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遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

高札場と火事4.火事場泥棒はクズ政治家

2019年03月14日 | 高札

火事にあった高札場

 高札と高札場の日常管理は、町や村の担当。先のブログでみてきたように、火事の際、高札板を避難させることは広く行われていたようです。

 ところが、高札場の方は動かせない。火事で焼失を防ぐ方法はありません。また、暴風、地震などでもダメージを受けました。
 このような場合、修理や新たな高札場の建設が必要となります。そのための手続きと費用負担が大変。
 残された資料は多くありませんが、いずれの町や村でも苦労したようです。

 大まかに言えば、町の場合、高札の費用は公用銀で賄えたが、高札場の造営費は、町掛銀が使われ、町の負担となりました。
 村の場合は、図面、調書、入用金高の書類を揃えて、藩の裁許を受ければ、数ヶ月後に造営ができたと言われています。

高札場と自治

 確かに、高札は徳川支配の道具でした。しかし、何十年、何百年の間、地元住民が、火事や天災から高札を守り、高札場を日常的に維持、管理していくうちに、人々にとって、高札場がそこにあるのが当たり前の風景になってきたのではないでしょうか。

 幕府も、当初の目的である、高札によって、厳しい決まりを人々に周知させ、遵守させる事から、高札場自体を幕府権威の象徴と考えるようになったようです。

高札場の維持管理や建設には神経を使わねばならないけれど、高札の方は少し規制が弱かった。たとえば、風雨にさらされ、墨書が薄くなった高札は、村方で墨入れをすればよい事になっていました。

 さらに、高札場に対する人々の考えも次第に変わってきたようです。
 高札場は村の中心であり、そこからの距離で地図なども書かれました。高札場に近い位置を占めることが、村内での地位を表すことになりました。
 また、分村などの場合、高札場を持つことが、村の独立を意味しました。

 さらには、村人たちも、高札や高札場の意味を彼らなりに学びました。一揆への参加を呼びかける場合、高札を模した札に、日時、目的、集合場所などを書いて、立てたのです。その場所も、境界や辻など、情報発信に適した所に自ずと決まっていたようです。

 現在、各地で街おこしが盛んです。
 そのなかのひとつに、かつての高札場を復元しようという動きがあります。
 明治6年の高札制度廃止から145年。高札場が人々にとって抑圧するだけのものであったなら、このような動きは生じなかったでしょう。

 
わからないことだらけの高札

時代劇でおなじみの高札ですが、その研究は意外に進んでいません。
江戸時代に、多数出された御触書のうちの一部が、高札として、人々に直接示されたわけです。
高札には、幕府の出した公儀高札とそれ以外の高札である私高札(主として藩のレベルで出された高札)に二分されます。

研究がすすんでいるのは、公儀高札のみ。ましてや、村や個人のレベルで出した札については、全く手つかずの状態です。
 
高札場に、高札板をどうやって掛けていたかさえわかっていません。
物に即した研究が絶対に必要です。

さらに、単なる封建社会の遺物では捉えきれない多面的で柔軟な視点が必要です。


ありそうでない高札本

 政治学や法制史の先生方は、支配者側が出す文書を分析するだけでした。
 これでは、すぐに行き詰まるのは当たり前。

 そのせいか、『高札』と銘打った本はほとんど無い。
 唯一のものが下の冊子、「高札」です。

これは展示会の図録で、正確には成書ではありません。しかし、100頁の図録の中味は実に豊富です。
 これまでの支配する側からの高札にとどまらず、受け手からの視点が斬新です。

これをまとめたのは、大阪人権博物館。

しかし、この博物館が、今、クズ政治家のため、危機にあります。


      「高札ー支配と自治の最前線」大阪人権博物館、1998年


狙われた人権博物館

この高札本を出した大阪人権博物館は、存亡の瀬戸際に立たされています。

大阪府、大阪市は、補助金を全廃し、さらに、土地の賃貸料2700万円/年を請求してきているのです。
 狙いは、もちろん、人権博物館潰し、そして、文化、芸術潰し。
 元凶は、もちろん、維新、橋下徹というクズ政治家。



