CTNRXの日日是好日

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

CTNRX的見・読・調 Note ♯004

2023-09-22 21:00:00 | 自由研究

■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(4)

 ❖ アフガニスタン
       歴史と変遷 (3) ❖

 ◆メナンドロス1世

 インド・グリーク朝の王の中で最大の勢力を築き、また最も多くの記録を残しているのはメナンドロス1世(ミリンダ 在位:紀元前150年頃 - 紀元前130年頃?)である。
 メナンドロス1世はインドにおいてエウティデムス朝系の権力に対する反対者として台頭したという説が近年では有力であるが、彼が権力を得た具体的な経過はわかっていない。

 メナンドロス1世は北西インドの都市シャーカラ(現:シアールコット)を都とした。
 古代の地理学者プトレマイオスによれば、当時この町はエウテュメディアと呼ばれたという。
 メナンドロス1世の発行したコインは他のインド・グリーク王の誰よりも広い範囲から出土している。
 その範囲は現在のカーブルからバルチ、カシミール、マトゥラーに至る。

 同じく地理学者プトレマイオスによって造られた世界地図によればインド亜大陸にはメナンドロス山などと名づけられた山が存在していたらしい。
 こうしてインド亜大陸に勢力を拡張した王達、アポロドトス1世やメナンドロス1世はギリシア・ローマの歴史家達にはインド王として言及されている。

 メナンドロス1世の名を今日に伝えている最も重要な記録は仏典の1つ『ミリンダ王の問い』である。
 メナンドロス1世は仏教に帰依したことが知られており、当時のインドでは単に武勇に優れた征服王というだけではなく偉大な哲人王として記憶された。
 ミリンダとはメナンドロスの名がインド風に訛って伝わった名である。

 「彼は論客として近づき難く、打ち勝ち難く、数々の祖師(ティッタカラ)のうちで最上の者であったと言われる。
 全インド(ジャンブディーパ)のうちに肉体、敏捷、武勇、智慧に関して、ミリンダ王に等しい如何なる人も存在しなかった。
 彼は富裕であって大いに富み、大いに栄え、無数の兵士と戦車とを持った」

 この書はメナンドロス1世と仏僧ナーガセーナとの対談と、王の改宗の顛末などを中心に記録されたものであるが、メナンドロス1世が仏教に帰依したという点には疑問を呈する学者もいる。
 だが大勢ではやはり仏教を重視したのだろうとする説が有力である。
 メナンドロス1世はインド・ギリシア人最大の王であり、彼が発行したコインはその後200年以上にわたって北西インドで流通した。
 これはメナンドロス1世以降暫くの間、彼ほど巨大な経済力を持った王が存在しなかったことを示すともいわれる。

 ◆グレコ・バクトリアの終焉と
      インド・グリークの諸王

 メナンドロス1世が死んだ後、王妃アガトクレイアが権力を握ったが、それと同じ時期の紀元前130年頃には大月氏によってか、或いは大月氏の圧力によって移動したトハラ人、サカ人によってか、正確なことはわかっていないが、バクトリアのギリシア人王国はこういった遊牧民の侵入によって崩壊した。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ❒ 月氏(げっし、拼音:Yuèzhī)

 紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア・中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。
 紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。
 大月氏時代は東西交易で栄えた。
 『漢書』西域伝によれば羌に近い文化や言語を持つとあるが、民族系統については後述のように諸説ある。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 紀元前125年頃にグレコ・バクトリア最後の王ヘリオクレスは殺害されたか、もしくは亡命を余儀なくされた。
 そして残されたバクトリア・ギリシア人達のいくらかはインド・ギリシア人達の勢力範囲に流入した。
 リュシアス、ゾイロス1世、アンティアルキダスなどのギリシア人王が各地で勢力を持ったが、彼らの多くはこの時期に新たにインドに移動したグレコ・バクトリア系の王であると言われている[。
 彼らは基本的にはエウティデムス朝かエウクラティデス朝に属する王達であったと考えられている。
 また、メナンドロス1世とアガトクレイアの息子、ストラトン1世も、やや遅れてではあるがインド・ギリシア人の代表的な王として活動したと見られる。

 こういった経緯によって、インドにおけるギリシア人の勢力は新たにバクトリアから流入した人々によって形成された西方のアラコシアやパロパミソスを支配する勢力と、恐らくメナンドロス1世の後継者達によると考えられる東方の西パンジャーブ地方などを支配する勢力に大きくわかれた。
 また更に多くの群小王国が存在したと考えられる。

 だが、この時期のインド・グリーク諸王の勢力範囲は年代決定は諸説紛糾しており、極めて僅かな史料を下にその活動が想像されているに過ぎない。
 それでも上記の王達の場合はまだ記録に恵まれている方である。
 ニキアス、ポリクセノス、テオフィロスなどのように、発掘されたコインからただ名前のみが知られているインド・グリーク王は約40人にも上るが、彼らについては極めて大雑把な概要さえ知る事ができない。

