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サワノのお気に入りだけで構成するブログ

鶴ヶ城

2013-08-18 | 国内旅行

「歴史の中で 都市ひとつがこんな目にあったのは 会津若松しかない」

(司馬遼太郎 「街道をゆく」より)

 

 

 

そんな会津の歴史を象徴するのが、天下の名城、鶴ヶ城(若松城とも)。

現在の天守閣は 1965年(昭和40年)に鉄筋で復元されたモノです。

天守閣が見えた瞬間、ああ キレイだ  と思いました。素直にね。

戊辰戦争の折 新政府軍から逆賊とされた松平容保の会津勢が篭城し

板垣退助率いる迅動隊(土佐の主力部隊)、それに加わる薩摩の援軍の攻撃に抗戦するも

一ヶ月後 ついに降伏勧告を受け入れた。

新政府軍による砲弾を受けた会津城(Wikipediaより写真 拝借)↓↓ 

            

コチラでも写真見つけました  「国立公文書館デジタルアーカイブ 若松城写真」

お城ってこんなにぐずぐずになるんだなぁ....なんとも痛々しい。 

公文書館にあるこの写真は1873年(明治6年)に撮影されたもので 翌年に解体されています。

 

本来の姿は「鶴ヶ城」という名がつく位 凛としてキレイだったはず ↓↓

桜の頃は本当に素敵だろうな 

       

天守閣にのぼると 360度 城下の町が見渡せます。

こちら 白虎隊で有名な飯盛山方面を望む。↓ この矢印の真下 手前の山です。

望遠鏡をのぞいていた家族連れが「白虎隊のお墓が見える」って言ってました。

そしてこちら 新政府軍が鶴ヶ城攻撃の拠点にした ↓ 小田山。矢印の真下、手前の山。

 

....ち、近い。

天守閣内に展示された小田山を示す地図と実際の風景を何度も確認しながら

観光客の誰もが その近さに驚いていました。

あんなトコロから砲撃されたら相当コワイだろうな。

私のカメラのレンズは単焦点、いわゆるパンケーキ()なので

天守閣から見える飯盛山と小田山の距離感は 写真のままです(ズームしていません)。

苦戦を強いられ撤退を余儀なくされた白虎隊が 命からがら落ち延びた飯盛山で

戦火に燃える城下町を目撃し自刃を決意するのが 鶴ヶ城からおよそ5キロの距離。

それに対し 新政府軍が鶴ヶ城総攻撃を仕掛ける小田山はわずか1.6キロの距離。

鶴ヶ城天守閣を見下ろす小田山のアームストロング砲(四斤山砲とも)の射程距離は

2キロを越えていたそう。

 

 

「会津戦争記聞」 ↓ (城内の展示から写真を撮ったので写りが悪くてゴメンナサイ!)

右から梶原兵馬、護衛される松平容保、内藤介右衛門、玉木勇女、中野竹子、原田対馬、

それから 山川大蔵(←ちょっと覚えておいて下さいこのヒト)。

左奥には 山県、伊地知、板垣、西郷の新政府軍が迫る。

戊辰戦争において 会津藩は女性も含めて全藩士が戦争に参加したことを題材に描かれたもので

実際にはこのような場面はなかったとされますが なんだかこの絵がとても気になりました。

もっといい写真撮りたかったぁ。

「会津軍記」 ↓↓

中央の松平容保が降伏状を渡すのは板垣退助、中村半次郎(後の桐野利秋)。

中村半次郎はこのとき 会津に同情し 男泣きに泣いたとされています。

会津藩士に親身だった対応を感謝し 後に容保が宝刀を贈っている。

(こちらも実際には参加していない人物が描かれている。錦絵ってそういうモノなんですね)

お城の展示を見ていて気になったのが 山川大蔵(←このヒト)による「彼岸獅子」敵陣突破策。

鶴ヶ城の篭城戦が決定されると 各地に派遣されていた部隊に帰城命令が下る。

大鳥圭介とともに日光口方面の国境警備をしていた山川大蔵が城下に駆け戻ると

鶴ヶ城は敵の包囲網の中にあった。

そこで思いついた奇策が 会津伝統のお祭り 彼岸獅子の格好で 包囲網を破るという作戦。

激戦の最中の祭り囃子に 新政府軍はあっけにとられてただその入城を見ていた という逸話。 

新政府軍の 武士の情けという説もあって 私はこちらを支持しちゃいますけどね....。

山川大蔵が守備していた日光口の守りが堅く

そこから会津に攻め入ることが出来なかったのは 板垣退助と谷干城。

谷干城は武市半平太の尊王攘夷に傾倒する中で

坂本龍馬や後藤象二郎とも交流を持ち 次第に影響されて倒幕派になった。

中岡・坂本が暗殺された近江屋事件に真っ先に駆け付けた 龍馬を敬愛する人物として有名。

明治になって 谷は戊辰戦争での腕を見込んでいた山川を探し当て自分と同じ陸軍に推挙する。

後の西南戦争では 熊本鎮台司令長官を勤めて4000人で熊本城に篭城し

西郷軍14000人の攻撃に耐えることになったのですが、このとき山川は

谷がこもる熊本城に 薩摩軍の包囲網を撃破し 一番乗りで谷を救出するのです。

山川大蔵、二度目の包囲網突破。谷とは生涯の盟友であったらしい。

こんなふうに続く歴史もあるんですね。

しかし 西南戦争に参加する際の山川大蔵の句はややショッキングでした。

「薩摩人 みよや東の丈夫(ますらお)が 提げ佩く(さげはく)太刀の利(と)きか鈍きか」

薩摩の人は 会津の男が持つ太刀がいかに切れるか見るがいい、という意味と思われます。

西南戦争は 会津の深い恨みをもって 会津戦争の復讐と位置付けられました。

憎悪なんてモンじゃない、こんな風に続いてしまう歴史があるんです。

更には 明治16年、山川大蔵の妹 山川捨松の夫となるのは かつての薩摩藩士 大山巌。

大山巌の薩摩軍が会津戦争の際に攻め入った(が初日に負傷して護送)鶴ヶ城には

まだ8歳だった捨松と その家族が篭城していたというから 歴史って実に人間臭い。

 

 

 


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