
哲学カフェなるものに、初参加。
自転車で会場について、入るとたん、年配女性二人にこれみよがしに「教えてあげようかしら」と聞こえる声で、下品な「わざと笑い」をされた。
その日のテーマが「氣遣い」
挙手から、ファシリテーターに指名されるまで発言しないが、ルールで、
わたしは話題に、先日オランダ在住の幼馴染さんと、日本人が気遣い上手いって、必ずしもじゃないよね、こんな例があるし、で、盛り上がっていたことを列挙してみた。
そのひとつが、着物で自転車乗ってると、年配女性があからさまにぶしつけ笑いするの、氣遣いにおいてどうかと思ってます、も話題に振った。
すると挙手もなく「当たり前じゃない。だめにきまってるでしょ。着物に自転車はルール違反です。着物は内またでおしとやかにふるまうものなんです。自転車なんて乗るのがおかしいというルールで決まっているんです。」
おっと。
ちょっと待った! どこに書いてあるんだい?
「わたしは、着物の日は必ず内またで歩いていますが、巷を着物で歩いている人で、内またで歩いているひとは、めったににいません。
そして着物と言っても、わたしは訪問着の日に自転車乗ったりなんかしません。紬や、こんな今日みたいな普段着クラスでしか、自転車には乗りません。なぜ着物で自転車がだめなんですか?その理由はわたしには全くわからない。」
「だったらいいわ、認めてあげる」
と言われました。
頭下げて認めてもらう内容だとも思わないんですが。
つまりは、着物の格すらも、見分けつかない人たちが、
着物評論家として威張っていいと信じ込んでるわけです。
(だって、わたしたち、日本のこと一番わかっている年齢層よ。)
格を、教わって、はじめて、じゃあいいわ、認めてあげる、なんて恥ずかし氣もなく言えるのです。
おかしい。絶対おかしい。
*
で、哲学カフェ。超有名大学哲学科卒生が、慣れた口調で、好きな理論を展開する。段違いに慣れている議論に、このひとの意見に味方しておこう、という長いもの巻かれろに、変わっていくひとが増える、増える。
場の雰囲気が、この女性二人がわたしのことを認めないオーラばりばりなので、わたしが何を話しても「ちがうわよね」の耳打ちではじまる。
うーん。その場のルールはある。
皆で一緒の統一見解を、意見一致の和をつくることを目的としてない、
反対意見を持つのは自由、
相手を否定しない、などと。
だけど、もう、意見いうのやめた。
ルール守れず、否定したい、気持ちバリバリのひとの中で、結局は何を話したところで、あんたをみとめたくない、がベースで、意見されると。
うーん。聞かれる姿勢のないところで、発言の価値はないだろう。発言をやめた。
日本人はどうしても、その場の皆が和を求める方向にいく。
違う意見を持つ人の存在をいい、なんてしない。
意見を持つな、黙ってきいていて、になる。
ルール守らない中での哲学って、なんだろう、と思った。
*
ただひとつ、よいな、と思ったのは、
哲学カフェ・フリークの人が県外から来ていて、
色んな意見がでまくっているとき
「あぁ、なんだか、どの意見もわかってもやもやするー!!」と叫びだされたこと。
実は、この、もやもやの、物事が、決まった、とはならない
意見が違うひとがいる、というのが、さらに、もっと自我の思考を深める、などに結び付くので、それこそが良しとされ、
「全員が共通認識をもつこと=思考を止めること」がゴールではないのだと。
いかに、このもやもやを、不快と思わず、
「みんなちがってみんないい。ほかと違うわたしはわたしのままでいい。」
と、自分に肯定を続けていけるのかと。
非常に興味深い!哲学!
ここで、わたしはやっぱりわかったのが、
自分はやっぱり「ことば」そのものの力にこだわって考えたいこと。
その定義に関心をみせるひとはいなくて、
今日がたまたまなのか、哲学的には、重きをおかない場所なのか。
そう、つまり、
もっと意見だしたかった(笑)
いやあ、十分だしたでしょ?と言われそうだけど、さ(笑)