 彼らは相互に覇権を争ったが、紀元前90年以降その勢力は減衰を続けた。
 西暦1世紀初頭までには支配者としてのギリシア人の地位は完全に失われた。

 ◆身分秩序

 インドにおけるギリシア人の支配はどのような影響を社会に及ぼしたのか、様々な見解が出されている。
 ある仏典にはヨーナ(ギリシア人)とカンボージャでは二種の階級、即ち貴族と奴隷(アーリアとダーサ)があり、貴族が奴隷となり奴隷が貴族となることがあるとされている。
 これはあまりに抽象的な記録であるが、「階級が入れ替わることがあった。」という点を重視し、ギリシア人の支配下で旧来のインドの身分秩序に乱れがあったことを示すとする意見もある。
 しかし、インド社会の根幹部分にはギリシア人の影響はさほど及ばなかったとする説も有力である。
 メナンドロス1世の王国では当時の支配階級はギリシア人を頂点とし、旧来のインド王族、バラモン、資産者が続くとされている。
 これに見るように、古いインドの階級秩序の上にギリシア人が置物のように存在したという説もある。

 インド・グリークの諸王国においてギリシア人が特殊な地位を占めていたのは『ミリンダ王の問い』にある記述から想定できる。
 これによれば、メナンドロス1世の周囲には常に500人のギリシア人が側近として控えていたとされている。
 実際にギリシア系と考えられているメナンドロス1世の側近の名前も記録されている。
 即ちデーヴァマンティヤ(恐らくデメトリオス)、アンタカーヤ(恐らくアンティオコス)、マンクラ(恐らくメネクレス)、サッバディンナ(サラポドトス、もしくはサッバドトスか?)の4人である。

 ◆領内統治

 ❒王権観

 インド・グリーク諸王朝の王権に関する史料は『ミリンダ王の問い』に収録されている僅かな記録を除けばコイン銘にある称号がほとんど唯一の史料である。
 バシレウス(王)や、バシレウス・メガス(大王)などが称号として用いられたが、時代を経るにつれ若干の神格化も見られた。
 『ミリンダ王の問い』に表されるインド・グリーク王の姿は極めてインド的である。

 「…王は政治を行い、世人を指導する。
 …彼は一切の人間に打ち克って、親族を喜ばせ、敵を憂えさせ、大いなる名望と栄光ある無垢白色の白傘を掲げる。…」 「…良家の裔であり、クシャトリヤである王がクシャトリヤの灌頂を受けた時、市民、辺境民、地方人、傭兵、使者が王に侍り…廷臣、役者、踊子、予言者、祝言者、一切の宗派のシャモン・バラモンが彼の下に赴き…いたるところにおいて支配者となる。…」

 しかし、後世の付加であると考えられ部分を含んでおり、インド・グリーク王が「インド的」な王権観の下にあったのかどうかは断言できない。
 後述のように、遺物から推測されるインド・グリーク諸王朝の政治体制はギリシア的要素を強く残しており、仏典に見られる強い「インド的傾向」は、採録者自身が王をそのようなものとして見なしていたが故のものかもしれない。

 だがインド・グリーク諸王の発行したコインはギリシア文字銘の他に、現地で用いられていたカローシュティー文字などを使用してプラークリット語の称号が併記されることが多いという点で、他のヘレニズム諸王国のそれとは著しい相違をなす。マハーラージャ・マハータ(偉大なる大王)や、マハーラージャ・ラージャティラージャ(諸王の統王なる大王)などのような称号は、基本的にはギリシア語の称号を現地語に訳したものであるが、こうした処置が必要だったことは、ギリシア人の王権観にインドのそれが影響を及ぼしていた事を示すとも言う。

 ❒従属王国

 メナンドロス1世を初めとしたインド・グリークの王達は、領域内で完全な主権を確立していたわけではなかった。
 彼らの支配する領域には数多くの従属王国が含まれており、彼らは王を名乗り独自にコインを発行したりする場合もあった。

 こういった従属王国は、必ずしも上位者の王と運命共同体を形成していたわけではなかった点は重要である。
 上位者の王の勢力が減衰すれば、彼らはその都度独立したり、別の王の庇護を求めたりして自らの地位を守ることに努めた。
 メナンドロス1世に従属していた王の一人ヴィジャヤミトラは、メナンドロス1世死後も長く独自の王国を存続させていた。

 ❒郡守

 メナンドロス1世の王国は、セレウコス朝と同様の郡守(メリダルケス)制度を持っていた。
 この称号はセレウコス朝の碑文に多く残されているが、インド・グリーク王朝の碑文にも確認されており、地方の統治に当たった。
 こうした点に見られるようにインド・グリーク王朝の国家体制にはヘレニズム的要素が強く見られる。

 彼らは地方の統治とともに独自に宗教活動にも従事していた。紀元前150年頃の群守の1人テウードラ(テオドロス)が仏舎利を供養したことが記録に残されている。
 こういったギリシア人の郡守達は実務・行政にはギリシア語を使用したと考えられているが、興味深いことに仏教に関する活動においてはギリシア語を避け、カローシュティー文字を用いて現地語を使った。

