ユネスコさん、捕鯨も世界遺産「ワショク」にブッコミでOKなのですか!?
http://kkneko.sblo.jp/article/84796741.html
上記、クジラ・クリッピングの記事に唸ってしまった。すでにひと月以上前の記事で、僕が最初に読んでからもだいぶ日が経っている。今頃取り上げてどうこうというのも恐縮なのだけど、読んで唸って終わり、にしてしまうのはやっぱりもったいないなあと、今頃でも強く感じている自分がいるので。
カメクジラネコさんのブログの読者なら今さら断り書きするまでもないことだが、ここで提示されているのは、何を食べていいだの悪いだの、殺し方がいいだの悪いだのという狭い議論ではない。我々の、一見「文化的」と言われる生活の総体を問うている。捕鯨に絡む話だからといって、これを単にいわゆる「日本人悪者論」としてしか読めない人というのは、本当に日本人としてレベルが低い人だと言うほかない。そういうレベルの人は放っておいて、現代人としての自分の「生活」の在り方に、わずかでも問題意識を抱きながら生きているまっとうな人に向けて、考えたことを書いてみたい。
この記事は僕にいろいろな気づきを与えてくれた。
たとえば、僕自身は上記事で取り上げられているような魚貝の「活け造り」を、頭から否定しようとは思わない者だ。ただし、それが昔からある食「文化」だから許されるというような、オートマチックな思考の甘さについては、常日頃から苛立ちを感じている。
一つに、食「文化」ということを考える時には、昔と今とで人類の置かれた環境条件は大きく違う、ということを前提にしなければ、話がおかしくなってしまうということがある。たとえば、江戸時代までには我が国の広範な庶民がマグロを口にできるようになっていたかも知れないが、限られた捕獲手段で捕ってきたマグロを人口3000万人の日本人が少しずつ大事に食べていた時代と、機械的に発達した捕獲手段でマグロを含む魚類を一網打尽にし、地球の反対側から輸入までして1億3000万人の庶民の口に乗せている時代の、環境条件の違い。
そうした違いをすっ飛ばして、昔からやっていることだから「伝統」や「文化」の名の下にそのまま延長する権利があるとでもいうような、今時の人間の傲慢な態度を目の当たりにしたら、かつてのご先祖様たちはさぞ眉をしかめることだろう。「あさましきことなり」とか言って。そうでなくても、いずれその傲慢は自然からしっぺ返しを食らうだろう(もう部分的には食らっているが)。
もう一つの観点として、そもそも活け造りが「文化」と呼ぶべきものなのか?という問題がある。僕が活け造りをあって良いと思うのは、「文化」としてではなく、あえての「野蛮」としてである。人間の五感には、精神には、あえての「野蛮」が必要だと思う。むしろそれが失われていくことのほうに、僕は危機感を覚える。
活け造りは、正しくは「世界野蛮遺産」(もしあるなら)にこそ登録されるべきだろう。決して揶揄ではなく、そういう制度があってもいいと思う。逆に言えば、そういう意味合いにおいてしか、存在する意味がないものである。何もあの食べ方が一番美味しいわけでも、栄養がつくわけでもないのだから。
ただ、人が生きるということは、生身の生きものとして生きるということでもある。生きものは生きものを食らうことでしか生きられない。どんなにその過程を「文化的」なものにしようと、やっていることは他の生きものの命を奪うことだ*注1。それを忘れないために、あえての「野蛮」というものがあっていいのだと思う。問題は同じ生きものである人間が、その真実を直視せず、コシャクにも「文化」という言葉を免罪符にしてごまかすことではないか。
世界中の「料理」に当てはまることだろう。すべての料理は生きものの命を元にしていることで、「文化」と「野蛮」の両方に常に足を突っ込んでいる。料理が文化だと言うためには、それに使う生きものを殺すところから文化としなければいけないのではないか。わざわざそんなことを文化と呼ぶのは正直面倒だと感じる僕だが、強いてそれを文化と呼ぶのなら、できるだけ素早い、苦痛のない殺し方の工夫こそが、「文化」に値する。その意味からも、活け造りは「文化」とは程遠い。