                       大阪人権博物館ホームページより
                          http://www.liberty.or.jp/







大阪人権博物館は、現在、サポーター制度によって、自主運営を続けています。






クズ政治家たちの犯罪

今、世の中は、クズ政治家のオンパレードです。
クズ政治家は、政治家のクズではありません。
クズ人間が政治家になったのです。

クズ人間って?
人間の弱みとコンプレックスに付け入り、フェイクを垂れ流して人々の不安をあおり、扇動して、権力と金を得る輩。

人間はロボットや神ではありません。誰しも、不安、悩み、そして、コンプレックスをもっています。
それに向き合い、自分の内で、なだめ、ごまかし、あきらめ・・・・なんとか折り合いをつけながら生きていくのが人間です。

ところが、自分と向きあわずに、歪んだ形でコンプレックスを外へ向け、人間の弱みにつけ込んで人々を組織し、自分の欲望を満足させる者たちがいる。それが、クズ人間です。

代表格は、ヒットラー。画家を志望するも、才能無し。
石原慎太郎。かつて、三島由紀夫に鼻であしらわれた自称文士。
御存知、安部晋三の学歴と教養。
そして、橋下徹の出○。

彼らは、文化や芸術を毛嫌いする。
橋下には、人権博物館に対して、近親憎悪に近い感情もあるのでしょう。

クズ人間が政治に進出すると恐ろしい事になる。
人々をけしかける手だては実にたくみで、話術にたけている。メディアの利用も狡猾です。

敵をつくり、人々を扇動し、攻撃をけしかける。
人々の心に火をつけ、火事を起こすのです。

戦争はその最たるもの。一番おいしい公共事業です。人の金(税金)をつぎ込み放題。キックバックで大儲け。岸信介のように、麻薬ビジネスに手を染めれば、莫大な資金を簡単にゲットできます。

権力と金のために、人間の弱さとコンプレックスを歪んだ形で悪に応用。
 
火事を起こしておき、そのどさくさに金と権力を得る。

人心を巧に盗み利用する火事場の泥棒です。

火事場泥棒は、クズ政治家だったのです。





高札場と火事3.そこのけそこのけ御高札が通る~中山道垂井宿~(後)

2019年03月10日 | 高札
垂井宿の高札場



  『中山道分間延絵図』(文化3(1806)年頃)(復刻、原本は東博)

『中山道分間延絵図』は、絵図ではありますが、非常に正確です。家の数、配置はもとより、道路、橋から木々、藪などにいたるまで、当時の状態が記録されています。


 中央部を拡大すると、


  本龍寺前に「高札」と書かれているのが高札場です。
 


        名刹本龍寺。石碑の所に高札場があった。



防火の工夫

   本龍寺、高札場の向かいです。
 分限延絵図では、家並みが小さく切れて描かれている所です


 
左側は、重要文化財小林家です。

                 

     
 軒先をよく見ると、古い鍵形の金具がずらーっと打ってあります。
 これは一体、何?


 
実は、これは濡れムシロをつるすフックなのです。
垂井宿の中山道脇には、かつては、水路が流れていました。
火事になったら、すぐにムシロを水路に浸し、フックに掛けて、類焼を防いだのです。


残る言い伝え

このように火事が頻発した垂井宿では、ある言い伝えが残っています。
「火事の時には、真っ先に高札場の高札をはずし、泉に浸して守った」

確かに、垂井宿には泉がいくつかあり、このような事が行われていたとしても不思議ではありません。
しかし、それを証明する物は何もない。言い伝えは、あくまで、言い伝え。
先に紹介した、柳井奉行所高札場守護係の大野家文書のようなものが見つかればいいのですが・・・・・・



謎の巨大地図

垂井宿には、江戸時代の巨大な地図が残されていました。


    垂井宿場街大絵図(中山道ミニ博物館蔵、天保2(1831)年)

