花は桜木・山は富士

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「コロネル・シバ」(中国)

2006-04-05 18:14:52 | 良い話(中国)
パート1・81 :コロネル・シバ :02/02/26 22:25 ID:4/5a+OCu

 ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英同盟が成立した。
同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナルドであった。
マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と
何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、
日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診した。
マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示した。
それからわずか半年後には異例のスピードで同盟締結の運びとなった。

 イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で
利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギリスがその長年の伝統である
「光栄ある孤立」政策をわずか半年で一大転換し、なおかつその相手が
アジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。
その背景にはマグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

 1985(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる獅子」ではなく
「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列強は飢えた狼のように
その肉に食らいついていった。三国干渉により日本に遼東半島を返還させると、
それをロシアがとりあげ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは
広州湾をむしりとる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた
威海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して
香港島対岸の九龍をとった。

 こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の結社があらわれた。
呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても傷つくことはない、と信じ、
「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンとして、
外国人やシナ人キリスト教徒を襲うようになっていった。

 5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅を襲って、火を放ち、
電信設備を破壊した。北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、
天津の外港に停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを
北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加した。
今風に言えば多国籍軍である。

 6月4日、北京?天津間の鉄道が、義和団によって破壊された。
北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。
すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間がかかり、
いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

 北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メートルの方形であり、
ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。
6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス公使館に集まって、
具体的な防衛計画が話し合われた。

 日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であった。
柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参していたが、
始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。
日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、
能力を見極めようという腹だった。さらに東洋人がいきなり議論をリードしては
欧米人の反発を招くということも十分に心得ていた。

 柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合う意見については
「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示し、また防御計画の要については、
ちょっとヒントを与えると、別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、
という形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持っていった。

 6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。
救援部隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備部隊に捕まり、
心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上された。
外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国人襲撃に加わったことに
衝撃を受けた。

 13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。
おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。
しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。
14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト教民の地域を襲った。
凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲鳴が公使館区域まで聞こえてきた。
一晩で惨殺された教民は千人を数えた。

 15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグドナルドを説き、
20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救出してきた。
しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、
柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を提案した。
粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価していた。
柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。

 この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、
公使館地域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。
この事に気づいていた柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。
欧米人と違って、日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつき、
熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍と共に自衛に立ち上がった。

 6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の
北京退去を命ずる通牒があった。抗議に赴いたドイツ大使は
清国兵にいきなり銃撃され、即死した。

 20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と攻撃を始めた。
暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲まで持ち出して、
公使館区域を砲撃した。

 最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリーと
ベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。
西正面と北正面を受け持っていたイギリス兵は、
イギリス公使館が西から攻撃を受けると、そちらに移動してしまった。

 北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間が生じてしまった。
少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北辺の粛親王府が破られれば、
そこから清国軍は区域全体を見下ろし、砲撃することができる。
清国軍は激しい攻撃を加えてきた。

 区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、
粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オーストリー、
ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵達は土地は広く、
建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、「とてもじゃないが守りきれない」と
それぞれ自国の公使団保護に帰ってしまった。

 王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人義勇兵の一人
B・シンプソンは次のように日記に記した。

 数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、
王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々とつづき、
それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。
しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。
公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。・・・

 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。
実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。
ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる

 この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津からの救援軍が
北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は3,4時間。
大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが繰り返し行われた。
総指揮官マグドナルド公使は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。
イタリア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、
イギリス人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。

 6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃が行われた。
多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。
午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げながら
北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待ってから、
内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は20余の死体を遺棄したまま、
入ってきた穴から逃げていった。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大いに鼓舞した。

 イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記している。

 王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。
王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。・・・

 日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では
柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。
わがイギリス水兵がこれにつづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。
 王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも
頼りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が
激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵との間で、
いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦が提案され、
激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、
呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と
判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。

 イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が乱入した時は、
柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。
最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容されていたのである。

 安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、
たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き刺すと、
清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出した。
館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、30余名の敵を倒した。
安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に
避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは讃歎の的となり、
のちのちまで一同の語りぐさとなった。

 後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げた
ピーター・フレミングは本の中でこう記述している。

 戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、
頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮した柴中佐は、
籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。

 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、
この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、
みなの目に映るようになった。

 日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。
籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、
一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。

 救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、
8月13日のことだった。総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた
第5師団が占めていた。その他、ロシア3千、英米が各2千、
フランス8百などである。籠城していた柴中佐以下は、
ほとんど弾薬も尽きた状態だった。

 14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。
その午後、北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。冒頭マグドナルド公使が、
籠城の経過について報告した。武器、食糧の窮迫、守兵の不足、
将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そして公使は最後にこう付け加えた。

 北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである。

 柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、
嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々からも認められた
誇らしい感情を味わっていた。

 柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪を一切許さず、
その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍の間でも評判となった。

 柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズの記者
モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは
欧米で広く知られる最初の日本人となった。
その後、総指揮官を務めたマグドナルドは駐日大使に転じ、
日英同盟の締結を強力に押し進めていくことになる。
柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりから、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と
確信したのであろう。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2010-10-12 17:05:23
柴中佐すげぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!
デッカイ神社つくってお祀りしたほうがいいのでは?
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