ようこそクッキー 中山本店 

毎日食べたもの、飼い猫のことなどを綴っています。

ノラ猫を考える。vol.7(猫ご飯2

2009年05月30日 | ねこ・散歩
最近はビールの飲み過ぎが祟(たた)ってか、またしても心なしかお腹の肉がたるんできました。ビールは一晩で500ml缶一本までと自主規制をして、適度に食後の運動を兼ねて動き回る事にしました。昨晩は10時過ぎから散歩をかねてノラ達にご飯をあげにいきました。近所の飲み屋などの人達は意外にノラ猫達には理解があって、ご飯をあげる方もおられます。寿司屋のおばさんに至っては、猫が食べるには余りに豪勢なご飯ばかりあげるものだから、開店前から店の前に猫達が行儀良く列をなしていたりします。決して店内に入っては来ないそうですが、猫を立ち止まって見ていた機嫌の宜しい客がそのまま店へ入って来るなんていう事はあるそうで、ウチの招き猫ですよと嬉しそうに仰っておりました。最近耳にする地域猫活動といわれる試みも駅の反対側ではありますが法華経寺という大きなお寺さんが主導でやってくれていたりします。心強いと共に、ほかの地域に比べればこの辺りの猫達は恵まれているのかも知れないなぁと思いました。

さて、ボクが行くところには大体いつも同じ顔ぶれの奴らが居るのですが、ご飯をあげに来る人が勝手に名前を付けて呼んでいることがままあります。実際には同じ猫に異なる名前が幾つも付けられているかも知れないわけで、笑えます。だってそもそも、どんな言葉を発しようと猫には知った事ではないからです。昔つきあっていてフラれた女の名前を呼ぼうが、咳払いをしようがみんな振り向くのですから。ボクは名前は付けていませんが、何度も会っていると見た目の違いだけでなく、声や性格の違いも自然とおぼえてしまいます。お前、昨日はあっちで会わなかったか?というようなマルチで現れる行動範囲が広い猫もいます。中には気の弱い、或いは要領の悪くていつも食いっぱぐれるヤツも必ず出てきます。そういうのを見ていると、クッキーは今頃恐らくそういった味噌っかすチームだろうな・・などと苦笑してしまいます。だから、たとえまだ先着の猫が食べている途中でも周りで順番待ちしているドン臭い猫に強制的に皿を回してあげたりすることもあります。たまに怒る奴もいますけどね(笑。

街には至る所にえさ場がありますが、昨日も新しい場所を一つ見つけました。猫の関心のある音を発しながらボクが通りかかると、けたたましく鳴く奴が1匹だけいたので気付きました。そこには4匹居ましたが、まあ、何処にでもおしゃべり系の猫は居るものです。ずっとしゃがんで3分程様子を見ていると足がくたびれてきたので地べたに座りました。すると、まだ1歳程度の黒い子猫が興味津々な様子で寄ってきました。寄ってきてもボクはあまり積極的に触りはしません。何故なら、家に帰るとその臭いにポッケちゃんが100%勘付いて怒るからです。モテる男は辛いとはこの事です。右手で触ると怒るけど、左手だとペロペロ舐めてくることがあったので、ひょっとして?と思ったのですが、見事にバレるんです。不思議なものです。ところがその黒猫は身体ごとこすりつけてきます(笑)。

ひょっとしてここの奴らはまだご飯にありついていないのかな?と思いましたが、あいにくご飯皿は既に他のえさ場ですっからかんになってしまっていました。仕方がないのでごはんをとりに家に行ってきました。再び戻った時には3匹になっていましたが、2匹はむしゃむしゃ食べました。もう一匹は車の下にうずくまったまま偶に鳴きますので、ホレ今度は君の番だと皿を差し出した時です。逃げようとして歩き出したのですが、手にも足にも力が入らないのかヨロヨロとしているのです。急にボクが立ち上がったせいか、食べ終えた2匹もビックリしてあっという間に走って逃げてしまいました。同じ方向へその1匹も必死で逃げようとするのですが、おばあちゃんの歩よりもずっとノロく、足を踏ん張る度にミャーと悲痛な声をあげます。