 4mを越える巨大な絵図です。
 
 この地図はとても変わっています。各家の持ち主の名と共に、家の部屋割りと広さ(畳)がすべて記入されているのです。

 誰が、何のためにこんな大きな絵図を作ったのか?
 地元では、ケンケンがくがくの議論。

 「和宮が降嫁する時、一行の宿を確保するために、泊まれる所と広さを調べた」
 「ほー、なるほど」
ということで、皆、納得していたようです。

 確かに、3万人もの行列人員が宿泊するためには、相当の準備が必要だったでしょう。

でも、ちょっと待った。
和宮の生まれたのは、弘化3(1846)年、この地図が作られたのは、天保3(1831)年。生まれる前に、公武合体が決まっているはずはないのです。

地元のロマンに水を差すようですが、和宮とは関係ない。

この巨大地図が作られたのは、多分、課税法の検討のためだと思います。

街道に面した間口の大きさから家の広さへ、変更を検討しようとしたのでしょう。その時のデータ地図を作成したのだと思います。
この地図は、役所へ出した地図の下絵か控えでしょう。



ついに発見!御高札用心通!

この地図の本龍寺高札場附近を拡大してみます。



道路南側をもっと拡大すると、



あっ、ありました!ついに、発見!

高札場の向かいにある家並みの狭間に、
御高札用心通」の文字。

その先には、「清水」が・・・泉です。
「清水」は、50mほど西(上流)にもう一つ。

地元に伝わる言い伝えは、本当だったのです。

火事になったら、急いで高札をはずし、道路を横切って、御高札道を走って、清水(泉)に浸したのです。距離にすれば、100m足らず。一分もかかりません。



 本龍寺の向かいの小径は、御高札用心通だったのです。


この道を、突き当たりまで走る。




 竹藪のふもとには、小さな水たまり(清水、泉)が。
 昔は、もっと大きな水たまりだったそうです。
  ここに、高札板を浸しました。
  今は、水はほとんど湧いていないようです。


上流の清水。今でもコンコンと水が湧いています。

火事になれば、何よりも優先された高札の用心。

「そこのけそこのけ、御高札が通る」


家の用心は後回し。
炎の中を運ばれていく高札を、当時の人々はどんな思いで眺めていたのでしょうか。






高札場と火事2.そこのけそこのけ御高札が通る~中山道垂井宿~(前)

2019年03月06日 | 高札
泉の宿場町、中山道垂井宿


浮世絵に描かれた垂井宿

 中山道垂井宿は、日本橋から57番目の宿です。名古屋から大垣を経る美濃路の起点でもあり、中山道と東海道を結ぶ交通の要所でした。

 江戸後期には、本陣、脇本陣、旅宿27軒、総家数315軒の規模を誇り、美濃一宮(南宮大社)参拝の人々も含め、多くの旅人で賑わいました。また、毎年行われる曳やま祭りでは、安永年間創始と伝えられる子供歌舞伎が演じられ、壮麗な3台の山車とともに、往時の垂井宿の繁栄を今に伝えています。


       一勇斎国芳「木曽街道69次之内 垂井 猿之助」

 この浮世絵は、一勇斎国芳「木曽街道69次之内 垂井 猿之助」、オリジナルです。

 木曽街道(中山道)69次の浮世絵シリーズには、国芳によるものの外に、歌川広重・渓斎英泉によるものがあります。

     歌川広重「木曽街道69次之内 垂井」(復刻版)


              現在の同場所(西見附)


 広重の絵は、垂井宿の西の端(西の見附)を描いています。雨の中、旅人はうっそうと繁る松並木を、次の宿、関ヶ原へ旅立っていきます。かなり忠実な当時の宿場風景です


 広重・英泉「木曽街道69次」の方がはるかに有名ですが、市場に出るのは非常に稀です。また、版元がめまぐるしく変わるなど、出版事情が複雑で、どれが初期の作品か、素人には見わけられません。私も、広重・英泉シリーズを、30点ほど持っていますが、全く自信がありません。

