遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

宗門人別改状

2023年04月08日 | 高札

先回のブログで、正徳大高札『切支丹札』を紹介しました。
高札から見えてくるのは、密告制度を基本とした飴と鞭の政策です。不届者の通報(密告)を奨励し、その情報の内容によって、報賞金を与えたのです。
正徳大高札の中の切支丹札(高札No.1)をはじめとして、火付札、贋金銀銭取締札(高札No.2)、徒党強訴逃散禁止札(高札No.14)などです。
このうち、最も有名なキリシタン取り締まりを、先回の切支丹札(高札No.1)から再度見てみます。

「き里志たん宗門ハ累年御禁制たり、自然不審成ものこれあらハ、申出へし、御不うひとして、はて連んの訴人、銀五百枚、い累まんの訴人、銀三百枚、立かへ里者の訴人、同断、同宿并宗門の訴人、銀百枚、右の通下さるへし、たとひ同宿宗門の内たりといふとも、申出る品により銀五百枚下さるへし、かくし置他所よりあらはるゝにおゐては、其所の名主并五人組迄一類は罪科行れるべく候也  正徳元年五月日 奉行」

「キリシタンは厳禁である。不審な者がいたら通報せよ。褒美として、バテレンなら銀五百枚、イルマン銀三百枚、信者なら銀百枚を与える」と、密告に対して大判振る舞いです。
さらに、「通報者が信者であっても、その情報によっては銀五百枚を与える」とあり、内部からの密告も奨励しています。
その一方で、「キリシタンを匿い、それが外から発覚した場合には、名主や五人組も同罪となる」と脅しています。まさに、飴と鞭の政策ですね。

この密告制度が、どれ程有効であったかは明らかではありません。時代の交換レートにもよりますが、銀五百枚は、150~300両に相当する大金です。このような途方もない報奨金がしばしば支払われたとはとても考えられません。徳川幕府の意図は、むしろ、高札によって、幕府の権威を誇示することにあったと言えるでしょう。

切支丹札でキリシタン禁止を強くうちだした幕府ですが、実際の取り締りに関しては、日本中に組織した五人組制度を利用し、毎年、宗門人別改めによって、人々を調べ、キリシタンでないことを証明させました。宗門人別改めが、人々を監視し、取り締まる役目を果たしていたのです。
五人組とは、近隣5人(5戸)を単位とする統治の末端組織です。幕府は、江戸前期に五人組制度を整備し、全国的に組織しました。そして、キリシタンの取締りを主眼として、五人組に連帯責任をおわせる相互監視体制をつくりあげたのです。連帯責任の範囲は、その後、年貢の完納や法令遵守などにまで広がりました。

では、宗門人別改とはどのようなものだったのか、故玩館の資料で見てみます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・省略(個別人名有)・・・・・・

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  23㎝x68㎝、江戸時代後期。

      差出申一札之事
一切死丹宗門御改ニ付、厚見郡岐阜矢嶋町
上切町人男女共ニ旦那之分、致吟味先年
茂手形指出シ候へ共、弥今度堅御改ニ付僉儀
仕疑敷者無之ニ付、五人組之帳面ニ面々旦那
寺之判形を取、差上申候。毎年一度宛御改之外
にも、常々無油断相改可申候。於町中ニ念仏
講題目講を致、ひそかに後生物語様仕
常々之宗旨ニ替り候宗門を取阿つかい
不審成者御座候者、早速御注進可申候。
之分判形仕候。若、右之門切死丹宗門之者
有之由、訴人御座候ハゝ右判形仕候寺々之
住寺越度ニ可被仰付候。只今迄之旦那
之内宗旨替り申者御座候歟又ハ常々之
執行怪鋪事御座候者、御改可申上候。
先年従 公儀被 仰出候
御法度書之面致拝見、委細承届
當町五人組之者共等ニ僉儀仕
書付差上申。 覚
 濃州厚見郡岐阜下矢嶋町上切
同町          〇〇 年五拾五
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 ・・・省略(個別人名有)・・・・
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      ・・・・・・・・・・・・・・
                    □□母 年六拾八
  右女壱人宗旨ハ代々一向宗旦那寺
                  厚見郡明屋鋪
            蓮生寺印

               組頭  半右衛門印
                       新 助印
          五人一組     与左衛門印 
              加兵衛印
             忠六後家印
           与頭  清右衛門印
               久 六印
       六人一組    喜 七印
               八久衛印
               長 吉印
                 又 八印 
     岐阜 
        御奉行所      

良質の和紙に御家流で整然と書かれた宗門人別改状です。年月日が入っていません。最後に書き入れつつもりだったのか、或いは、草稿か? 印がきっちりと押されているので、提出する寸前の物ではないでしょうか。記された地名や寺は現在もあります。

この宗門人別改状は、岐阜下矢嶋町の宗門改めの記録です。宗門人別改めによって、各人は、何宗に属し、旦那寺はどこかを、毎年役所に報告しました。宗門人別改は、寺請制であったのです。この資料には、6家族、10人(男4、女6)の人たちそれぞれの宗旨と旦那寺が記されています。家族単位の記述ですが、家族成員それぞれの名前と年令、そして、所属する寺を個人別に記入し、その下に寺の印が押してあります。所属する寺は、住んでいる場所から、かなり離れた所(10㎞以上)にある場合があります。また、同じ家族であっても、異なる寺に属している場合がいくつかあります。特に、他地区から嫁いできた女性が、他の家族とは別の寺に属していることが多いです。なぜ、近くの寺に代わらなかったのかよくわかりません。一説には、豊臣秀吉以来、寺の勢力が増すのを権力側が嫌ったからだとも言われています。
 このようにして、毎年、旦那寺に、各人は仏教信者であり、切支丹でないことを証明させたのです。
この書状の宛先は岐阜奉行所です。末尾には、5人組、6人組の人名と印があります。もし、記載に誤りがある場合には、それぞれの組と旦那寺も、連帯責任を負いました。
隣人相互に監視をさせるこの制度によって、全国に細かい監視網が敷かれ、高札に書かれた切支丹禁止令を実効させたのです。キリシタンの摘発からはじまった宗門改めは、その後次第に、住民調査の色彩を強くおびるようになり、宗門人別改帳は、実質的に、江戸時代の戸籍簿となりました。

江戸幕府が倒れても、新政府はキリシタン禁制を踏襲したので、宗門改めは明治になってからも続きました。そして、明治6年2月、五榜の掲示が撤去され、キリシタン禁制が廃止されるとともに、五人組制度は終わりました。しかし、近隣住民を組織して、相互に監視し、治安維持に当たらせる方策は、第二次大戦中、隣組として戦争終結まで続いたのです。
なお、五人組は、必ずしも5人(5戸)ではなく、1組は3~7人(戸)の構成でした。今回の宗門人別改状でも、5人組と6人組の二つの組を調べています。

コメント (6)
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