ボクは咄嗟に具合を診る為に近くに寄っていきたい気持ちになりましたが、しかし、思いとどまりました。そいつを捕まえてウチで保護する事も一瞬だけは脳裏を過りましたが、さてそんな事をし出したらキリがありません。また偽善ぶって連れ帰っても・・。今、いたずらに追いかけても何も出来ないのなら、なまじっか何もするべきではないと思ってしまったのです。

猫達がみんな見えなくなってからの帰り道、ちょっとブルーが入った状態で小学校の正門のあたりまで来ると、いつもの奴がすり寄ってきました。こいつはお腹が一杯の時でも愛想が良い奴です。ふとその脇を見ると、ポッケの兄ちゃんが遠征して来ているのに気付きました。こいつも一応は飼い猫なのにどうしてこんなところまで来ているんだよ・・。飲み屋から出て来たフラフラの酔っぱらいが、店の前に見送りに出た年増の女将(おかみ)に大声で何か言っています。「愛しているよ~!だからまた来るね~!おやすみ~っ。」

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ノラ猫を考える。vol.6(猫ご飯

2009年05月25日 | ねこ・散歩
ここんとこ、いつも写真も載せないのに沢山のアクセスを頂き、恐縮です。猫ちゃんかわいいね~的な内容に終始するものを書ければ幸せなのですが、期待に添えず申し訳ない・・。そのうち、勘弁してくれという程の沢山のノラを載せますよ!

ボクは今も猫を飼っていますが、それが飼い猫かどうかということがあまり問題ではありません。10年程前に拾った子猫をクッキーと名付け、恐らく飼った中で一番愛した猫でありました。でも、ボクの不注意でまたノラ猫になりました。人間がどのような目録を付けようと、どれだけ高いご飯をあげようと、病院で手厚い看護を施そうと、猫本人は人間に対して極めてドライだなと教えられました。猫は好き勝手にします。でも、そんな猫が増々手強くて好きだと思ってしまう事自体、それは人間の何かしらのエゴなのかな?とさえ思う事もあります。

しろの使っていたご飯皿が、クッキーの使っていたご飯皿が、今もなお冷蔵庫の上に置かれています。これが意味するものは何なのか?今、もう自分の近くに居なくなってしまった猫のごはん皿を取っておいたところで、何を期待するというのか?

夕刻、ビールを買いにコンビニへ向かう途中、クッキーを拾った駐車場に猫が4匹いました。急いでビールを買って家に置くと、しろの使っていたご飯皿に山盛りのご飯を作って自転車の前かごへ入れ駐車場へ向かいました。駐車場に着くと、猫は7匹に増えていました。序列があるのか、いつも大体同じ順番でむしゃむしゃ食べます。いつも、もしクッキーがどこかのノラチームに入っていたら、こんな風に誰かご飯がくれる人がいて欲しいという思いが頭をかすめながら、じっと奴らが食べ終えるのを見守ります。

ここともう一カ所の計2カ所でたまにボクはごはんをあげるのですが、それぞれ他にあげている人がおります。ここの駐車場の方とは何度か一緒にご飯をあげてお話もしています。どうやらそこでは誰か分かりませんが他にもたまにご飯をあげる方がいる形跡があるとのことでした。ところが、ご飯をあげた際のその空容器が散乱している事があり、駐車場の契約者に注意を受けた事があるそうです。それ以来、ご飯をあげた後には必ず、自分が使った容器ではなくてもゴミ拾いが欠かせないと嘆いていました。たとえマナーが悪くとも、ご飯をくれた事には感謝しなくてはなりませんから、ボクもするようになりました。管理費をもらうに値する仕事ぶりです、少なくとも不動産屋よりはね。