 それに対して、国芳シリーズは、オリジナルが結構出回っています。結果、財布にやさしい。

 ただ、広重・英泉シリーズがすべて、宿場町の情景を描いているのに対して、国芳は、それぞれの宿場とは何の関係も無い絵を描いています。歌舞伎や戯作の場面を取り上げて描き、そのタイトルなどをもじって宿場名と無理やりこじつけたものがほとんどです。一種の判じ絵ですね。

 国芳のこの錦絵は、『絵本太閤記』の一場面を描いています。日吉丸(秀吉)が奉公先の子供を井戸の筒にくくりつけて逃げ出す場面です。「樽の井戸」を描いて「垂井」を暗示しています。表題に、「垂井 猿之助」とあるのは、猿に似ている日吉丸の呼び名、猿之助から来ています(描かれている日吉丸は猿には似てませんが)。

 垂井のこの絵も、ことば遊びと宿場名とを結びつける国芳「木曽街道69次」に典型的な浮世絵の一つですね。


垂井の泉

   実は、ここからが面白い。

 国芳は、ただ言葉の綾として、『絵本太閤記』樽の井戸を描きました。ところが、これが予期せぬ大当たり。絵が、現実なのです。荒唐無稽な国芳の木曽街道シリーズのなかで、異色の一枚なのです。

 垂井宿では、多くの泉がわいています。垂井の地名もそこに由来します。また、庭先を少し掘れば、簡単に水がわき、国芳の浮世絵に描かれていた井筒井戸が、どの家にもあったそうです(今も、いくつか残っています)。

 その中でも、一番大きく、有名な泉が、「垂井の泉」です。

 中山道垂井宿の中心部に、南宮大社石鳥居があります。

             南宮大社石鳥居(寛永19年(1642))

 中山道をここで南に折れ、鳥居をくぐって、南宮大社方面へ150mほど行くと、道路脇に「垂井の泉」があります。


                    「垂井の泉」

  「垂井の泉」は、古くから和歌にも詠まれています。  
 そして、芭蕉も名句を残しています。
 元禄4年(1691)年、江戸へ向かう途中、芭蕉は、垂井宿本龍寺住職八世、規外のもとで、冬ごもりをしました。
 その時にこの泉で詠んだ句。
    「葱白く 洗いあげたる 寒さかな




まだまだある泉

この先100mほど西方にも、泉があります。
今回の火事と高札は、その泉が舞台です。
続きは、次回。

ところで、垂井には、どうしてこんなに泉が多いのでしょうか。
 ブラタモリ風に言えば、地形です。
 この地は、伊吹山系と養老山脈の両裾が合わさる所に位置します。この裾が終わる部分が小さな崖になっていて、それに沿って、点々と泉がわいているのです。


 左、養老山脈、右、伊吹山系。二つの山並みの隙間を、垂井、関ヶ原、今須、柏原と進み、中山道は美濃から近江へ抜ける。
 山に降った雪や雨は、川と伏流水となって下流へ。伏流水の一部が、泉となって地表に出ます。泉(自噴水)は、垂井宿周辺と10kmほど下の大垣周辺に多くみられます。




高札場と火事1.高札守護役はつらいよ

2019年03月04日 | 高札
高札場の実際



            歌川芳虎 「東京日本橋風景」(明治3年)

 明治初期の高札場の様子を描いた錦絵です。

 明治政府は、江戸幕府の高札場をそのまま使っていたので、この絵は、江戸時代の高札場の様子を表していると考えて良いでしょう。

 日本橋は五街道の起点であったので、特に立派な高札場が設けられていました。とにかく高い。人々を見下ろす位置にあり、江戸幕府の権威を象徴しています。

 このような重要な高札場は、大高札場とよばれ、江戸には6カ所ありました。そのうちでも、日本橋の高札場は、最も重要とされていました。

 描かれている高札は、地面にさしてあるように見える物が数点あります。が、よく観察すると、やはり、柱に掛けて固定されています。



 一方、現在、全国各地、特に、旧街道筋では、街興しの一環として、高札場の復元がなされています。

                復元された高札場

 この写真のような高札場が当時としては平均的な規模のものだったでしょう。基本的には、各村に一カ所。人の多く集まるところや往来の激しい場所に設置されました。



火事と御高札守護役

   宿場や町中など、家が密集している場所に、高札場は設置されました。このような所は、高札場には適していましたが、その一方で、火事が頻発しました。そのため、大きな高札場では、火事の際、高札を避難させる役割の人が決まっていたようです。

