日本経済新聞 (大連支局 藤村広平)
2024年6月3日
大連の地下鉄は昨年秋まで日本語を含む5カ国で案内放送していたが……(5月下旬、遼寧省大連市)
「政冷経熱」と言われた日中関係も今は昔。中国では日本企業や日本人駐在員も減って経済関係も冷え込んできた。そんな現実がはっきり見えるのが「親日の町」遼寧省の大連だ。
階段を降りてホームに向かうと「まもなく電車がまいります」という日本語のアナウンスが耳に入ってくる。乗車後も「次は中山広場です」と日本語が続く。本当にここは中国? そうも言いたくなる光景が広がっていた。昨年の秋までは――。
中国東北部の港湾都市・大連で、市内を走る地下鉄の「異変」が話題になっている。中国語、英語、日本語、韓国語、ロシア語の5カ国語で読み上げられていた乗客向けの案内放送が2023年11月以降、中英の2カ国語のみに変わったのだ。
大連地下鉄で最初の路線が開通したのは15年で、地元当局によると5カ国語放送は17年に始まった。「そこまでするか」という声もある一方、外国人に対して門戸を開いた港町の国際色の豊かさを示す存在として親しまれてきた。
日本の租借地だったつながり
大連に今も残る南満州鉄道が運営していた旧ヤマトホテル(5月下旬、現在は改修工事中)
大連と日本とは切っても切れない縁で結ばれてきた。日露戦争後に日本の租借地となり、当時の建物や路面電車は今なお市内のあちこちで活躍している。1980年代後半からは日本企業が大連を加工貿易の拠点を位置づけ、相次ぎ進出した。
蜜月の頂点は2010年代前半だった。日本の外務省の統計によると、大連に進出している日系企業の拠点数は13年に1851社と最多を記録した。この町で暮らす日本人の数も、10〜13年に6000人前後とピークを迎えた。
親日の町を印象付けるこのころのエピソードがある。12年夏、沖縄・尖閣諸島を巡って中国全土で反日感情が高まったときのこと。日系の小売店がデモ隊に襲撃されるなど各地で反日の嵐が吹き荒れたが、大連では表立った反日デモは確認されなかった。
日本語の学習も盛んだ。国際交流基金(東京・新宿)などが主催する「日本語能力試験」の受験者数を調べてみても、大連は13年に1万9450人で、上海(2万2968人)に次ぐ多さ。人口1万人あたりでは大連は28.1人で、上海(9.4人)や北京(5.7人)を大きく引き離した。
響く人件費の上昇 ほかにも…
ところが10年代半ば以降、日本企業の撤退や事業縮小が目立ち始めるようになる。最大の理由は人件費の上昇だ。
日本貿易振興機構(ジェトロ)によると1995年に67ドルだった「ワーカー(一般工職)」の月額平均賃金は2010年までに215.3ドルに上昇。さらに23年には507ドルに達した。「エンジニア」や「中間管理職」は10年代以降の伸び幅がさらに顕著だ。
人件費の上昇は中国全体で起きてきたが、大連は加工貿易の拠点で、日本企業にとって上海などと比べて人件費が低く抑えられることが進出の要因の一つになってきた。その魅力が薄れた今、日本企業の視線は東南アジアなど中国の外に向かうようになった。
中国全体で見ても、日系企業が構える拠点数は22年、ピークより2千カ所以上少ない約3万1千カ所になった。外務省のまとめでは、中国で暮らす日本人の数も23年10月現在で10万1700人と、最も多かった12年と比べて3割以上減っている。
日系拠点数の減少やコストを抑えるための駐在員削減といった面もあるが、アステラス製薬の現地法人幹部の日本人男性が23年に拘束されたことに象徴される政治的な緊張の高まりなどで、現地に駐在したがらない社員や、たとえ駐在しても単身赴任にするケースが増えていることも影響しているとみられる。
大連では他の都市よりも顕著に表れている。現地に進出している日系企業の拠点数は14年以降、集計の基準が変わったタイミングを除けば一貫して前年比マイナスが続いている。大連で暮らす日本人の数も23年10月時点では3067人と、最も多かった11年の半分以下になり、減り方が主要都市の中でも際立っている。
日本語の学習者にとっても日系企業への就職の門戸が狭まっているようだ。日本政府の出先機関である在大連領事事務所が23年夏、日本語教育を手掛ける市内の高等教育機関に実施した調査では、回答した19校のうち18校が「日本語を学んだ卒業生のなかで市内で就職する割合は50%を下回る」とした。
日本からの輸入商品を販売していた中心部の小売店は長らく営業が止まったまま(5月下旬、遼寧省大連市)
日本人と中国人の交流が薄れ、やがて日中関係全体にも影を落とすこともあり得る。市の中心部にある日本の輸入商品の販売店は現地の日本人や「日本通」の中国人に人気だったが、日本人在住者が減ったことが響いたのか長らく営業が止まったままだ。
五重の塔に残る日本蔑視の落書き
地元政府が日本企業の誘致に躍起になってきた郊外の工業団地を訪ねると、公園にある日本風の五重の塔には「鬼子」「小日本」など日本を蔑む落書きがあった。企業の入居が進まず、管理が行き届かない状態が続く。
日本企業の誘致を進めている郊外の工業団地には、日本風の五重の塔が立つが…(5月下旬、遼寧省大連市)
五重の塔には「鬼子」「小日本」などの落書きがあった
「日本語での案内を必要としている乗客が少ない」。地下鉄の案内放送の言語を減らした理由を、地元政府はこう説明している。「日本はこの町に欠かせないパートナーなのに」。毎日地下鉄に乗るという女性会社員の房さん(25)は残念がる。
中国に拠点を設ける日本企業の多くは、中国に経済的なメリットを見いだして進出する。ただ日本企業が拠点を構える効果はビジネスだけにとどまらない。日本企業が拠点を持てば、その町で暮らす日本人が増え、さらには日本企業での勤務を通じて日本に親近感を抱いてくれる中国人も増やすことになる。
大連を歩くと日本語の上手な中国人に今でもよく出くわす。日本語で店名を書いた看板を掲げた飲食店も多い。日本人にとって、今でも大連が住みやすい町であることは間違いない。
ただ、そんな大連ですら日本とのあいだの溝の広がりを感じさせる出来事が相次いでいる。ましてや北京や上海などを含めた中国全体と関係を改善し、さらに発展させるとなれば、その道のりがいっそう険しいことは想像に難くない。
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