心の敷石

Candyの 思いつくまま気の向くまま

脳死を人の死と認めることには反対です…④

2009年06月29日 | 脳死・臓器移植

先日、衆院での脳死法案(A案)通過には、正直驚きました。まさか一番可決して
欲しくなかった案が通過したなんて…

国会の先生方は、はっきり言って平均年齢も若いわけじゃないからもっと保守的に
この問題を考えていると思っていたけど、見事に憶測が外れてしまいました。

それにお仕事柄お付き合いも多いから、今までに多くのお知り合いの方を亡くされ
ているだろうから、きっと人の死という事に対しては慎重な態度表明をするのでは
ないかという期待も見事に裏切られてしまったようです。

それにしても一体全体、国会のお偉い先生方は何を考えて「A案」に一票を投じたの?
もしご自身の子供や孫が「脳死状態」になったら臓器移植に応じる覚悟はあるの?

というより、それくらいのことは喜んで受け入れるという決意も無しにA案に賛成
したとするなら、「国家の舵取りをお任せできる政治家としては」すでに脳死状態
だと判断したい気持ちです。

古今東西、いや人類の歴史始まって以来の「死の定義」は、「崇高なもの」である
はずです。現在の西洋医学という限られた狭い立場からの「延命の可能性があると
いう仮定を前提にした臓器移植」のために、何ゆえに「崇高な死の定義」まで踏み
にじる必要があるのでしょう?

脳死を人の死と認める国会の先生方に、自らが犯している愚行を理解してもらう
のは無理みたいだけど、いつかは必ず「日本の議会史の汚点」として見られる時代
が来ると確信しています。



かく言う私自身も家族を脳死で亡くした一人です。もともと脳死を認めていたわけ
ではなかったけど、実際に経験した立場として嫌というほど「脳死が死ではない」
ことを思い知らされました。

我家の場合、事故で頭に損傷を受けてしまい、集中治療室に入れられましたが脳内
の出血がひどく、その後脳死状態になってしまいました。

だから今までの記事①~③にあるような内容は他人事として転載したわけではなく
共感・実感です。実際、亡くなる前の面会時間には涙を流していました。集中治療
室は1日に3回か4回の面会時間(1回30分)があるのですが、その亡くなる前
の面会時間の時に涙が流れて、きっとそれが別れの挨拶だったのでしょう・・

上記と矛盾するけど、正確に言うと「最後の面会時間」はもう1回ありました。
でも、その時にはもう亡くなっていたのです。これは信じてくれなくても構わない
けれど、私にはわかったのです、もう魂が抜けてしまっていたのが。

治療室に入るなり、そこに横たわっているのが息をしている肉体ではなくて、石の
ように冷たい物体に感じました。その時に、何故昔から遺体のことを「亡き骸」と
呼ぶのか、骨身に沁みて分かりました。「ああ、魂が抜けてしまったから亡き骸と
言うんだ。でもどうして…まだここにいるの?今どこにいるの?」

その時は「何故皆には分からないのだろう?」という気持ちが結構強かったけど、
今考えると一般的にはそれが普通なんでしょうね。「私には魂が抜けているのが
分かった…」なんて言っても、白い目でみられるか、精神か頭の状態に同情される
かが関の山だったでしょう。


でも、やはり(だから)脳死に対しては「反対」の声を上げずにはいられません。




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