 ❒軍事

 コインに刻まれた記録からは、インド・ギリシア人が典型的なヘレニズム風の武装をしていたことがわかる。
 基本的には西方のヘレニズム王朝と軍事面であまり差は無かったと考えられているが、それでも地域的な影響は強く受けた。
 グレコ・バクトリア王国が遊牧民の襲来で崩壊した後の王、ゾイロス1世のコインの中には遊牧民の用いていた短弓が描かれているものがあり、インド・ギリシア人の弓騎兵も同様の物を装備していたといわれている。

 グレコ・マケドニアの伝統にのっとって、騎兵は重要視されていたと考えられ、グレコ・バクトリア王やインド・グリーク王はしばしば馬上の姿が描かれている。
 インドで重要視された戦象はヘレニズム諸国がこぞって使用した兵器であり、インド・ギリシア人も用いたと考えられるが、馬と異なりコインに描かれることは無い。
 しかし、インド世界一般の傾向から考えて戦象は重要な兵力であったであろう。
 少なくとも『ミリンダ王の問い』の中には、戦象の使用に言及する部分がある。

 ❒宗教

 インドに移住したギリシア人達は当初、当然ながら彼らの旧来の宗教、すなわちゼウスやヘラクレスへの崇拝を持ち込んだことが確認されている。インド・グリーク諸王が発行したコインにはギリシア系の神々の姿が刻まれている。
 時が経過するに連れ、インドの宗教の影響を受け、それらに帰依する者も出た。

 ❒ギリシア人と仏教

 インド・ギリシア人の中には多くの仏教徒がいた事が知られている。最も有名なのはメナンドロス1世であるが、彼の仏教改宗は、単に個人的に仏教に興味を持つ王がいたと言う範疇を超えて、当時のインド社会における大きな思想潮流の中での出来事であると考えられる。

 マウリヤ朝時代、仏教はその保護を受けて大いに発展していたが、その中で仏教に改宗するギリシャ人がいたことは考古学的に確認されている。
 マウリヤ朝時代に仏教教団へギリシア人から窟院や貯水池の寄進が行われていたし、アショーカ王の勅令の中にガンダーラ地方のギリシア人に仏教が広まっていた事を示すものもある。
 何故仏教がギリシア人に受け入れられたのかについては様々な議論があるが、一説に身分秩序を重んじるバラモン教の有力なインド社会において、外来のギリシア人がインド社会に同調しつつその宗教を取り入れようとした場合、大きな選択肢としては仏教しかなかったという説がある。
 バラモン教的立場に拠れば、いかなギリシア人が強大な軍事力を持ったとしても、夷狄の1つに過ぎない。
 サンスクリット語で蛮族を意味する語バルバラ(barbara)は、ギリシア語のバルバロイの借用であるが、皮肉なことにインドの文献にはギリシア人を指してバルバラと呼ぶものも存在する。

 ◆メナンドロス1世の改宗

 『ミリンダ王の問い』によればメナンドロス1世は当初仏教に懐疑的であり「質問をぶつけてサンガ(仏教教団)を悩ませた」とある。
 その後、ナーガセーナとの論戦に破れ仏教に帰依したことが伝えられている。

 この「メナンドロス1世の改宗」の史実性については長い議論の歴史がある。
 仏僧ナーガセーナは『ミリンダ王の問い』以外にその存在を証明する文献は存在せず、メナンドロス1世の残した遺物の中には、彼が仏教徒であったことを示唆する物は少ない。
 彼のコインに刻まれているのは伝統的なギリシアの神々であって、そこから仏教的要素を読み取ることは出来ない。
 ただし、これらのコインの中には輪宝を刻んだものがあることから、メナンドロス1世がインド人の宗教観の影響を受けていたことは確実である。
 但し、輪宝は仏教以外の宗教も用いるため、メナンドロス1世が仏教に帰依した確実な証拠とはならない。
 斯様な点からメナンドロス1世の仏教改宗の史実性に疑問を持つ学者もいる。

 一方、メナンドロス1世が仏教を信仰したとする最大の証拠は、シンコットで出土したメナンドロス1世が奉献したと記す舎利壷である。
 このため、メナンドロス1世は実際に仏教に帰依した、少なくとも重視したとする説が有力である。

 ❒仏教美術

 ギリシア人達はインドの美術にかなりの影響を残した。取り分けよく言われるのが、従来は仏の姿を直接現さないことになっていた仏教美術の中に仏像が現れたことに対するギリシア人の影響である。

 古代インドでは釈迦の入滅以来、仏陀が人間的な表現で表されることはなかった。
 釈迦の死後、崇拝の対象となったのは彼の像ではなく、彼の遺骨(仏舎利)を納めた仏塔(ストゥーパ)であり、仏教説話などを絵などに表現する時、釈迦を登場させる必要がある場合には、座席、仏足跡、菩提樹、法輪、傘蓋、仏塔などを描写することで釈迦の存在を象徴的に表すのみであった。
 これは意識的に釈迦の姿を現す事を避けたことがわかる。
 こうした仏教美術様式はマウリヤ朝、シュンガ朝、サータヴァーハナ朝を経て西暦紀元前後まで一貫して続いている。

