古い写真、1945年ごろの群馬県立勢多農林高等学校の「加工室」で撮影された写真です。前列の向かって右から二人目、軍服みたいのを着て丸メガネをかけているのが私の父、40歳を少し過ぎたころです。父は、1942年に茨城県の結城の農業学校から勢多農林の畜産教師として招かれ、前橋にやってきました。結城の前は長野の下伊那の農学校だったみたいです。あちこちしながら、教師として畜産技術の指導をしていた人だったようです。
父は、1994年1月16日に88歳で逝きました。2日早いのですが、亀泉霊園にある墓所にお参りしました。霊園の入り口で振り返ると赤城山の鍋割がくっきりと見えていました。寒かったですが、よく晴れた穏やかな日でした。父が逝ってから30年が過ぎました。早いものです。
帰りに霊園の東を流れる寺沢川の橋の上から赤城山を眺めました。亡くなる前、急に体調に変化をきたして入院する前の晩に、「カキフライが食べたい」というので作って食べてもらいました。私が父に作った最後の食事でした。入院後、数日にして他界しました。
遠い雪山が良く見える日でした。前橋工業の東、昔の利根川の自然堤防の上からは真っ白な浅間山が見えました。家の近くのJAファーマーズ朝日町店の前からは、長野との県境の山並みが見えていました。家に戻って、一冊の本を開きました。1943年(昭和18年)4月に勢多農林に入学し、戦時下の教育を受け、敗戦後の1946年(昭和21年3月)に卒業した勢多農林の旧制32回卒業生の記念誌『風雪』(2005年刊)です。父が勢多農林に着任した翌年の入学生たち、直接指導をした皆さんです。
記念誌の編集者から「お父さんについて思い出を書いてほしい」と頼まれて書いた一文が掲載されているのを思い出しました。20年前に書いた「干し柿」という思い出話、4~5歳の頃の記憶です。歳月が過ぎるのって早いものですね…
墓参で冷えた体を餅入りの茹で小豆で温めました。朝食後の一仕事で小豆を茹でておいたんです。今朝の小豆粥に使う分を別にして、残りに砂糖を加えて煮ました。餅は神棚からおろした重ね餅です。
COCOはお天道さんが遊びに来てくれたんで幸福な昼寝をしています。声をかけてもピクリともしません、しっかり寝ていました。
買い物用自転車で街へ出かけました。穏やかな日、葉っぱを失った広瀬川の岸のヤナギです。枝垂れた枝は垂れ下がっているだけ、枝を揺らす風が吹いていませんでした。
弁天通の「辻もん」にご挨拶して、呑竜仲見世のヤギカフェでお昼を食べました。日曜日なので、何組かの見物人が店の前を通り抜けて行きました。
中央イベント広場の昼下がりです。穏やかな休日、牡蠣小屋には長い行列、広場のテーブルはのんびりくつろぐ家族連れや若者で満席に近い状態でした。こういう風景が大好きです。
わが家に近い人家の庭の柿木、枝に残った熟柿にスズメやヒヨドリが群れて賑やかしていました。こういう風景もいいですね。
父の命日を前に墓参した日、穏やかに時が過ぎて行きました。
夕食のおかずは、昆布締めにしておいたマトウダイに梅ひしおを載せていただきました。梅ひしおがとても良く合う白身魚です。それと、鰆の照り焼き、写真はカマの部分です。
煮物はタケノコ芋と牛肉、それに菜花です。汁は白菜、人参、椎茸、具だくさんの沢煮椀にしました。鰆の残りは、うわじま麦味噌で味噌漬けに加工しました。
ユキ子さんの両親へも、同じものをお届けしました。昼には、茹で小豆も届けて食べてもらいました。
今日は月曜日、NiiSへトレーニングに行ってきます。
ヒゲじいさんの連れ合いの三代目若柳吉駒でございます。
1937年(昭和12年)に祖母の初代吉駒が始め、伯母の二代目吉駒が受け継いでまいりました直派若柳流美登利会、毎年春に公演会を開催しまいりまして本年4月の公演で79回目を迎えることができました。また、来春4月7日には第80回美登利会公演を予定しております。会員一同これからも精進を重ねてまいりますので、宜しくお願い申し上げます。
《最近の美登利会と吉駒リサイタルの舞台をご覧になりたい方は…》
第79回美登利会と第4回三代目吉駒リサイタルはこちらでご覧ください。
第78回美登利会と第3回三代目吉駒リサイタルはこちらでご覧下さい。
第77回美登利会と第2回三代目吉駒リサイタルはこちらでご覧下さい。
第76回美登利会と三代目吉駒襲名リサイタルはこちらでご覧下さい。
お稽古場は前橋市城東町、詳しくはこちらをご覧下さい
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