しかしそれ以前に、そもそもが料理というものをわざわざ「文化遺産」にするという発想自体、人間の思い上がりの産物ではないのか──カメクジラネコさんの記事を読んで、実は密かに思い当たったのはそのことだったりする。
あるいはまた、「食文化」という言葉は、意外と注意して使うべき言葉かも知れない、とか。なにしろ「文化」という言葉はズルいもので、何かの下に「○○文化」とつけるだけで、元の○○が一段格が上がったように聞こえてしまうのである。
最近、「ある精肉店のはなし」という映画を観た。牛の・解体から販売までをすべて家族経営で担ってきた大阪府貝塚市の精肉店の、その屠畜場閉鎖の日までの歴史・日常を追ったドキュメンタリーだ。
動物の場面ということなら、以前にも「いのちの食べ方」というヨーロッパの映画で、より現代的な「殺し方」を観ている。だが、その時に感じた「工業畜産」のひんやりした(ネガティヴな)印象に比べて、「ある精肉店のはなし」で紹介されるシーンでは、恐怖感・抵抗感よりも登場人物たちへの共感のほうが上回る。これは必要な「野蛮」だ──肉を食べ続けるのであれば──という思いが満ちてくるのだ。実際、この場面を直視することができない人間に、肉を食べる資格はないだろう。
だから、肉好きの人は絶対観てほしい映画だ──なんてありきたりな感想を僕は持っていた。ところが、あるベジタリアンの人が「ベジタリアンの人に観てほしい映画だ」と紹介しているブログ記事を見つけて、ちょっと驚き、感動してしまった。映画に描かれる屠畜業者の人々が差別される歴史状況が生まれた背景には、仏教の影響による肉食忌避志向が一つ大きなものとしてある。つまり、今で言うセミ・ベジタリアン優勢の社会こそが、被差別を生み、長きにわたる差別の歴史を受け継いできた*注2。現在のベジタリアンの人々にもこれに向き合う責任がある、というのである。
映画『ある精肉店のはなし』を観た
http://blogs.yahoo.co.jp/yasudaimonji/38389579.html
これは大事な指摘だな、と思ったのである。
しかし考えてみると、江戸時代までに徐々に制度化されたこれらの差別は、制度が撤廃され、文明開化の波に乗って「肉食解禁」となった(より正確には、前から少しは食べていたが、「文明」の名の下に大っぴらに正当化された)明治より後も、延々と続いてきた。まして第二次大戦後の現代は、その明治~昭和と比べてさらに大量の動物肉を庶民が食べるようになって、本来の差別する理由がなくなったはずなのに、こうした人たちへの差別は温存されてきたのである。これは一体、どういった「文化」背景によるのだろう?
なおかつ現代日本においては、屠畜の現場を知らないまま「もっと安く」「もっと多く」肉を求める庶民が大多数になってしまったこと、それ自体がある種のタチの悪さ・いやらしさの温床になっている。屠畜業者への差別の意識は希薄になったにしても、みずからの手を汚さず、「野蛮」を見て見ぬふりをして(ないことにして)、出来上がったキレイなものだけを消費(浪費)し、それを「文化」「生活」と称する。それを影で支えている人々、たとえば“後進国”の人々を見下しながら。
結局、自国だろうと外国だろうと、必ずどこかに自分より「生活」レベルの劣った、キレイでないものにまみれて生きざるを得ない人々を対置して、自分らのキレイぶりに安堵する。そういう自尊心の持ち方しか知らない連中に限って、クジラやイルカを殺して食べることを野蛮だと非難されると、これは我々の伝統「文化」であるなどと、あたかも議論の余地のなき歴史背景があるかのような主張を盾にしてイキリ立つ。
そうしたねじくれた「文化」背景は、今も自動延長・増幅中なのである。
僕は結局、単純に「野蛮」を脱して「文化」に至る、という考えに同意できない人間だ。「文化」は必ず「ある種の野蛮の回復」を内包するものではないかと思う。少なくとも僕が必要とする「文化」は、そうしたものだったから。
