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ベルリン アンダーグラウンド

2009-11-15 | ベルリン旅行 090516~
11月9日、ベルリンの壁崩壊から20年でした。
ベルリンでの記念式典では かつて東西を分断していた壁のあった場所に設置した
巨大ドミノ倒しに盛り上がっていた様ですね。
これに関連したニュースやTV番組、映画の放送も多くありました。
今回は知られざる(?)ベルリンのアンダーグラウンド、
地下の世界を特集した番組から 気になったものを載せてみます。

↑トップの写真は
ベルリンから帰ってきてすぐ記事にしたドイツ連邦議会議事堂の地下。
白一色でまとまったキレイな通路を進んで行くと突如現れるこの石作りのトンネル。
これは1933年の原因不明な火災で議事堂が炎上した際に
(いわゆるナチスの自作自演と呼ばれる放火です)
放火犯が通ったとされる地下通路入口なんだとか。
修復の時、取り壊しも検討された様ですが 一部残したそうです。

↓そしてコチラ。
議事堂内に現在も「見せている」ソ連軍の落書きです!
左側の壁にぎっしり。





ベルリン攻防戦でソ連軍はココを主要攻撃目標に定めていました。
実際、徹底して破壊した様ですが
当時のナチスにとって(自ら放火したと言われる様に)
それほど重要な場所では無かった様です。
ああ、窓の外に見えるのは↓てっぺんのガラスドームです。





二次大戦が終わり、敗戦国ドイツは連合国とソ連によって東西に分断されます。
東ドイツにあった首都ベルリンもまた
壁によって西ベルリンと東ベルリンに分けられてしまいます。
この時、当然 分断されることを想定していない地下鉄には
(地下鉄は西ドイツの所有とされた。一方Sバーンと呼ばれる近郊鉄道は東ドイツ)
路線上の一部、数駅が東側の領域に入ってしまうため
電車が止まることが出来ないといういくつかの駅ができます。
ホームには誰一人いないことから、これを「幽霊駅」と呼んだそうです。

ホームに誰一人いない....というのはウソですね。
電車が止まらない無人の駅にも東ドイツの国境警備兵が置かれました。
↓これはベルリンの壁が崩壊した2ヶ月後の地下鉄構内の写真。
壁が崩壊し東西の往来が自由になったにも関わらず警備兵が居たそうです。
この写真を撮影しようとしたところ、彼らから注意を受けたそうですが
彼ら自身 何を注意していいのかすら分からなくなっていた、とのこと。





社会主義体制の崩壊。
東西統一に向けて めまぐるしく動き出した時代の流れ。
それに翻弄される彼らの表情がなんともリアルでなりません。
壁は1961年から1989年まで 28年間存在したので
まさに彼らは ドイツがふたつに分断されている中で育ってきた世代です。



「ベルリンの壁」は 地下にも存在していました。
↓これは地下下水道の東西を隔てる壁。
柵は切断しにくい作りになっている上
何かあれば すぐに監視兵に知らせるセンサーが取り付けてあったそうです。





↑このレンガの「ベルリンの壁」には中央に壊そうとした跡がありました。
ところがレンガの奥に鉄板が現れ、そこで作業は止まっていました。
ガッカリしてあきらめたのでしょう。
実際にはレンガの奥に分厚い鉄板、その奥にまたレンガ、
異常を知らせるセンサーとモルタルの壁、
コレだけの物を突破しなければならなかった様です。



↓映画のモデルとなったことでも有名なトンネルの入口。
ここはまさに私が訪れたベルナウアー通りの二重構造の壁の地下を掘ったもの!
私の見てきたベルナウアー通りはコチラからベルリンの壁







このトンネルを掘ったハッソ・ヘルシェル氏の言葉が印象的だった。
ドイツの人々に「民族の誇りを持っているか」と聞けば
大抵の人は首をかしげるだろう。
私達は(20世紀の歴史において)ドイツ人であることに誇りを持てない。
同じ民族同士が対立したツケを背負わされ 戦後の再教育で深い傷を負った。
という内容だったと思います。

そんなことない。
アジアの小国、いち日本人から見た限りですが、決してそんなことはない。
ヨーロッパの街を歩いていて戦争に関するモニュメントは
旅行者の私でさえも 必ず見掛けるモノだけれど
ベルリンには他の何処の街よりもそれが多かった。規模も大きかった。
転じて同じ敗戦国 日本はどうなんだ?
この国にはどれだけの慰霊碑が存在するのだろうか?

ドイツの人々には民族の誇りがあるからこそ その傷が深いのです。



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