 しかし、その次の時代のガンダーラ美術やマトゥラー美術では、釈迦を人間の姿で表現する事が既に前提となっている。
 仏像の登場の最も早いものはクシャーナ朝時代のことであり、インド・グリーク諸王朝の活動した時代よりも後のことであるが、神を人間の姿で表現するギリシア人の美術様式が仏教美術に影響したと言われている。

 ❒ヒンドゥー教

 ここでいうヒンドゥー教とは今日的な意味ではなく、当時のインドの土着の神々に対する信仰を指す。
 インド・ギリシア人の信仰として注目されるのはやはりゼウスやヘラクレス、アテナなどギリシア古来の神々への信仰と仏教信仰であるが、インド伝来の神に対するギリシア人の信仰の証拠も今日に残されている。

 最も有名な例はアンティアルキダス王に仕えたタクシラ出身のギリシア人ヘリオドロスに関する記録である。ベスナガルに残るガルーダ石柱銘文によれば、アンティアルキダス王は治世第14年にヘリオドロスをヴィディシャーの王バーガバドラの下に使者として派遣した。
 ヘリオドロスはバーガヴァダ派の信仰を持っていたため、ヴァースデーヴァ神のためにベスナガルにガルーダ像をつけた柱を建てたという。
 この銘文の中でヴァースデーヴァは「神々の中の神」と呼ばれている。
 このようにインド伝来の神を信仰するギリシア人は少なからず存在したと考えられ、また恐らくは旧来のギリシアの神々との混交も進んでいたと推測される。

 今ひとつ、インドの神々とギリシア人との関係を示す証拠は、神の像が刻まれたグレコ・バクトリア王国やインド・グリーク諸王朝のコインである。
 アガトクレスやパンタレオンの発行したコインに刻まれている踊子はクリシュナの姉妹スバードラを表したものと言われている。
 また、インド人の神話的伝承についてはギリシア人の「批判」も残っている。メガステネスやアリアノスなどのギリシア人達は、インド人の伝えた神話、伝説の類を「荒唐無稽」として全く信用しなかったことが伝えられている。
 (これらの伝説は今日の『マハーバーラタ』やプラーナ文献に対応するものが多く発見されている。)

 メガステネスやアリアノスはインド・ギリシア人ではないが、インド・ギリシア人の中にも西方のギリシア人と同じくこうしたインドの空想的な神話について懐疑の目を向けるものは少なからず存在した。
 そうしたギリシア人の1人は他ならぬメナンドロス1世であった。彼がナーガセーナとの議論の中で質問を多くぶつけたのは、ありえそうも無い空想的な説話についてであった。

 ◆カーラ・ヤヴァナ
       (黒いギリシア人)

 インドの伝説やプラーナ文献にはクリシュナがカーラ・ヤヴァナ(Kala Yavana、「黒いギリシア人」)と戦ったという説話が残されている。
 これは現地人との長期に渡る混血が進んだギリシア人か、或いはかつて古代インドの土着民がアーリア人の侵入につれてアーリア化したように、ギリシア化した土着民であったかもしれない。

 ただし、このカーラ・ヤヴァナとはバクトリアのギリシア人を指すという説もある。

 ▶インド・スキタイ王国

 紀元前2世紀、匈奴がモンゴル高原の覇者になり敦煌の月氏を駆逐すると、逃れた月氏が塞族を追い出しイシク湖に定住した。
 塞族は、パミール高原を越えて定住を始め、紀元前85年にインド・グリーク朝に侵攻し、紀元前10年に最後のギリシア系王朝が滅亡し、サカ人のインド・スキタイ王国が興った。

 インド・スキタイ王国
 (英語:Indo-Scythian Kingdom)

 紀元前1世紀の西北インドに興ったスキタイ系のサカ人による諸王朝。インド・スキタイ朝、インド・サカ王朝、サカ王朝、サカ王国ともいう。インド・グリーク朝の文化を受け継ぎ、多くのコインを残した。

 ◆遊牧民の大移動と建国

 紀元前2世紀、モンゴル高原の覇者となった匈奴は西域攻略を開始すべく、手始めとして敦煌付近にいた月氏を駆逐した。
 月氏はイシク湖周辺にまで逃れ、もともとそこにいた塞族(サカ人)を追い出してその地に居座った。
 追い出された塞族は縣度(パミール高原、ヒンドゥークシュ山脈)を越えてガンダーラ地方に罽賓国を建てたり、途中のパミール山中に休循国や捐毒国を建てたりした。
 これらの国々がインド・スキタイ王国なのかは不明だが、紀元前85年頃には北方遊牧民(広義のスキタイ:サカ)が西北インドに侵入し、インド・グリーク朝を滅ぼして自らの王国を築いた。

 ▶インド・パルティア王国

 アルサケス朝パルティアが弱体化すると、パルティア人のゴンドファルネスがバクトリアと北インドを支配下に治め、20年にアルサケス朝パルティアから独立してインド・パルティア王国を興した。
 1世紀頃現代のアフガニスタン、パキスタン、北インドを含む領域に、パルティア人の指導者ゴンドファルネスによって建設された王国。