ただしその場合の野蛮とは、人や自然を圧迫する暴虐・残虐とは一線を画す野蛮であって、だからこそ「ある種の」なのである。たとえば、音楽や踊りは「ある種の野蛮」の上に成り立っていて、とりわけ僕がロックのような音楽に惹かれる理由の一端も、確実にそこにある。
対して、現代日本の大量の食品廃棄の現状こそは、克服すべき野蛮である。ましてそれだけの廃棄を許す余裕のある飽食国家が、本来の自分達のテリトリーでもない南氷洋で行なう「調査」捕鯨を、何か国民にとっての死活問題であるかのように言いふらし・後押ししている現実は、不実であり野蛮の極みである。
前述のとおり、クジラを含む肉食は長く忌避される傾向にあったのが日本社会の歴史であり(だから差別される人たちまでがいたのだ!)、一部漁村で行なわれていた捕鯨も、その捕獲方法は現代のものとは大きく異なっていた。クジラを資源と見立て遠洋まで捕鯨船を繰り出し、洋上で食料品を「工場生産」するごときやり方は、明治以降、西洋の方式を輸入して始めたことである。日本の文化でも伝統でも何でもない。
これ自体は異論というより、ごく基本的な事実認識というべきことだ。だが、これが基本的であることすら知らない(知ろうとしない)連中が、よりによってユネスコの文化遺産登録に力を得て、自尊心を満足させている。「文化」に鈍感な、日本人の中でも一番野蛮な連中こそが「文化遺産登録」をヨロコブという、あまりといえばあまりにえげつない構図。逆説的だが、でも結局そういうもんだよなと、妙に腑に落ちる構図。
せめてユネスコの人には、和食の歴史的経緯のことまではわからずとも(日本人ですらわかってないのに…)、カメクジラネコさんの公開質問状に含まれる論点を丁寧に検討し、答えてほしいと思うが、しょせんよくわからない力関係の支配する一種のお役所みたいなところだから、期待薄なのかもしれない。
以上、元記事の論旨からいろいろ脱線してますが、インスパイアされた事柄を書いてみました。捕鯨問題をめぐる様々な論点、深い洞察はクジラ・クリッピングほかで読んでください。
たとえば、本当にこじつけでもなんでもなく、捕鯨問題って原発問題とかぶってるよな、とか。一部のやつら(原子力ムラ、捕鯨ムラ)が潤うだけで一般の国民には迷惑しか残らないことなのに、「国民のため」であるかのように宣伝されてきた現実とか。宣伝といえば、自然エネルギーの資源にこんなに恵まれてるのに、資源がないから原子力に頼るしかないと思わされたり→→→四季折々・山海の食べものに恵まれた国なのに、美味くもないクジラが(国費を投じてまで)ぜひとも必要と思わされたり・・・の相似形とか。
*注1 「命を奪う」ことを徹底して忌避するベジタリアンの一派もある。フルータリアンという人たちで、本体を残さず丸ごと刈り取ってしまうタイプの野菜は食さず、果実のように切り離してもまだ本体は生きている植物だけが許される、らしい。昆虫や小動物ならともかく、我々人間に必要なカロリーがそれでまかなえるものなのか、素人考えでは心配なのだが・・・現にその人たちは支障なく生きているのだから、大きなお世話だろう。
参考 http://subsite.icu.ac.jp/cla/vege_life/page4.html
*注2 といっても、これはもっぱら西日本の「歴史」であって、東日本には被差別は稀だった。が、この違いの話に立ち入るとややこしいので、ここではツッコまないでおく。
http://kkneko.sblo.jp/article/84796741.html
上記、クジラ・クリッピングの記事に唸ってしまった。すでにひと月以上前の記事で、僕が最初に読んでからもだいぶ日が経っている。今頃取り上げてどうこうというのも恐縮なのだけど、読んで唸って終わり、にしてしまうのはやっぱりもったいないなあと、今頃でも強く感じている自分がいるので。
