心の敷石

Candyの 思いつくまま気の向くまま

臓器移植はしないという選択

2009年06月29日 | 脳死・臓器移植

脳死問題にとって切り離すことが出来ない臓器移植ですが…

「臓器移植をしなければ命は長くない」ー世の中には家族がこのような宣告をされ
てもあえて臓器移植を望まない人達も少なくないと思います。

例えそれが可愛い我が子であったとしても、そのような運命(宿命)を受け入れて
残された日々を大切に過ごされている方達がおられるでしょう。「諦め」という
境地からではなくて、言うならば達観した境地からそのような「積極的な選択」を
されているケースを、周囲はどう見るのでしょうか?

「親に臓器移植をしてもらえない可愛そうな子供」…そんな風に同情の目を持って
みる人達もいるのでしょうが、私はそのような選択を評価します。

でも、臓器移植とか脳死を考える場合に、「命」とは何かという事についてどう
考えているかで、結論は正反対になってしまいますよね。臓器移植賛成派には、
「死んだらそれまで」という考え方が多いと思われます。

人の命というものを、この肉体というものに限定して考えるなら、それを延命出来る
可能性のある臓器移植に賛成する人達の論理は正しいのかも知れません。

それでも脳死患者から臓器を取り出す時に「涙を流したり」「のた打ち回ったり」
することがあるという事実を知っても、脳死は死であると認める気持ちに変わり
ないのでしょうか。

どっちみち脳死になったら「痛みも苦しみもない」と考えるのか、「脳死状態で
生きてる事になど意味が無い」と考えるのか・・・



そして臓器移植にかかる巨額な費用の問題があります。多くの臓器移植のケースで
「不特定多数の人達からの募金」が行われています。この募金の対象者になった
場合(職場や学校などの組織で募金を募る場合)それを拒否することは、「余程の
ケチ」か「冷たい心の持ち主」というレッテルを貼られてしまう恐れがあります。

私も過去2回ほど、このような「半強制的な善意の募金」に従わざるを得ませんで
した。個人的に臓器移植には反対だからといって募金を拒否する勇気はありません
でした。

世の中には、きっと私と同じように、臓器移植(脳死)を認めていなくても募金を
してきた人達は沢山いるだろうと思います。でも、決して口に出して「私は臓器移
植に反対だから募金はしません」とは言えないでしょう。

たぶん表向きは「喜んで」募金に応じざるを得ない人が大半だと思います。1人
あたり「たった500円か1000円の募金」だとしても1万人でやっと5百万円
か1千万円です。おそらく数万人かそれ以上の規模の人達からの募金がなければ、
余程の資産家でもない限り脳死のドナーからの臓器移植は無理な話です。

そして募金で集まったお金で手術しても、余った多額の額を返済するわけでも何ら
かの寄付にまわすわけでもないケースが多いという事を、相当以前の話だけど、
作家の家田荘子氏がTVで話していたことを覚えています。

当時は子供の臓器移植のためにオーストラリアに行くケースが多く、集まった多額
の募金を使い切るために、現地で一軒家を借りたり、高級車を買って病院通いを
したり、毎週のように高級レストランで豪華な食事とか、派手な退院パーティーとか、
多くの家族の目に余る行為に呆れた話をされていました。

現在はそこのところがどうなのか、何か圧力でもかかったのか、そういう事を口外
する著名人を知りません。最近はアメリカに行くケースが多いようなので、そこまで
金銭的な余裕はないかも知れません。

でも募金額もきっとそれに合わせていると思われますし、我子可愛さとはいえ成功
(延命)が約束されたわけでもない臓器移植のために、死んでいるという証明も
出来ない人間の臓器を取り出して我が子に移植する行為のために「見ず知らずの何
万人もの人達」から巨額な募金を受け取るということ拒否しないという点では今も
変わりはないでしょう。

「命を救う」という美名の下に、「子供の命を救いたいという親の気持ち」に対す
る同情心ゆえに、客観的で冷静な思考が傍らに押しやられているように思います。

 ※独り言…事故で亡くなったマシュー君とお母さんへのメッセージに対する甘い
      評価にも、こういう心理(情に掉させば流される)が働いているかでしょう
      か。夏目漱石の「草枕」の冒頭にあるこの言葉、ホント名言。

というような訳で、まだ理由はあるけれど、臓器移植をしないという選択はもっと
もっと尊重されるべきものだと思います。





最新の画像もっと見る