それから2日後のこと、アッと思わず声が漏れそうになるくらい驚きました。
チビクロが戻ってきていたのです。そして案の定、横たわったそのお腹の周りには
小さな生命体がモゾモゾしていました。予想していたとはいえ実際にそれを
目の当たりにすると、いよいよ何かが始まってしまったんだなという思いに駆られました。
若い子が子猫は全部で4匹いるようだと教えてくれました。チビクロは入り口に置いてある
置き傘の林立する傘立ての中で子猫と寝ていました。よりによってそんな窮屈な場所に。
会社の置き傘などどれも価値のない同じようなビニール傘ばかりです。ビニール傘とは
所有者に所有権があるようでいて実は誰にも無いも同然なんだよ、などと無茶な理屈をこねて
20本程捨てただろうか。苦情がないのはまんざら間違ってもいないってとこだろう
いずれにせよ、だいぶ居心地が良くなったはずだ。次にそこを訪れると誰かがタオルを敷いてくれていた。
今までにもこういう場面には何度も出くわしているけれど、だいたいは同じ筋書きで話が
展開されることになるのだ。このつかみどころのないどんよりしたロシア映画みたいなのを
どうにかしてハッピーエンドのハリウッド映画みたいに出来ないものだろうか?
誰かスピルバーグに頼んでくれよ。
根拠こそ不明ですがノラ猫の子供の1年間生存率は10%程度だという話しを巷で目にします。
この数字の真偽の程を問われると、僕にもなんとなくやはり当たらずといえども遠からずかも?
などという実感があります。
心を覆い尽くすこの悲観的な気分はもちろん過去の辛い経験に因るものなのですが、それとは別に
生まれたばかりの子猫は掛け値なしにかわいいものです。まぁ猫に限ったことではないでしょうけれど。
このかわいさにはとにかく有無を言わさないものがあります。同時に、それを懸命に育てる
母猫の姿にも心をわしづかみにされます。そしてやがてそこに自分の母親の姿を
投影してしまっていることに気付くのです。母親とは愛おしくも有り難い存在なんだよね。
なんてなことを普段の生活ではマジメに考える機会などそうそうあるものでもないのですが、
そのときばかりは猫たちをみていたら自然とそんな心持ちに至っていたのでした。
実は僕はその生まれたばかりの子猫たちの写真を撮りました。けれども先述の通り、
生き延びる確率は極めて低いという現実を思うと、後になって見るのも辛い写真を
今まさに撮っているのだという自覚、覚悟のようなものがありました。
ラブラブでディズニーランドで撮った写真ほどフラレた後に見て始末の悪いものはないだろ?
まぁ強いて言えばそれに似ているかな。
逆に毎日眺めては泣き暮らすという荒療治でその窮地から脱する人もいたけどさ。
おいしいものを食べたいという積極的な欲求とマズいものを食べたくないという消極的なそれは
似ている様でいて実は意味が違うんじゃないかと思うよ。
賢明な悲観論者であれば自分を不幸せにするかもしれないものをことごとく排斥するのだろう。
例えそれが幸せに導くかもしれないものでさえ犠牲にしてね。
それが僕にはなかなか出来ないところをみるとやはり愚かな悲観論者なのかもな。
心のどこかでそれを写真に残しておかないのも落ち着かないのだ。
それは言い換えるなら、そういうハッピーな状況が少しでも長く続いてほしいという
願望に他ならないのかも知れないな。かなわないだろうって知ってるから。
不謹慎な言い方だけれども、不幸と幸せの振れ幅、ダイナミクスを楽しむってことが
なんか人間には必要なのかも知れないぞ。なんてふと思った。今。
<to be continued>
「チェ・ゲバラ」vol.1 「チェ・ゲバラ」vol.2
「チェ・ゲバラ」vol.3 「チェ・ゲバラ」vol.4
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