カメクジラネコさんのブログの読者なら今さら断り書きするまでもないことだが、ここで提示されているのは、何を食べていいだの悪いだの、殺し方がいいだの悪いだのという狭い議論ではない。我々の、一見「文化的」と言われる生活の総体を問うている。捕鯨に絡む話だからといって、これを単にいわゆる「日本人悪者論」としてしか読めない人というのは、本当に日本人としてレベルが低い人だと言うほかない。そういうレベルの人は放っておいて、現代人としての自分の「生活」の在り方に、わずかでも問題意識を抱きながら生きているまっとうな人に向けて、考えたことを書いてみたい。
この記事は僕にいろいろな気づきを与えてくれた。
たとえば、僕自身は上記事で取り上げられているような魚貝の「活け造り」を、頭から否定しようとは思わない者だ。ただし、それが昔からある食「文化」だから許されるというような、オートマチックな思考の甘さについては、常日頃から苛立ちを感じている。
一つに、食「文化」ということを考える時には、昔と今とで人類の置かれた環境条件は大きく違う、ということを前提にしなければ、話がおかしくなってしまうということがある。たとえば、江戸時代までには我が国の広範な庶民がマグロを口にできるようになっていたかも知れないが、限られた捕獲手段で捕ってきたマグロを人口3000万人の日本人が少しずつ大事に食べていた時代と、機械的に発達した捕獲手段でマグロを含む魚類を一網打尽にし、地球の反対側から輸入までして1億3000万人の庶民の口に乗せている時代の、環境条件の違い。
そうした違いをすっ飛ばして、昔からやっていることだから「伝統」や「文化」の名の下にそのまま延長する権利があるとでもいうような、今時の人間の傲慢な態度を目の当たりにしたら、かつてのご先祖様たちはさぞ眉をしかめることだろう。「あさましきことなり」とか言って。そうでなくても、いずれその傲慢は自然からしっぺ返しを食らうだろう(もう部分的には食らっているが)。
もう一つの観点として、そもそも活け造りが「文化」と呼ぶべきものなのか?という問題がある。僕が活け造りをあって良いと思うのは、「文化」としてではなく、あえての「野蛮」としてである。人間の五感には、精神には、あえての「野蛮」が必要だと思う。むしろそれが失われていくことのほうに、僕は危機感を覚える。
活け造りは、正しくは「世界野蛮遺産」(もしあるなら)にこそ登録されるべきだろう。決して揶揄ではなく、そういう制度があってもいいと思う。逆に言えば、そういう意味合いにおいてしか、存在する意味がないものである。何もあの食べ方が一番美味しいわけでも、栄養がつくわけでもないのだから。
ただ、人が生きるということは、生身の生きものとして生きるということでもある。生きものは生きものを食らうことでしか生きられない。どんなにその過程を「文化的」なものにしようと、やっていることは他の生きものの命を奪うことだ*注1。それを忘れないために、あえての「野蛮」というものがあっていいのだと思う。問題は同じ生きものである人間が、その真実を直視せず、コシャクにも「文化」という言葉を免罪符にしてごまかすことではないか。
世界中の「料理」に当てはまることだろう。すべての料理は生きものの命を元にしていることで、「文化」と「野蛮」の両方に常に足を突っ込んでいる。料理が文化だと言うためには、それに使う生きものを殺すところから文化としなければいけないのではないか。わざわざそんなことを文化と呼ぶのは正直面倒だと感じる僕だが、強いてそれを文化と呼ぶのなら、できるだけ素早い、苦痛のない殺し方の工夫こそが、「文化」に値する。その意味からも、活け造りは「文化」とは程遠い。
しかしそれ以前に、そもそもが料理というものをわざわざ「文化遺産」にするという発想自体、人間の思い上がりの産物ではないのか──カメクジラネコさんの記事を読んで、実は密かに思い当たったのはそのことだったりする。
あるいはまた、「食文化」という言葉は、意外と注意して使うべき言葉かも知れない、とか。なにしろ「文化」という言葉はズルいもので、何かの下に「○○文化」とつけるだけで、元の○○が一段格が上がったように聞こえてしまうのである。
最近、「ある精肉店のはなし」という映画を観た。牛の・解体から販売までをすべて家族経営で担ってきた大阪府貝塚市の精肉店の、その屠畜場閉鎖の日までの歴史・日常を追ったドキュメンタリーだ。