 ◆東方領土への進出

 匈奴が冒頓単于(在位:紀元前209年 - 紀元前174年)治世下で強大化して西方を脅かすようになると、元来タリム盆地に拠点を置いていた遊牧民の大月氏はサカ人の領土を奪い取り西遷した。
 パルティアのミトラダテス1世(在位:前171年 - 前138年)の治世には、北西インドのサカ人が本拠地のヒュルカニア(英語版)に侵入し始めた。
 紀元前128年、フラーテス2世はサカ人討伐に失敗して戦死し、インド・スキタイ人のインド・スキタイ王国や大月氏の大夏によって東方領土は占領されていた。

 ローマとの抗争や、紀元前92年のミトラダテス2世の死などによってパルティア王国が弱体化すると、パルティアの大貴族スーレーン氏族(王族から分岐した氏族)は東方領土に侵入を開始した。
 パルティア人は、ガンダーラ地方でクジュラ・カドフィセス(後にクシャーナ朝の王となる)など大月氏側の多くの地方領主と戦った後、全バクトリアと北インドの広大な領域を支配下に治めた。インド・スキタイ王国は、最後の王アゼス2世が紀元前12年頃に死去するまで存続した。

 ◆建国

 西暦20年頃、パルティア人の征服者の1人、ゴンドファルネスは、パルティアからの独立を宣言し、征服した領域にインド・パルティア王国を建設した。
 インド・パルティア人は、パフラヴァ(Pahlavas)としてインド人に知られており、ヤヴァナ(Yavanas)、サカ(Sakas)とともにしばしばインドの文書に登場する。

 この王国は何とか1世紀ほど存続した。
 王国はゴンドファルネスの後継者アブダガセスの時代には分解を始めた。
 北インド地方は75年頃にはクシャーナ朝のクジュラ・カドフィセスによって再征服された。
 その後、王国の領域はほぼアフガニスタンのみに限定された。

 ◆滅亡

 最後の王パコレス(英語版)(100年 - 135年)の治世には、サカスタンとトゥーラーンを支配するに過ぎなかった。
 2世紀の中央インドの王国サータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)の王ガウタミープトラ・シャータカルニ(Gautamiputra Sātakarni 106年〜130年)は、自らを「サカ(西クシャトラパ)、ヤヴァナ(インド・ギリシア人)、パフラヴァ(インド・パルティア人)を滅する者」と称した。

 〜〜〜《余談》〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ❒仏教のシルクロード伝播

 226年のサーサーン朝による支配の後も、パルティア人の孤立した領土が東方に残存した。
 2世紀から、中央アジアの仏教伝道師は中国の首都洛陽や南京で、仏典の翻訳活動によって有名となった。
 現在知られている限り、最初に仏典を中国語に翻訳したのはパルティア人の伝道師であった。
 中国ではパルティア人はパルティア(安息国)出身であることを表す「安」姓によって識別された。

 シルクロードを通じて仏教は陸路により中国にもたらされた。
 この仏教のシルクロード伝播が始まったのは2世紀後半もしくは1世紀と考えるのが最も一般的である。

 最初に中国の仏僧(完全に外国人)による仏典漢訳が行われたのは記録されている限りでは2世紀のことで、クシャナ朝がタリム盆地の中国の領土にまで伸長したことの結果ではないかと考えられている。
 世紀以降、法顕のインド巡礼(395年〜414年)やそれに次ぐ玄奘のインド巡礼(629年〜644年)にみられるように、中国からの巡礼者たちが原典によりよく触れるために、彼らの仏教の源泉たる北インドへと旅をするようになった。
 仏教のシルクロード伝播は中央アジアでイスラームが興隆する7世紀ごろに衰え始めた。

  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ▶クシャーナ朝

 紀元前1世紀前半に大月氏傘下には貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)の他に四翕侯があったが、カドフィセス1世(丘就卻)が滅ぼしてクシャーナ朝を開いた。
 カドフィセス1世は、カブーリスタン(カブール周辺)とガンダーラに侵攻し支配域とした。
 その子供のヴィマ・タクトの時代にはインドに侵攻して北西インドを占領した。
 カニシカ1世の時代には、ガンジス川中流域、インダス川流域、さらにバクトリアなどを含む大帝国となった。
 カニシカ1世はパルティアと戦って勝利を収めた。

 ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝のシャープール1世に敗北し、インドを失うと、その後もサーサーン朝に攻められて領土を失いカブールのみとなった。
 サーサーン朝のバハラーム2世の時代に滅亡し、その領土はサーサーン朝の支配下でクシャーノ・サーサーン朝となった。

 ▶サーサーン朝

 イラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国(226年〜651年)。
 首都はクテシフォン(現在のイラク)。
 ササン朝ペルシアとも呼ばれる。

 サーサーン朝は、数世紀前のアケメネス朝と同じくイラン高原ファールス地方から勃興した勢力で、その支配領域はエーラーン・シャフル(Ērān Šahr)と呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタンとトルクメニスタン、果てにウズベキスタン周辺まで及んだ。
 更に最大版図は現在のイランとイラクのすべてを包含し、地中海東岸(エジプトを含む)からパキスタンまで、そしてアラビア南部の一部からコーカサスと中央アジアまで広がっていた。

 特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教の神官階層から台頭したこともあり、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。

