このところ、花器の紹介では、椿の花にずいぶんお世話になりました。
椿はというと、故玩館裏、安藤広重ゆかりの竹藪を今春伐採しました。その竹藪に椿が何本か自生していたのです。竹の緑に椿の赤が映えて、とても綺麗でした。しかし、今は、影も形もありません。
一方、中山道沿い、表側に変わりありません。
玄関階段下に椿らしき二本。
可憐ではありますが・・・
10年以上たっても、この大きさ。
それもそのはず、これは山茶花です(^^;
階段を上がった玄関先、ポットのパンジーの方が眼を引く?(^^;
気を取り直して、向いをみると、
輪中堤に見事な椿が(ミラーにうつっているのは故玩館)。
可憐に咲く椿とは程遠い、爆咲き(^.^)。
これなら、巨大花器に、いくらでも椿を入れられます。
ところで、この満開の椿、どこかで見たような・・
【広重に描かれた当時の故玩館(イメージ)】
おお、故玩館の向かいに、満開の椿が描かれているではありませんか。
今満開の椿は、当時の何代か後の木かも知れませんね。
なお、TVのお宝鑑定番組で広重のこの絵が紹介された時、満開の椿を、椿の花ではなく、名産の富有柿が描かれていると説明していました。
確かに、富有柿は当地が原産ですが、富有柿が世に出たのは明治中期、広重の絵より、半世紀以上後のことなのです。いくら広重でも、この世にない物を描きだすのは無理でしょう(^.^)
当作品の風景描写から判ることは、老僧と農夫が話す場所を街道と見て、その手前脇には椿の花が咲き、背後脇には竹林が繁っています。椿は治水事業に当たった古来の渡来人が日本に持ち込んだ花の子孫と考えると、広重は歴史的風景を描いたことになります。竹林や川辺に打ち込まれた水除杭は、治水対策の跡です。遠景に見える家々は美江寺の宿場でしょう。この辺りの集落は、川の氾濫から家屋等を守るために周囲を堤防で囲んで、輪中を形成していました。なお、当作品の場所は、揖斐川(呂久川・杭瀬川、『木曽路名所図会』巻之2の図版)ではなく、宿場の西側近郊にあった犀川と見るのが一般的です。
とありました。私も椿だと思います。
500年前の美江寺ネタで、拙blogを書こうと思っております。
現在の故玩館の向かい側にも大きな椿の木がありますが、それは、その時の椿の木の何代か後の椿の木なのでしょうね。
故玩館も悠久の時を刻んでいるわけですね(^-^*)
富有柿はご当地が原産ですか。
我が家の近くには富有柿の産地があり、毎年、天皇家に献上しています。産地の何軒かの柿農家が、毎年、順番を決めて献上しているわけです。
それで、この辺では、そこの産地の柿は「献上柿」として有名です。
昨日も買ってきて、食べています。今年はもう終りですね。
富有柿をとおして、ご当地と我が家の近くの富有柿の産地とが繋がっていたとは知りませんでした。
は、正確ではありません。犀川ではなく、犀川のワンドです。川はもう少し西を流れています。私の子供の頃までは、この光景だったのです。また、向こうに見える「遠景に見える家々は美江寺宿」は多くの解説書に出てきますが、これは完全な間違いです。水辺を犀川付近とするならば、地理的に、この様な構図はありえません。見えているのは、宿場の西方にある田之上という小さな集落です。
杭は、小規模農地の土留めのために打たれています。年に何回も洪水にみまわれるので、こうしておかないと土地がたもてなかったのです。これもまた、昔見なれたた光景です。
上の点も含め、今回のblogの初めに引用した以前のブログに、広重の絵と美江寺宿との関係を書いておきました。ご参考にしていただければ幸いです。
富有柿の原木は現存しています。
よほど日本人にあっていたのでしょう、すぐに全国に広がったようです。その関係か、ウチの100mほどの所に苗木組合があって、非常に活気を呈していました。が、この10年程はどんどんさびれ、昨年、廃業、撤去となりました。また、ここ5年は、一面の柿畑であった場所がどんどん切り倒され、今は半分ほどになってしまいました。このままいくと、あと10年もすれば、この辺りが富有柿の産地であったことも過去の事になってしまいそうです。
柿農家によると、消費者のし好が変わって、柿を食べる人が少なくなったのだそうです。知り合いも、柿作りをどんどん止めていきます。
淋しいですね。
ウチは3本しかなく、自家用なので切る必要もありません(^.^)