 残された文献資料はわずかですが、そのうちの一つ、岩国藩柳井町(現、山口県柳井市)の大野家文書をもとに、火事の際の高札についてみてみます(『御高札守護役 大野家文書』柳井市立柳井図書館、2003年)。

 柳井奉行(代官)所があった柳井町(現、岩国市柳井)には、奉行所の脇に巨大な高札場が設けられていました。





              柳井津町屋敷割図(文化初年頃)



             奉行所附近、高札場は南東端

 柳井奉行所脇の高札場は、巾7m、高さ3mもの巨大なものであり、16枚の高札が掛けられるようになっていました。
 これは、当時、最大級の規模の高札場ではないかと思います。

 この高札場の管理を、奉行所から命じられたのが大野家です。大野家には、当時の貴重な文書が多く残されて、高札や高札場管理の様子を知ることができます。

 染物屋を生業とする大野家は、代々、御高札守護役をつとめていました。

 御高札守護役の任務は、高札場の管理全般でしたが、特に重要なのは、大風、火事などの緊急時に、高札を避難させることでした。

 大野家文書の中に次のような一節があります。

「・・・・・・右御高札守護役仕候ニ付、平生心得の事、万一出火の節ハ第一遠近を聞き、風なみに気を付、近火は申ニ不及、遠火たり共風なみ悪くして、はげ敷時ハ、本人の儀ハ早束御高札をはずし、御蔵番所へ届け、御蔵の戸まへニ置、夜中成ば此方の烑ちんを燈、気を付候事。依て手伝役えも早束被参候様、手堅く申合置候事也。」

 「御高札守護役を仰せつかっているのだから、常日頃からその事をわきまえ、万一出火の場合には、まず、火事が遠いか近いかを感じとり、風波に気をつけて、近火は当然だが遠火であっても、風波が激しい時は、直ちに高札をはずし、御蔵番所へ届けて、御蔵の戸の前に置き、夜中なら提灯をともして、用心すること。手伝い役もすぐに馳せ参じる事ができるように、しっかりと打ち合わせをしておくこと。」

 御高札守護役は、どんな火事にも細心の注意をはらい、緊急時には、急いで高札をはずさねばならなかった。
 巾7m、高さ3mにもなる巨大な高札場から、16枚もの高札をはずして避難させる作業は、時に、命がけであったでしょう。
 夜中は、退避させた高札の傍に、提灯を置いて用心をした。
 「御高札」守護とあるように、高札は大切に扱われたのです。
 手伝い役もいたらしい。

 このように緊急時の対応が求められたのですが、そのためには、毎日、常に気を配っておかねばなりません。大変、神経をつかいます。家を空けることもままならない。
 高札を守る責務は非常に重く、大野家歴代当主は大変な役目を負っていたのです。

 そんなわけで、大野家四代勘右衛門は、他の人に役を変わって欲しいと奉行所に願い出ました。
 しかし、結局、適当な人材がいないと慰留されてしまうのです。

 やめたいけど、やめさせてもらえない。

        高札守護役はつらいよ!




