昨日はしろとの別れの日。朝の5時前には目が覚め、しろの脇でワインを飲みながら思い出を辿っていた。家の周辺を一巡して最後に景色を見せてあげたかったけれど、外はあいにく雨がパラついていて寒かった。お気に入りの出窓では何時間でもごろごろしていたものだが、そこから臨むいつもと変わらない筈の景色も寂しく映る。
ほんの1週間前にはこんなことになろうとは予測もつかずに無防備でいた自分が情けなく、何よりしろに申し訳ないという自責の念でいっぱいだ。何かまだしてあげられた事があったかも知れないという漠然とした後悔だ。そして、火葬の予定も2日前に決まって分かっていた筈なのに、いざとなると胸が締め付けられる思いは堪え難さを増し、指先の関節まで病む感覚を覚える。ボトルが空き、ほどなく定刻が訪れ、いよいよ家を起つことになってからも躊躇してしまった程だ。
午後3時にはお骨を拾い、家路に就いた。朝よりは心の靄(もや)が晴れている気がしたが、同時に、車に差し込んでくる日差しも、ここ数日にない程、強く燦々となっていた。ようやく家に着くと、ポッケは骨壺の入った袋の白い房で遊んでいる。するとたまにカチャッと壺のふたが擦れる音に驚き、慌てて体を引っ込める。涙目になりつつも笑みがこぼれる。ねこはやはり、愛すべき生き物だ。
しろはねこにしては珍しく悪さをしなかった。もっとも、一度神経性の病気を煩って以降は人の膝にジャンプする事も出来なかったし、歯はとうに無かったし、アクティブに動かないので爪もとんがらない。つまり、何に対しても反撃出来ないことを自覚しているかのようだった。だから、ボクも過保護にするきらいがあった。ポッケはさっきコップを割った。そういうのがある度に、しろの良さがいよいよ際立つのだ。
こうしてブログに幾ら思いを綴ったところで、それは飼い主の自己満足のほんの足しに過ぎないが、それは或る意味において人間にもいえる事かも知れない。だからこそ、生あるうちに、なるべく悔いの残らないような接し方を心がけるのが肝要なのだろう。それは、相手に対してだけでなく、必ず自分に還って来るという事だ。
ねこは人間に言葉を介して意思を伝えるすべがない。もっとも、それ故のもどかしさも魅力の一つであるわけだ。が、そういう事情を抜きにしても、永遠に解り合うことなど無いのかな?と考えるようになった。表層的な部分にのみ終始して解り合っていると思い込むのは飼い主の勝手であろうし、ボクもかつてはそのように思っていた。その方が自分にとって都合が良いからである。しかし同時に、真の意味で解り合うという事の困難さにも気づくようになった。そのような思いは、この十余年の間にボクにとってのねこの存在というものが、単なる愛玩動物ではなく家族の一員であるという意識が強くなればなる程、強くなっていった気もする。互いの求めるものの位相はまるで異次元で、まさに援助交際の如き絶妙にバランスしているだけなのかも知れない。繰り返すが、分からない事だらけだからこそ愛おしいのだ。冒頭で後悔していると書いたが、ひょっとしてそれさえ何も思っていないかも知れないし、或いは不条理な別な事で腹を立てているかも知れない(w。
はっきりしているのは、お互いずっと楽しかったという事だ。しろもまんざら居心地が悪ければウチに居すわる事もなかっただろう。そう、ボクはしろに選ばれし者だったのだ。これからしばらくは色々な忘れかけていた事も次々と蘇ってきて、ボクは辛い日を送る事になるだろう。でも、しろが安らかであればそれで全てが救われるよ。
長い間ありがとうね、しろ。ゆっくりしてね。じゃぁねバイバイ、しろちゃん。
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(2009.5.23 転載)