動物の場面ということなら、以前にも「いのちの食べ方」というヨーロッパの映画で、より現代的な「殺し方」を観ている。だが、その時に感じた「工業畜産」のひんやりした(ネガティヴな)印象に比べて、「ある精肉店のはなし」で紹介されるシーンでは、恐怖感・抵抗感よりも登場人物たちへの共感のほうが上回る。これは必要な「野蛮」だ──肉を食べ続けるのであれば──という思いが満ちてくるのだ。実際、この場面を直視することができない人間に、肉を食べる資格はないだろう。
だから、肉好きの人は絶対観てほしい映画だ──なんてありきたりな感想を僕は持っていた。ところが、あるベジタリアンの人が「ベジタリアンの人に観てほしい映画だ」と紹介しているブログ記事を見つけて、ちょっと驚き、感動してしまった。映画に描かれる屠畜業者の人々が差別される歴史状況が生まれた背景には、仏教の影響による肉食忌避志向が一つ大きなものとしてある。つまり、今で言うセミ・ベジタリアン優勢の社会こそが、被差別を生み、長きにわたる差別の歴史を受け継いできた*注2。現在のベジタリアンの人々にもこれに向き合う責任がある、というのである。
映画『ある精肉店のはなし』を観た
http://blogs.yahoo.co.jp/yasudaimonji/38389579.html
これは大事な指摘だな、と思ったのである。
しかし考えてみると、江戸時代までに徐々に制度化されたこれらの差別は、制度が撤廃され、文明開化の波に乗って「肉食解禁」となった(より正確には、前から少しは食べていたが、「文明」の名の下に大っぴらに正当化された)明治より後も、延々と続いてきた。まして第二次大戦後の現代は、その明治~昭和と比べてさらに大量の動物肉を庶民が食べるようになって、本来の差別する理由がなくなったはずなのに、こうした人たちへの差別は温存されてきたのである。これは一体、どういった「文化」背景によるのだろう?
なおかつ現代日本においては、屠畜の現場を知らないまま「もっと安く」「もっと多く」肉を求める庶民が大多数になってしまったこと、それ自体がある種のタチの悪さ・いやらしさの温床になっている。屠畜業者への差別の意識は希薄になったにしても、みずからの手を汚さず、「野蛮」を見て見ぬふりをして(ないことにして)、出来上がったキレイなものだけを消費(浪費)し、それを「文化」「生活」と称する。それを影で支えている人々、たとえば“後進国”の人々を見下しながら。
結局、自国だろうと外国だろうと、必ずどこかに自分より「生活」レベルの劣った、キレイでないものにまみれて生きざるを得ない人々を対置して、自分らのキレイぶりに安堵する。そういう自尊心の持ち方しか知らない連中に限って、クジラやイルカを殺して食べることを野蛮だと非難されると、これは我々の伝統「文化」であるなどと、あたかも議論の余地のなき歴史背景があるかのような主張を盾にしてイキリ立つ。
そうしたねじくれた「文化」背景は、今も自動延長・増幅中なのである。
僕は結局、単純に「野蛮」を脱して「文化」に至る、という考えに同意できない人間だ。「文化」は必ず「ある種の野蛮の回復」を内包するものではないかと思う。少なくとも僕が必要とする「文化」は、そうしたものだったから。
ただしその場合の野蛮とは、人や自然を圧迫する暴虐・残虐とは一線を画す野蛮であって、だからこそ「ある種の」なのである。たとえば、音楽や踊りは「ある種の野蛮」の上に成り立っていて、とりわけ僕がロックのような音楽に惹かれる理由の一端も、確実にそこにある。
対して、現代日本の大量の食品廃棄の現状こそは、克服すべき野蛮である。ましてそれだけの廃棄を許す余裕のある飽食国家が、本来の自分達のテリトリーでもない南氷洋で行なう「調査」捕鯨を、何か国民にとっての死活問題であるかのように言いふらし・後押ししている現実は、不実であり野蛮の極みである。