現存品これだけか?火事にあった高札

2019年03月03日 | 高札
焼け木売るバカ、それを買うバカ


売る方も売る方なら、買う方も買う方です。
単なる焼け焦げた板。しかも、万札1枚。



裏側は


表面が焼け、ススで黒くなっています。裏側の方がひどい。一部は、炭化。

 横90cm、縦45cm、厚さ2.5cm。重さは6kgもあります。
 オリジナルの丸い吊り金具も残っていて、これは間違いなく、高札。

 でも、文字らしきものは見えません・・・・・・かすかに1文字か2文字それらしきものが。


そこで、いつもの強力ライトの登場です。





お、おーーーーー・・・・・・・・

大の男3人(この作業は一人ではできないので、助っ人が他に二人)が、期せずして、感動の大声をあげました(笑)。

これほど劇的に変化する高札板は初めてです。

奉行の文字もくっきりと・・・なんとか、全体が把握できそうです。


高札の内容

何日間も格闘して、やっと読めました。

                 定
       何事によら須よろしからさることに
       百姓大勢申合せ候をととうととなへ 
       ととうしてしゐてねかひ事くわたつるを
       こうそといひあるひハ申合村方
       たちのき候をてうさんと申前々より御法度に
       候條右類の儀これあらハ居村他村に
       かきら須早々その筋の役所へ申出べし 
          御ほうひとして
          ととうの訴人        銀百枚
           こうその訴人       同断
           てうさんの訴人      同断
      右之通下されその品により帯刀苗字も
      御免阿る遍き間たとへ一旦同類に成とも
      発言いたし候ものゝ名まへ申出るにおゐてハ
      その科をゆるされ御ほうひ下さる遍し
      右類訴人いたすものなく村々騒立候節
      村内のものを差押へととうにくわゝらせ須
      一人もさしいたさゞる村方これあらハ
      村役人にても百姓にても重にとりしつめ候ものハ
      御ほうひ銀下され帯刀苗字御免さしつゞき
      しつめ候ものともこれあらハそれそれ御ほうび
      下しおかる遍き者也
         明和七年四月         奉 行


            
何事によらず、良くない事を企み
大勢が申し合わせることを徒党と言い、
徒党して、強引に願い事を企てることを
強訴という。また、示し合わせて居町居村を脱走することを逃散といい、これらはいずれも厳禁である。右の類のことがあれば、居町居村に限らず、すぐさまその筋の役所に通報せよ。
ご褒美として
   徒党の通報者      銀百枚
    強訴の通報者     同断
    逃散の通報者     同断
右のとおり与える。さらに、通報内容によっては、苗字帯刀も許されるので、たとえ、一度仲間になった者であっても、首謀者の名前を申し出れば、その罪をゆるし、ご褒美を与える。また、右の類の通報をする者がなく、あちこちの村々が騒ぎ立った時でも、村内の者を取り鎮め、徒党に加わらせず、一人も咎人を出さなかった村があるならば、村役人であれ百姓であれ、主になって取り鎮めた者にはご褒美を与え、苗字帯刀も許し、続いて鎮めた者達がいるならば、それぞれにご褒美を与える。
  明和七年四月  奉 行

 

 明和七年四月発布の徒党強訴逃散禁止札です。

 徒党、強訴、逃散の禁止を定め(恒久法)として命じ、通報者には褒美を与えると述べています。
  また、通報の内容次第では、苗字帯刀が許され、騒ぎに加わった者でも首謀者の名を知らせれば罪が免除となりました。村内を鎮め、咎人を出さなかった場合、百姓であっても功労者には褒美を与え、苗字帯刀を許すなど、手厚い優遇策を用意していたのです。

 江戸中期以降は、幕府や諸藩にとって、切支丹よりも、民衆が徒党を組んで事を起こすことの方が厄介だったのでしょう。


火事と高札

 江戸時代、家の密集した場所では、火事が非常に多かったので、町中に設けられた高札場は、しばしば、火事の被害を受け、高札も火にまみれました。
 災害時に、高札場から高札をはずして避難させる担当の役も決まっていたようです。

 焼失をまぬがれた高札はそのまま掲げ、一部破損品は補修して再利用、焼けのひどい高札は廃棄処分されました。
 
 この明和の徒党禁止高札は、火事にあいながらも、再利用されることも、処分されることもなく、200年余保管され、偶然、私の手許に来たのです。

 高札の掲示場所や来歴は不明ですが、品物の出所からして、関東地方の高札場の物らしい。

 火事にあった高札。
 現存するのはこの品のみか?