そこにいる猫の中で2匹のお腹が大きくなっているようで、これを産み終えたら病院へやって不妊手術をするとおっしゃっていました。さすがに個人でそのように出来るのは余程の経済的な余裕があるのだろうと思い、ボクには真似出来ませんよと言いますと、とんでもない、旦那にも家族にもあまり良くは思われていないと返ってきましたが、大体そういう事を言う方は笑顔です。

見ると、猫達はご飯が済んだ様なので皿を引っ込めようと手を出したとたん、指を引っ掻かれた上にシャーッと怒られてしまいました。俺が何か悪い事したかよ!と思いながら、ごめんごめんと血がにじむ指を見ながら謝りました。

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ノラ猫を考える。vol.5(猫という存在

2009年05月22日 | ねこ・散歩
猫や小さな動物の死に接することは、ボクの場合、時として人間の死よりも堪えるものがあります。晩、ご飯を食べながらTVを観ていると毎日の様に理不尽なことで亡くなる人が世界中のどこかでいることを知ります。しかし、痛ましい出来事だと思いつつも涙が流れる程の切実な悲しみには至りません。少しの間その事を考えながらもご飯を食べ続けてしまいますし、仕舞いにはそんな事も忘れ、心地よく寝てしまいます。何故なのでしょう?

身内でないからという理由はボクの場合当てはまらないのです。父親が死んだ時でさえも自分がそれまで想像していたより冷静でした。20歳の時、親友の幼なじみの訃報を聞いた時にはショックで小一時間程泣きました。24歳の時、大学時代に一緒にバンドをやってたヤツに逝かれた時は泣くというより呆然となりました。そうやって血縁のある者、親しかった者との別れを経験しているうち、そんなものなのだろうと受け入れる事自体に慣れますが、犬猫などは未だにダメなんですね。今回の様に保護した翌日とかほんの僅かな間一緒にいるだけでもしばらくへこむのであります。里親が見つかるまでのほんの数週間いただけでさえも、いざ引き渡しとなると胸が締め付けられるものがあります。勿論、死ぬわけでもないのに。こういったところは小学生の時から殆ど変わりません(^^;。

考えるに、それは人間は他の生き物に比べて強かったり知恵が備わっているからでしょうか。すべからくこの世の中は人間の都合の良い様に形づくられ過ぎている様にも思いますが、そういった環境だからこそ人間は自分のしたい事を自らの責任に於いて出来てしまいます。弱い者が淘汰されるのはどの世界でも同じかも知れませんが、殊そういった社会環境で猫が共に生活するにはフェアでなさ過ぎる気がするのは、ボクの社会性が欠落しているか、或いは単にネコ好きの度が過ぎているからでしょうか。でもボク自身は人間不信でもなければ人間嫌いでもないのです。

ノラ猫など迷惑以外の何者でもないと考える人も多くいます。駐車場のノラ猫に餌をやると増々猫は増え、仕舞いにはウチの車のボンネットに足跡を付けたとか苦情を訴える人がいます。猫に小便を掛けられた鉢植えが枯れたと文句を言う人がおります。そんな心が狭くセコい人間をボクは嫌いですので、正直うせてくれと内心は思うわけですが、猫が嫌いな方に好きになれとまでは申せません。しかし、あらゆる部分で人間の方が上だと本気で思うのなら、下をいたわるくらいの余裕というかやり過ごす優しさがあっても良いのではないでしょうかね?第一、想像してみて下さい、外に出てもノラ猫の一匹にも出くわさない、人間しか歩いてない街などかえって気味悪くありませんか?

