作詞家や作曲家と言う職業は知られていても職業のシステムについては
世間の人は知らないだろうなぁと思うのでそこを少し書きます。




例えば氷川さんの新曲だからと言って氷川さん本人が作詞家や
作曲家に依頼する事はありません、この辺はお分かりだと思います。
歌手の人の楽曲をセレクトするのは通常はレコード会社のディレクター
もしくはプロデューサーです。
それ以外にはマネージメント側のディレクターやプロデューサーです。
氷川さんの場合は多分会長の長良じゅんさんが制作に噛んでいたのだと思います。
では歌手が新曲を出す場合の流れとは?
通常は事前に次の曲のテーマやコンセプトをレコード会社とプロダクションで
ラフトーク、ミーティングします、企画会議です。
それを受けてプロデューサーやディレクターが作詞家や作曲家を選定します。
そしてテーマに合わせた歌詞や曲調で作詞家や、作曲家に楽曲の発注をします。
出来て来た何曲かの候補曲の中から次の新曲を選びます。
所謂レコードのA面やB面と言うのはこの候補曲の最終選曲です。
A面とB面にまで残った曲は楽曲の完成度にそんなに大差はないです。
後はその時の状況、プロモーションや時代性、アーティストイメージなどの
選別で最後の一曲が決まります、だから昔はB面の方が評判になったりする事がありました。
ちなみに戦後最大のシングルヒット曲「およげ!たいやき君」のB面は
なぎら健壱さんの「いっぽんでもにんじん」と言う曲でした。
どちらも版権買取だったので印税では全く稼げ無かったと言う
笑えない逸話が残っています(笑)




ではシステムのおさらいです。
作詞家や作曲家と言う職業は依頼者(レコード会社等)からの発注が
あって始めて成り立ちます、でもお金になるのは楽曲がレコード化された時だけ。
それ以前のオーディション段階で何回やり直してもお金にはなりません。
レコード化されてジャスラックに登録されて始めてお金になります。
見た目にはカッコ良いですが新人の段階では案外割に合わない職業です。
しかもヒット曲を出さなければ次の注文が来ません、キツイですよこれは。
しかし時代を飾る様なヒット曲が出ればガンガンと注文が来ます、稼ぎ時です。
でもねこれはもう遠い昔の話しですね‥
1970年代のTV番組、スター誕生を背景にした一連の歌謡曲黄金時代は
ピンクレディーを頂点に作詞阿久悠、作曲都倉俊一のゴールデンコンビが
時代を席捲しました、なかにし礼さんはこの少し前の時代ですね。
なかにしさんの作詞家としてのスタートは伝説の俳優「石原裕次郎」さんです。




実は僕が昔所属していたライブハウス「新宿ルイード」は小沢企画と言う
音楽プロダクションの傘下企業だったのですが、その総帥小沢社長が手掛けた
新人歌手菅原洋一さんの代表曲を作詞したのがなかにし礼さんです。
「知りたくないの」(1965年)の大ヒットの後、「今日でお別れ」(1969年)で
第12回日本レコード大賞を受賞しています。
この時代のその他の小沢企画の歌手では「麻丘めぐみ」さんや
「にしきのあきら」さん等が所属していました。
ちなみに僕が「徳永英明」さんと縁があったのはデビュー時に徳永さんが
所属していたプロダクションも小沢企画傘下の企業だったからです。
あの小室哲也さんの「TMネットワーク」も小沢企画傘下のプロダクションでした。
だから実は僕は小沢グループの孫弟子になります(笑)
資本や権利関係はありませんでしたが人脈的に僕は小沢傘下の人達との付き合いがありました。
意外な所でパンクバンドのTHE MAD CAPSULE MARKETS(ザ・マッド・カプセル・マーケッツ)
の事務所の社長も小沢傘下の人間で僕の友達です(笑)




話が横道にそれました、何時もの事ですが。
さて本題、作詞家や作曲家の寿命は短いです、ヒット曲があればあるほど。
音楽業界でもヒット曲を出せば当然出世します。
ディレクターからプロデューサーになったりね。
そしてそのチームで歳を重ねて行きます、これが実は短命の元なんです。
作詞家や作曲家が偉くなると仕事が減ります、頼みにくいからです。
余りにも有名になり過ぎて新人のディレクターには敷居が高い。
だってそれはプロデューサーの人脈ですからね。
従って新人ディレクターは自分の人脈でヒット曲を出そうとします。
つまりベテランになればなるほど仕事が先細りします。
だから余りにも有名になり過ぎると仕事が無くなって作家に転身したりします。
阿久悠さんやなかにし礼さんもこのコースを辿りました。
で、冒頭のこのレベルの人に頼める人、と言う言葉が出ました。
今現在の音楽業界で作詞に、なかにし礼さんに頼める人はそう居ないからです。
1980年代で著名な作詞家は松本隆さんや銀色夏生さん、
売野 雅勇さん等ですかね、作曲家は芹澤廣明さん辺りか。
2000年代の作曲家は断トツで小室哲也さん、つんくさん、織田 哲郎さん等かな?




でも今は‥居ないでしょ時代を飾る作詞家や作曲家は。
嗜好が細分化されすぎてまとまったヒットにならない難しい時代です。
だからCDが売れないんです、アーティストの時代と言えば聞こえが良いけど
それだけじゃないな、音楽に力が無い。
時代を巻き込むだけのパワーが音楽には無くなった‥難しいよなぁ。
今の日本は難しい、でも世界は少し違う、音楽に対する理解度がね。
ジャンル毎に世代や嗜好があってセールスとして成立しているんです世界は。
日本の様に何もかもひと色にならない、AKBばかりにならないんです(笑)
で、僕は開き直って今の日本の地域音楽を世界に送っている訳です。
日本の市場じゃ理解されないかも知れないからです(笑)
でも世界だと普通に分ってくれる、それが楽しいのだと思います。
ちなみに戦前の日本の作詞家にはこんな人がいましたよ。
初出は大正七年です、この曲は昭和十三年に高峰三枝子さんが
歌って大ヒットした音源です、僕はこの曲が持つ日本的な情感が好きです。
唄:高峰三枝子「宵待草」 竹久夢二、西条八十補詩、多忠亮:作曲、昭和十三年。


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