 サーサーン朝の支配の時代はイランの歴史の最高点と考えられており、多くの点でイスラム教徒の征服とその後のイスラム化の前の古代イラン文化の最盛期であった。
 サーサーン朝は、多様な信仰と文化を容認し、複雑で中央集権化された官僚制度を発展させた。また帝国の支配の正当化と統一力としてゾロアスター教を活性化させ、壮大な記念碑や公共事業を建設し、文化的および教育的機関を優遇した。
 サーサーン朝の文化的影響力は、西ヨーロッパ、アフリカ 、中国、インドを含む領土の境界をはるかに超えて広がり、ヨーロッパとアジアの中世美術の形成に大きな影響を与えた。
 ペルシャ文化はイスラム文化の多くの基礎となり、イスラム世界全体の芸術、建築、音楽、文学、哲学に影響を与えた。

 サーサーン朝の起源は不明な点が多い。
 サーサーン朝を開いたのはアルダシール1世だが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられるサーサーンが何者なのかもはっきりしない。
 サーサーンが王位に付いた証拠は現在まで確認されておらず、サーサーンに関する伝説でも、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族であったとするもの、神官であったとするものなどがある。
 アルダシールの父親バーバク(パーパク)はパールス地方の支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。
 彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、バーバクは間もなくパルティアと戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に収まった。
 そしてバーバクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として興すことになる。

 アルダシール1世は西暦224年に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、エリマイス王国などイラン高原諸国を次々制圧した。
 同年4月にホルミズダガンの戦い(英語版)でパルティア王アルタバヌス4世と戦って勝利を収め、「諸王の王」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用した。
 この勝利によってパルティアの大貴族がアルダシール1世の覇権を承認した。230年にはメソポタミア全域を傘下に納め、ローマ帝国セウェルス朝の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝・トゥーラーンの王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。

 以後サーサーン朝とローマ諸王朝(東ローマ諸王朝)はサーサーン朝の滅亡まで断続的に衝突を繰り返した。
 アルダシール1世の後継者シャープール1世は、対ローマ戦で戦果を挙げた。
 244年、シリア地方の安全保障のためにサーサーン朝が占領していたニシビス(英語版)などの都市を奪回すべくゴルディアヌス3世がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世はマッシナの戦いでゴルディアヌス3世を戦死させた。
 そして、新皇帝フィリップスとの和平において莫大な賠償金を獲得した。
 後に皇帝ウァレリアヌスが再度サーサーン朝と戦端を開いたが、シャープール1世は260年のエデッサの戦いで皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は、馬上の自分に跪いて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。
 そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の諸王の王」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)を号するようになった。

 ◆王位継承問題と弱体化

 シャープール1世の死後、長男ホルミズド1世(ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男バハラーム1世が即位した。
 バハラームの治世ではシャープール時代に祭司長となっていたカルティール(キルデール)が影響力を大幅に拡大した。
 絶大な権勢を振るった彼は王と同じように各地に碑文を残し、マニ教・仏教・キリスト教などの排斥を進めた。
 マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていた。

 バハラーム1世の死後、その弟ナルセと、息子バハラーム2世との間で不穏な気配が流れた。
 既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継に指名されていたが、ナルセはこれに激しく反発した。
 しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世にはホラーサーンの反乱や対ローマ敗戦などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。
 バハラーム2世の死去後、反カルティール派の中小貴族から支援されたナルセはクーデターによって王位についた。
 ナルセ1世はメソポタミア西部やその他の州の奪回を目指して東ローマ軍と戦い、西メソポタミアを奪回。一方でアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。

 ◆統治体制の完成

 その後、王位はシャープール2世に引き継がれた。
 シャープール2世胎児の時から即位が決まっており、彼の母親の腹の上に王冠が戴せられ、兄たちは殺害・幽閉された。
 こうしてシャープール2世は生誕と同時に即位し、サーサーン朝で史上最長の在位期間を持つ王となった。
 少年時代は貴族達の傀儡として過ごしたが、長じるに順(したが)って実権を握った。
 シャープール2世はスサの反乱を速やかに鎮圧し、城壁を破壊。
 また前王の死後に領内に侵入していたアラブ人を撃退し、アラビア半島奥深くまで追撃して降伏させた。
 ローマ軍との戦いでは、363年にクテシフォンの戦いで侵攻してきた皇帝ユリアヌスを戦死させ、アルメニア支配権を握った。
 東方のトゥーラーンではフン族の一派と思われる集団が侵入したが、シャープールは彼らを同盟者とすることに成功した。

 対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建し各地に要塞・城壁を築いて外敵の侵入に備えた。
 また、ナルセ1世以来の宗教寛容策を捨て、ゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教・マニ教への圧力を強めた。
 こうしてシャープールの治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。

 ◆中間期

 バハラーム4世の治世に入るとフン族が来襲したが、バハラームは彼らと同盟を結んだ。
 バハラームの死後、ヤズデギルド1世が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。
 友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下で410年にセレウキア公会議が開かれたためとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったかどうかは判然としていない。

 ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命な王が続いた後バハラーム5世が即位した。
 バハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れてキリスト教徒の弾圧を行ったため、多くのキリスト教徒が国外へ逃亡した。
 亡命者を巡ってサーサーン朝・東ローマ帝国テオドシウス朝間で交渉が持たれたが決裂。
 422年にローマ・サーサーン戦争に敗北し領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束した。

 ◆エフタルの脅威

 425年に、バハラーム5世の治世に東方からエフタルの侵入があった。
 バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でサーサーン朝が勢力を拡大したが、以後エフタルがサーサーン朝の悩みの種となる。
 428年にアルサケス朝アルメニア(英語版)が滅亡し、サーサーン朝アルメニアが成立。

 バハラーム5世の跡を継いだ息子のヤズデギルド2世は、東ローマ帝国のテオドシウス2世と紛争(東ローマ・サーサーン戦争 (440年))の後、441年に相互不可侵の約定を結んだ。
 443年に、キダーラ朝(英語版)との戦いを始め、450年に勝利を納めた。国内において、アルメニア人のキリスト教徒にゾロアスター教へ改宗を迫り動乱が発生した。
 東ローマ帝国のテオドシウス朝がアルメニアを支援したが、451年にヤズデギルド2世がアヴァライルの戦いで勝利しキリスト教の煽動者を処刑して支配を固めた。

 ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。
 ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的打撃を与えることなく457年に世を去った。
 彼の二人の息子、ホルミズドとペーローズ1世は王位を巡って激しく争い、ペーローズはエフタルの支援で帝位に就いた。

 458年にサーサーン朝アルメニアでゾロアスター教への改宗を拒むマミコニアン家の王女が夫Varskenに殺害された。
 エフタルの攻撃を受けサーサーン朝が東方に兵を振り向けていたため、イベリア王国の王ヴァフタング1世がこの争いに介入してVarskenも殺された。ペーローズ1世はアードゥル・グシュナースプを派遣したが、ヴァハン・マミコニアンが蜂起してヴァフタングに合流。アードゥル・グシュナースプは再攻撃を試みたが敗れて殺された。

 ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく469年にエフタルを攻めたが、敗れて捕虜となり、息子のカワードを人質に差し出しエフタルに対する莫大な貢納を納める盟約を結んだ。
 旱魃により財政事情は逼迫、484年に再度エフタルを攻めたが敗死した(ヘラートの戦い》。
 485年にはヴァハン・マミコニアンがサーサーン朝アルメニアのマルズバーンに指名される。

 488年に、人質に出ていたカワード1世(在位:488年〜496年、498〜531年)がエフタルの庇護の下で帰国し、帝位に就いた。
 しかし、マズダク教の扱いを巡り貴族達と対立したため幽閉されて廃位された。
 幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込み、498年に復位(重祚)した。
 同年、ネストリウス派総主教がセレウキア-クテシフォンに立てられた。
 カワード1世は、帝位継承に際して貴族の干渉を受けないことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。

 502年に、カワード1世はエフタルへの貢納費の捻出のため東ローマ領へ侵攻し(アナスタシア戦争)、領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。
 この戦いがen:Byzantine–Sassanid Wars(502年〜628年)の始まりであった。
 526年に、イベリア戦争(526年〜532年)が、東ローマ帝国・ラフム朝連合軍との間で行なわれた。
 530年、Battle of Dara、Battle of Satala。
 531年、Battle of Callinicum。

 ◆最盛期

 カワード1世の後継者ホスロー1世(在位:531年〜579年)の治世がサーサーン朝の最盛期と称される。
 ホスロー1世は父の政策を継承して大貴族の影響力の排除を進め、またマズダク教制して社会秩序を回復させ、軍制改革にも取り組んだ。
 とりわけ中小貴族の没落を回避するため、軍備費の自己負担を廃止して武器を官給とした。
 一方、宗教政策にも力を入れ、末端にも聖火の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。

 一方、東ローマ帝国ではキリスト教学の発展に伴う異教排除が進み、529年にはユスティニアヌス1世によってアテネのアカデミアが閉鎖された。
 ゆえに失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスローは彼らのための施設を作って受け入れた。
 それ以前に、エジプトでも415年にヒュパティアがキリスト教徒により殺され、エジプトからも学者が数多くサーサーン朝に亡命した。
 この結果、(ギリシア語、ラテン語)の文献が多数翻訳された。

 ホスロー1世からホスロー2世の時代にかけて、各地の様々な文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。
 宗教関係では『アヴェスター』などのゾロアスター教の聖典類も書籍化され、この注釈など各種パフラヴィー語文書(『ヤシュト』)もこの時期に執筆された。
 『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献の基礎はこの時期に作成されたと考えられる。
 現存しないが、後の『シャー・ナーメ』の前身、古代からサーサーン朝時代まで続く歴史書『フワダーイ・ナーマグ』(Χwadāy Nāmag)は、この頃に編纂されたと思われる。