ボク自身はノラ猫達にそんなに日常的にご飯をあげる習慣はありませんが、中にはボランティアとして組織的に、或いは個人で活動をされている方も居ります。基本的にこういった人達が好きです。しかし、これが現状では全く問題を孕(はら)んでいないとも思いませんのでボク自身は組織的な活動には加わりません。これに関してはいずれ言及する事もあるかと思いますが。いずれにせよ、猫の嫌いな人と好きな人の折り合いをどういった風につけるかということが一番大切だと感じる一方で、一番難しい部分でもあるなという実感があります。

猫が好きでも、その温度感や接し方は多種多様ですから、社会における責任の重みといったものもケースバイケースなのだろうと思います。今回保護した子猫の親猫に餌をあげていた家は立派な一軒家でしたので、不妊手術、或いは病気の治療を出来ない程困窮しているとは考えにくい印象がありました。車庫にはカルカンの空き箱が山積みされてましたし・・。近所の河原では経済的に厳しいであろう浮浪者が猫をかわいがっています。今回の子猫が浮浪者の猫だったらどうでしょう?この両者を同列に一律に非難することはボクには出来ません。起こりうる不幸な事に対して事前に、その人の出来る範囲で取り組むだけで、つまりそれなりに注意なり金なりを払うことで回避出来る事は随分あるように思います。

強いという事はどういう事かを考えてみると、弱い者を他から守るという類いのものもあるでしょう。そして、少なくとも人間が猫よりも本当に強いのなら保護する立場でありたいと思います。ノラ猫たちは決して金に困って人を襲ったり老人に孫を装って電話もしませんし、長生きしようとか将来の幸せなどを欲しているわけでもありません。選挙権が欲しいともいわないし人の野心を打ち砕く障壁になるような好ましくない存在とも成り得ないでしょう。その日一日だけ、どうやってその空腹を満たし、どこで雨風をしのぐかといった事の連続だけのように見えます。なのに何故、たったそれだけの望みさえ叶えてやろうとしない人も多いのでしょうね。

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ノラ猫を考える。vol.4(再会

2009年05月20日 | ねこ・散歩
もう今頃、二匹の兄妹猫たちはまた逢えた頃でしょうか。自転車をこいでいたら、ペダルのきしむ音が子猫達の鳴き声に聞こえてしまいました。こんなに天気が良いのに気分はどんよりしたままです。今日は、今までの出来事をもう少し詳しく書いてみます。

昨日ボクは、彼らを見つけた場所で呆然と立ち尽くしていました。辛かったらそんな場所にはまだ行かなければ良いのに、何故か自虐的なところがあります。そこで見覚えのあるおばあちゃんと会いました。実は猫たちはある一軒家と金属製の柵のほんの僅かなスペースの土の上に居たのですが、そこの家のおばあちゃんです。人が入れなくもないのですが、実際、猫たちを柵の隙間から手探りで取り出してくれたのはそのおばあちゃんなのです。

どうだった?と訊かれ、ダメでしたと答えると、やっぱりそうでしたかと残念そうな表情をされました。そして、今回はあなたに全ておしつける事になってしまい、そして辛い思いをさせて済まなかったと詫びられた後、実はこれが初めてではないのだと何やら意味ありげな口調で話を始めました。その口調がどうやら誰かに腹を立てた様なあきれたような感じなので、初めはノラ猫に迷惑しているものとばかり思っていました。やがてそこにその隣の家のおばさんも加わり、ここいらで起こる猫騒動の話になりました。

ボクは胎盤の付いたへその緒を切ったのは初めてですと言うと、おばあさんの家でも保護した事があって、その時には同様にそれを娘がやりましたと、忌み嫌ったような顔つきでおっしゃいます。通常は親猫が真っ先にへその緒をかみちぎり、胎盤は食べてしまうそうですが、それが付いたままだったのです。そして、この気候ですから腐敗した胎盤は生臭く、すぐにハエがたかってきてしまう状態でした。親猫は自分の事で精一杯なのかもしれないと勝手に思いましたが、まあ、親猫の都合を考えたところでへその緒を切るのは決して楽しくない事だけは確かです。

母猫を見た事がありますが、目やにと鼻水に顔中覆われ、口からはヨダレが垂っていました。右目は白濁している様にも見えましたから、ひょっとして視力を失っていたかも知れません。ゼイゼイと胸で息をつく様は哀れで、出来る事なら病院にだけでも連れて行って薬を処方して貰いたいと思った程です。そんな境遇でさえも子供を作る事は本能ですから、猫を非難したところで何も始まりません。