前述のとおり、クジラを含む肉食は長く忌避される傾向にあったのが日本社会の歴史であり(だから差別される人たちまでがいたのだ!)、一部漁村で行なわれていた捕鯨も、その捕獲方法は現代のものとは大きく異なっていた。クジラを資源と見立て遠洋まで捕鯨船を繰り出し、洋上で食料品を「工場生産」するごときやり方は、明治以降、西洋の方式を輸入して始めたことである。日本の文化でも伝統でも何でもない。
これ自体は異論というより、ごく基本的な事実認識というべきことだ。だが、これが基本的であることすら知らない(知ろうとしない)連中が、よりによってユネスコの文化遺産登録に力を得て、自尊心を満足させている。「文化」に鈍感な、日本人の中でも一番野蛮な連中こそが「文化遺産登録」をヨロコブという、あまりといえばあまりにえげつない構図。逆説的だが、でも結局そういうもんだよなと、妙に腑に落ちる構図。
せめてユネスコの人には、和食の歴史的経緯のことまではわからずとも(日本人ですらわかってないのに…)、カメクジラネコさんの公開質問状に含まれる論点を丁寧に検討し、答えてほしいと思うが、しょせんよくわからない力関係の支配する一種のお役所みたいなところだから、期待薄なのかもしれない。
以上、元記事の論旨からいろいろ脱線してますが、インスパイアされた事柄を書いてみました。捕鯨問題をめぐる様々な論点、深い洞察はクジラ・クリッピングほかで読んでください。
たとえば、本当にこじつけでもなんでもなく、捕鯨問題って原発問題とかぶってるよな、とか。一部のやつら(原子力ムラ、捕鯨ムラ)が潤うだけで一般の国民には迷惑しか残らないことなのに、「国民のため」であるかのように宣伝されてきた現実とか。宣伝といえば、自然エネルギーの資源にこんなに恵まれてるのに、資源がないから原子力に頼るしかないと思わされたり→→→四季折々・山海の食べものに恵まれた国なのに、美味くもないクジラが(国費を投じてまで)ぜひとも必要と思わされたり・・・の相似形とか。
*注1 「命を奪う」ことを徹底して忌避するベジタリアンの一派もある。フルータリアンという人たちで、本体を残さず丸ごと刈り取ってしまうタイプの野菜は食さず、果実のように切り離してもまだ本体は生きている植物だけが許される、らしい。昆虫や小動物ならともかく、我々人間に必要なカロリーがそれでまかなえるものなのか、素人考えでは心配なのだが・・・現にその人たちは支障なく生きているのだから、大きなお世話だろう。
参考 http://subsite.icu.ac.jp/cla/vege_life/page4.html
*注2 といっても、これはもっぱら西日本の「歴史」であって、東日本には被差別は稀だった。が、この違いの話に立ち入るとややこしいので、ここではツッコまないでおく。
この問題を考えていただくきっかけになっただけでも、今回の企画を立てた甲斐がありました(^^;
ちなみに、一応メール送ったんですが、迷惑メールの方に入っちゃってるかも。。ドメインはkkneko.comです。
記事中の「ベジタリアンの人に観てほしい映画」のお話、私自身も改めて胸につまされました。
まさしく、いまでも差別という構造的な問題があって、日本の肉食・畜産業が乗っかる形で成立しているんですよね。
差別に目をつぶる風潮が、肉食問題に対する真剣な議論を阻み、差別に対する正面からの議論を阻み、その両方が浅薄な反反捕鯨論にそっくりつながっているんじゃないかと感じます。
ユネスコさんの無反応はちょっと残念でしたが、世界遺産登録を単純に喜ぶのでなく、せめて食のあり方を見直すきっかけにすべきですよね、日本は特に。
こちらこそ、いつも勉強させてもらってます。
ごめんなさい、メールの方はドメイン検索してようやく確認いたしました。最新のエントリーに先立って、送ってくださっていたんですね。すいません。
行き違いのような形になってしまいましたが、どうあれこのエントリーは書きたかった内容なので。きっかけを与えてくれてありがたかったです(ただ、思いついてから仕上げるまで時間がかかる野郎でして…その遅れ加減が、ちょっと失礼な感じにならないか、それが心配ではありましたが)。
ユネスコへの質問フォーム、「公開質問状」を参考に検討させていただきます。