 タバリーなどの後代の記録では、ホスロー1世の時代から(主にホスロー2世の時代にかけて)天文・医学・自然科学などに関する大量のパフラヴィー語(中期ペルシア語)訳のギリシア諸文献が宮廷図書館に収蔵されたことが伝えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面のサンスクリット諸文献も積極的に移入・翻訳されたという(この時期のインド方面からの文物の移入については、例えば、チェスがインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられているパフラヴィー語のシャトランジの歴史物語『シャトランジ解き明かしの書』(チャトラング・ナーマグ、Chatrang-namak)もホスローと彼に仕えた大臣ブズルグミフル・イ・ボーフタガーン(ペルシア語: بُزُرْگْمِهْر بُخْتَگان‎、転写: Bozorgmehr-e Bokhtagan)の話である)。

 5世紀前後からオマーンやイエメンといったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、イラク南部のラフム朝などの周辺のアラブ系王朝も傘下に置いた。

 ホスロー1世は、ユスティニアヌス1世の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。
 ユスティニアヌス朝との間に50年間の休戦を結ぶと、558年に東方で影響力を拡大するエフタルに対して突厥西方(現イリ)の室点蜜と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案だったエフタルを滅亡させた。
 一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが、588年の第一次ペルソ・テュルク戦争で対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土拡張は一部に留まった。
 569年からビザンチンと西突厥は同盟関係となっていたことから、ビザンチン・サーサーン戦争 (572年〜591年)を引き起こした。

 ◆滅亡

 ホスロー1世の孫ホスロー2世は即位直後に、東方でバフラーム・チョービーンの反乱が発生したため東ローマ国境付近まで逃走し、王位は簒奪された。東ローマのマウリキウスの援助で反乱を鎮圧したが、602年に東ローマの政変でマウリキウスが殺されフォカスが帝位を僭称すると、仇討を掲げて東ローマ・サーサーン戦争を開始、フォカスは初戦で大勝を収めたが、610年にクーデターでヘラクレイオスが帝位に即き、ヘラクレイオス朝を興した。

 連年のホスロー2世率いるサーサーン朝軍の侵攻によって、613年にはシリアのダマスカス、シリア、翌614年には聖地エルサレムを占領した(エルサレム包囲戦)。
 この時エルサレムから「真なる十字架」を持ち帰ったという。

 615年にエジプト征服(英語版)が始まり、619年に第二次ペルソ・テュルク戦争(英語版)が起こった。
 621年にサーサーン朝はエジプト全土を占領し、アナトリアも占領して、アケメネス朝旧領域を支配地に組み入れた。一時はコンスタンティノープルも包囲し、ヘラクレイオス自身も故地カルタゴ逃亡を計ろうとした。

 しかし、622年にカッパドキアの戦い(英語版)でヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部メソポタミアへ侵入した。
 サーサーン朝はアヴァールと共同でヘラクレイオス不在の首都コンスタンティノポリスを包囲し、呼応して第三次ペルソ・テュルク戦争も起こったが、撃退される(コンスタンティノープル包囲戦)。
  627年に、サーサーン朝軍はメソポタミアに侵攻したヘラクレイオス親征の東ローマ軍にニネヴェの戦いで敗北し、クテシフォン近郊まで進撃された。
 ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、628年にクテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子のカワード2世に裏切られ殺された。

 カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なく病死して王位継承の内戦が発生した(サーサーン内乱)。
 長期に渡る混乱の末に、29代目で最後の王ヤズデギルド3世が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部におけるディジュラ・フラート河とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗した。
 そこに新興の宗教イスラム教が勃興しサーサーン朝は最期の時を迎えることになる。

 アラビア半島に勃興したイスラム共同体は勢力を拡大し東ローマ・サーサーン領へ侵入。
 633年にハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻(イスラーム教徒のペルシア征服)、現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。
 翌634年にハーリドがシリア戦線に去ると、イスラム軍は統率を失い、進撃は停滞、ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、サーサーン朝によるイラク防衛は成功するかに見えた。
 しかし、同年のアブー=バクルの死によるカリフ(正統カリフ)のウマル・イブン・ハッターブへの交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラム軍の指揮系統は一新され、636年のカーディシーヤの戦いで敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は逃亡、サーサーン朝領では飢饉・疫病が蔓延したという。
 クテシフォン北東のジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。

 641年にヤズデギルド3世はライ、クーミス、エスファハーン、ハマダーンなどイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対するウマルも軍営都市のバスラ、クーファから軍勢を招集する。

 642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン軍とイスラム軍は会戦し、サーサーン軍は敗れた。
 敗戦後はエスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、エスファハーンも643年から644年にかけてイスラム軍に制圧された。
 ヤズデギルド3世は再起を計って東方へ逃れケルマーンやスィースターンへ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなり、ホラーサーンのメルヴへ逃れた。
 しかし、651年にヤズデギルド3世はメルヴ総督マーフワイフの裏切りで殺害され、サーサーン朝は完全に崩壊した。
 東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、
 さらに唐の助勢を求め、自らが長安まで赴いて亡命政府を設立したが、成功することはなかった。
 『旧唐書』には大暦6年(771年)に唐に真珠を献上した記録があり、このころまでは亡命政府は活動していたようである。

 サーサーン朝の滅亡は、ムスリムにとってはイスラム共同体(帝国)が世界帝国へ発展する契機となった栄光の歴史として記憶された。

 〔ウィキペディアより引用〕




最新の画像もっと見る

コメントを投稿