隣のおばさんが手招きするのでそちらへ行くと、この猫でしょ?と指差します。なんと、近くの家の門戸の脇に座っているまさにその猫なのです。人が近づいても逃げませんから、ここの家の飼い猫なのですか?と尋ねました。すると、実質はそうなのだと言います。餌は与えるけど決して家の中にはあげないのだそうだ。まあ、賛否があるかも知れないが、そういうスタイルをボクは否定しない。問題は、病気になろうと妊娠しようと病院へはやらないで放置している点だと言う。そのおばあさんの家でも猫を飼っているらしく、避妊を勧めたり何度もアドバイスしているのだが、一向に必要ないと放置しているらしいのだ。迷惑なのは近所です。庭に産み落とされた子猫の亡きがらを保健所へ搬送したり、運良く育った子猫の里親探しやらで、結局周囲が負担を強いられるのだという。色々な考えの飼い主が居るのは不思議ないが、無責任過ぎる。そして何より猫が可哀想だと思ったのは言うまでもない。

当然、そういった病気をもった状態の猫から産まれる子猫もウイルスに感染しますので、絶望的です。妹猫は拾った時、体温が低いだけでなく、口や鼻に泥が入り込んでいました。首の周りには寄生虫の大きなたまごがぎっしりと植え付けられており、猫グシでほろい落とすのさえ結構な時間を要しました。その時既に鼻水をクシュクシュしていたので、気にはしていましたが・・。

保護の翌日の昼、お兄ちゃんは亡くなりました。それから二日後の朝から容態が悪かった妹は、夕方にはとうとう血尿が出てしまいました。猫が口を開いて呼吸する時はよほど苦しい時です。生あくびを何度もしましたし、器官が圧迫されて酸欠になっているようにも見えました。スポイトで口を湿らせてもだんだんと反応が弱くなっていきました。呼吸が苦しい様子はお兄ちゃんの時と似ていました。あったかマットに乗せていてもキーキーと声にならない声で鳴きます。手のひらに乗せると鳴き止みますのでずっと乗せていましたが、その苦しむ姿を見ているうち、頑張って欲しい気持ちと、もうこれ以上頑張らなくていいよという相反する筈の思いが交錯していました。この子猫に一体何の罪があるというのでしょう。生まれながらにそういう運命を背負って生を受けたというのは、あまりに厳し過ぎます。

ノラ猫の子供の1年間生存率は一説によると1~2割程度とのことです。多少のズレはあるにせよ、概ねそんなオーダーなのでしょう。街で1匹の猫に出会ったら、4~5匹は人知れず死んでいる事になります。それらを人間の手でどうにか救うことが出来るかというと、出来ない事の方が多いのでしょう。環境だけでなく、どんな親ネコから生まれたかという事が運命に大きく作用する気がするからです。ネット上で人間の手に依って育てられた成功談を一つみると、あたかもみんな成功しているかの如き錯覚を覚えます。しかし、少なくともボクの周囲では成功した人を知りません。

今回の様な苦い経験をすると正直なところ、出来る事ならそんなノラとの出会いは勘弁です。しかしながら、「小さな命」という頂いたコメントの通り、幾ら小さくとも命である以上、十中八九はダメと分かっていても、自分が悲しむ役になると分かっていても、また手を差し伸べてしまうだろうなぁと思います。でも、この行動が正しいのかどうかは、実はヘビーなテーマなのでボクの中では答えを見出せずにいます。

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ノラ猫を考える。vol.2(妹

2009年05月18日 | ねこ・散歩
亡くなった方の子猫、恐らくお兄ちゃんだと思いますが、まだ目も開く前にまた暗いところへやってしまったと思うと胸が痛みます。全部で何匹兄弟かは分かりませんが、2匹ということはないでしょう。とにかくウチへ来た二人の兄妹がこんな形で別れなければいけないという現実を目の当たりにすると、涙が出ます。亡きがらに寄り添って眠る妹猫をなかなか離す事が出来ませんでした。

二人とも保護した時には信じられないくらい身体が冷たい状態で、およそ生きているのが不思議な程の体温でした。妹猫はカゼをひいているのかくしゃみを連発します。猫用の保温マットなどで体温を保てるよう暖かくしてはありますが、不安です。昨日の朝、お兄ちゃんの容態がおかしいと気付いてすぐ、時間外でしたが病院へ連れて行きました。その時、概ね360g未満の子猫の診療は難しいと言われました。お兄ちゃんは100gでした。何が原因かを特定出来ないケースも多く、生まれながらに疾患を持った子猫もいるそうです。そして、その医者自身も今回と似たケースの子猫の育成には失敗しているそうです。しかし、期待するなと言われた時でさえ、このお兄ちゃん猫は元気になるだろうと高を括っていました。それから僅か4時間後には短過ぎる生涯を閉じてしまいました。

原因は分からなかったのですが、朝の1時、4時半にミルクを飲んで容態の異変に気付いたのは8時頃でした。口で呼吸し始めたところをみると、兄ちゃんもカゼをひいていたのかも知れません。幾らでももっともらしい原因を考える事は出来ても、憶測に過ぎません。いずれにせよ、もっと緊張感を持って接しなくてはならない時期であるのは確かでしょう。

もう、起こってしまった事の何を悔いても変わるものでもありません。何が何でも残された一匹を死なせたくありません。しかし、そう思ってはいても、じゃあ、くしゃみを止める事が出来るかというと、それすら誰にも出来ません。兆候に気付いていながら、病院さえも無力だと知ると、いよいよこの子の体力、運、そして神頼みという事になるのでしょうか。ボクがするべきことは排泄の補助、ミルクを適切に与える事、環境を整えて極力それを監視する事だけというのは、猫に対して申し訳ない事であります。ただ手をこまねいて祈るだけというのは、自分にとって辛過ぎます。

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ノラ猫を考える。vol.1(ねこカテゴリー復活。

2009年05月17日 | ねこ・散歩
先日、生後間もないノラ猫を2匹保護しました。しかし、翌日、元気な方の容態が急変し、あっけなく死んでしまいました。もう一匹(胎盤がついた状態でした)は初めはダメかと思ったのですが、元気を取り戻しました。病院やら知人、ネットなどでおおよそ有益と思われる情報は得ていたつもりなので、こんなことになりショックです。外で生活するノラ猫、そして生まれる子どもの寿命や生存率は本当に過酷な現実です。とはいえ今度ばかりは、長年猫を育てたり飼った経験が知らず知らずのうちに自分を自信過剰にさせ引き起こした過失ではないかと自らを責めると共に、自分が無力で情けないのだと思い知らされました。放っておいたことで仮にその子たちが死のうとも、自然の摂理として受け止めた方が良かったのかな?と、保護した事を少し後悔しています。万が一、親が戻ってきて育てていたらまた違った結果であったかも知れませんし、仮に亡くなろうともその道を選択すべきであったと。少なくとも、保護したつもりなのにこの失態を招いた偽善者の手元に渡るよりは良かったのかもしれないと考えるとやりきれません。でも、もはや今となっては後戻り出来ません。いよいよ残された一匹だけにはちゃんと育って欲しいという思いで一杯です。まだ、90gですので随分と危険圏内です。そんなわけで、まだ当面写真を公開する気持ちになれません。かわいいのですが、非常に重圧で、かわいがる余裕などありません。ここで書く事さえ気が退けてしまいます。写真は無事育った時には公開しますので数週間お待ち下さい。

猫の別ブログ(ねこねこ天国)のパスワード忘れ等などで、こちらに統合を計画していた矢先、書きたい事が膨らみ過ぎてまとめられずにいるところに今回の出来事です。まあ、話は前後してしまうことが多々あると思いますが、少しずつ断片的にでも書いていこうと思っておりますので、よろしく。

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